月をさらい出す者
彼にとってそれは深刻な悩みだった。
幼い頃から両親にさえ打ち明けられず、そんな自分が情けなく、悔しくもあって、その感情を————いや、欲求や希求とさえいえるその我欲を解消しようと、身体を鍛え、剣の道に打ち込み、軟弱な己を鍛え、厳しく律しようとしてみたりもしたが、全ては無駄だった……。
彼の欲望は、切に、まるで人を助け、魔界深くに堕ちていった、ルシファーの苦悩のようであるかのように、絶望的な深淵を見始め、己ですら制御が難しいと感じるようになっていた……。
————いいなぁ……例えどれほど顔面が不細工で、足がジュゴンでも、女の子は可愛いプリーツの入った、風に広がるスカートをはいて、フリルのついたブラウスが着れて————
親戚の結婚式に招待されて、綺麗なドレスを身に纏い、美しく髪を飾り、ティアラを付けて笑顔で歩く、しかも何度も、その美しい衣装や髪型までをも替えて、晴れやかな姿で出て来たりする花嫁なんかを見ると、なんとも言いがたい感情で、胸が一杯になり、いつも喉の辺りに、何かが痞えてとれなくなり、奇妙に哀しくて涙が出そうになった。
『俺も着たい!!!ただ、着たいだけなんだ!! 別に男が好きだとかそういう趣味は毛頭無い。そう言った意味では、可愛い女子が好きだ。ただ、どうしても……やわらかな肌触りで、明るい色合いでレースやシルクの服がっ……あの手触りを、躰に纏って、肌で感じて、全身で満足したいだけなのだ………だが、一般常識から見ても、俺は〝変態〟の部類に入るであろう。その自覚はある。だからこそ、我慢してきた……』
誰かに理解されるはずも無い感情。日ごとにつのるストレスに、大輝は圧死寸前だった。
そんな事ばかりに考えが向いてしまい、集中力を欠いたのか、大輝は剣道部の練習中に、不注意で足のじん帯を痛めてしまい、今は部活を休んでいる。
いつもなら暗くなってから通る、生徒玄関を出て、校門へ続く道へ向かおうとした大輝の頭上で、『あっ‼ 』という声がした。
思わず身構えて振り仰ぐと、一枚の薄い布が、天女の羽衣のように、碧空を大輝の頭上へ、ふうわり、と舞い降りてくる。
(?!なんだ!?なんて……綺麗なんだ、羽みたいに舞って……透明で、柔らかそうで……嗚呼……)
自然と手が伸び、大輝は咄嗟にソレをつかんでいた。
「すみませーん。針付いてるから気をつけてください。丸めて放り上げてくれると助かります」
「丸めてって……こんな軽いもの……無理だろう……?」
「そうですか?結構重いんですよ?ロングのベール作らされてるから。レースもアンティークチックなヤツだし」
その二階の窓の上から降ってくる、何処かウスラボンヤリした呑気な声に言われながら、大輝は無意識にベールに手指を這わせていた。
予想よりも柔らかくて、優しい感触だったが、レース部分は思ったよりも硬かった。
「そこの人……ええと、二組の……?」
「上原大輝だ。お前、職業科か?」
「はい。一組で家政科の中森仁水です。ちょっと待っててください、今とりに行きますから」
仕方ないというフリで、了承の返事をしたが、大輝の鼓動は、いつもよりかなり速く打ち、小刻みに震えてしまっている指は、しっかりと薄くて柔らかな、大輝の竹刀を持つ、タコのできたゴツゴツした手指が触れていたら、溶けて無くなってしまいそうな、儚いベールの感触を楽しんでいる。
(ベールを作っていると言う事は……アイツはドレスも作っているのだろうか……? どんなデザインで、手触りなんだろう……見せて欲しいなんて言ったら、変人だと思われるだろうか……中森って、確か三組に双子の妹が居たよな? 物凄く可愛いから男子に人気があったはずだ……うん、三組の中森はくりっとした目や、可愛らしい動きと、高くて小鳥のような声だが、アイツはまるで昼行灯のようだった……似てない双子だな。噂どおり)
降りてきた仁水は、肩の辺りで乱雑に整えられた、少々ワイルドな髪を、邪魔なのか後ろだけ結わいていて、皆が言うほどの不細工ではなかったが、双子の妹の友誉に比べると、はるかに地味で、どこかとっぽい兄ちゃんを思わせ、背も高く華も女らしさも足りない。
明らかに妹に見劣りする外見ではある。
今も学校の指定ジャージに、被服室とマジックで書かれた、便所サンダルのようなゴムの突っかけサンダル姿だ。
(女の子に対して失礼だが、どこかの抜けたやる気の無い、浪人生の兄ちゃんに見えるな)
「……似てないな……」
「……ああ。友誉に? あはは、子どもの頃からよく言われます。二卵性だから、一緒に産まれた兄と妹みたいなものだって、お互いに思っていますし。とにかくありがとうございました。汚れると面倒になるから、本当に助かりました」
心底からそう言って丁寧に礼を述べる声も、どちらかというと低くて少し甘くかすれている。
そんな風に、律儀に頭を下げる仁水の笑顔は、穏やかでひどく優しくて、微笑まれてしまうと悪い気はせず、ちょっと笑い返してベールを手渡そうとした。
次の刹那、大輝の指にツキンと痛みが走る。
ベールを返して、自分の指を見ると、親指に血が玉のように盛り上がっていた。
その指を大輝が舐めたのを見た仁水は、ポケットからバンソコを出して、大輝に差し出してくる。
「これくらい何でもないから。いらない」
そう言って断った大輝に、仁水は笑顔で謝ると、『小さな傷でも、まち針とかだとばい菌が入ったりするから、洗って、張って置いて下さいね』と、バンソコを押し付けると、純白のベールを肩に引っかけ、馴れた様子で持つと、さっさと被服室へ帰ってしまった。
この高校へ入り、一年以上 経つが、今まで家政科の人間とは、接点が全く無かった大輝が、初めて家政科の生徒と接触した出来事だった………。
しかも、あの布地の感触が、ずっと、大輝の手にのこって、大輝を悩ませる元になってくれた。
最近の仁水の日課は、夜の散歩だった。
昔からの趣味ではなく、最初のキッカケは眠れなくて、晴れて雲のない夜に、月を見ながら散歩をしたら、なんとなく気が晴れて、日課になってしまったのだ。
眠れない理由は、はっきりと判っている………。
だから、仕方ないと思う。
この運命に逆らおうとも思わないし、ソレが自分なのだと、夜風に靡く髪を感じると、心のどこかの、スンとした言いようのないさみしさが、ほんの少し癒やされるのだ。
今はただ………友誉のシアワセをだけを願っている……。
同じ部屋で眠っている友誉に心配をかけたくなくて、いつも友誉が眠ってから、こっそり出掛けるのが、当然の習慣だった。
さいわい友誉は寝付きが良い上に、大きな地震が来ても起きないぐらいなのだ。
はっきり言って、一度寝ると朝まで起きない。
「……今夜は満月か……どうりで明るいわけだなぁ……」
誰かに聞かれる事もないだろうと、独り言を言って、月に向かって手を伸ばし、手の届かない何かを求めるように、月光を浴びていた仁水の目が、公園の隅にいる物体を、視界の隅に捕らえる。
ふわり、ふぅ〜ふわりと舞う、白いモノ……まるで、何かを探すように、月光の下で動いている。
「……っ、幽、霊? ……まさか、ね……」
自分に言い聞かせるように呟いて、目を凝らす…………。
白いものの正体は、きちんと両足が生えている……その足には、運動靴としか呼びようのない、武骨な靴を履き、月夜にクルクル、ふわふわ、まるで悪戯な妖精のように、身軽に踊っている。
(あれ……? 確かあの人は……)
もう一歩近づいて、確かめようとした瞬間に、向こうが仁水に気付いた。
次の瞬間、幽霊のような白い姿が仰天したように駆け出す。
すると、同時に仁水の足も、猛ダッシュで白い人影を追いかけていた。
(あれ?…… なんで私追いかけてるんだ? 思わず逃げるモノを追いかけるなんて、犬か?……私は……友誉にまたバカにされる。よそう。この前、ベール拾ってくれた人かと思って追いかけたけど、男子なんだし、よく考えたら、ああいうのが趣味だと、あまり他人に知られたくなくて逃げたんだろう……)
息を弾ませ、仁水が足を止めた瞬間、やや先の方で『ぎゃぁぁ〜〜!!!』という、帆布でも引き裂いたような、絶叫に近い悲鳴があがった。
好奇心に負けて早足で近づいてゆくと、街灯の下でうな垂れている人は、間違い無くあの時の男子生徒だった。
「あの、大丈夫ですか……?」
キッと、今にも剣のひと突きで殺されそうな、鋭い目で睨まれ、思わず仁水の足が一歩引いてしまう。
「この野郎……大丈夫なもんかっ!木の枝に引っかかって、俺の大事な……大事なこの、布が……これを買うのにどれだけ俺が勇気が要ったか、貴様なんかに分かるわけは無いだろうがなッ?!畜生がっ……」
「はぁ……⁈ 」
布……彼は確かにそう言った。
仁水が注意してみれば、彼はサテンとオーガンジーの布をそのまま、ただ躰に巻き付けて、色気も素っ気も無い、革のベルトで止めてあるだけの姿だ。
(……と、いうことは、少なくとも彼は仕立ててもいない布を身に纏い、月夜の公園でクルクル廻っていたわけで……申し訳ないんだが……何故か、酷く悲しくなるのは、私だけだろうか……)
木の枝に引っかかり、裂けて破れてしまったオーガンジーと、サテンの裾を持って佇む彼に、仁水は数歩近寄る。
「サテンは切れ目が入ってしまうと、簡単に手で裂けてしまうような布地ですし、オーガンジーは、縢った所が、目立つので、スパンコールやレースで、デザインでしたようにしますので、少し誤魔化して、繕わせて下さい。私のせいみたいだし、少し時間をくれれば、精一杯綺麗に繕います。ええっと。そうですね……あなたの都合が大丈夫なら、明日の夜まで、とかじゃダメですか……?」
その言葉に、ハッと我に返った大輝の顔面に、見る見る血が上ると、首まで真っ赤に染まっているのが、月の明かりでもよく見えた。
「う……あ。い、や……その、これは……違うんだ。満月に、つられて、だな、つい、冗談で……」
(冗談で布地重ね着して踊っていたわけか………この人、確か剣道部の人で。かなりの実力でだとかで……成績も良くて女子にモテるって聞いてるな……ああ、よくみれば、顔立ちも、整ってるか。でも、ストレス溜まってるんだな………人生色々だよな。ちょっと頭がおかしくなってる女が、深夜に散歩してて、奇妙な先輩男子に出逢いました………オズの魔法使いみたいだ。うん、ドロシーみたいな可愛い服とか、本当は着たいんじゃないのかな……?)
「完璧に修復とかはできませんけど。あの……材料はレースも端切れを沢山持ってますし、スパンコールや何かの飾りも、余ってるのがありますから。気にしないで大丈夫ですから。ご迷惑でなければ、私に繕わせて下さい」
「…………気持ち悪いって、思ってるんだろ? バカみたいだって……そんで、学校で言いふらして、俺のこと笑ってやろうって、そう思ってるんだろ……」
「いいえ? べつに。どうしてそんな事思うんですか?……だって、それで上原さんが、誰かに迷惑をかけてるとかじゃないですし……それに、その生地繕うのもしますけど。私でよかったら、サイズの合うワンピースとか作りましょうか? あ、その場合は、生地代は実費で出して貰わないとですけど。私、お金無いんで……どうですか?」
真っ直ぐに見上げてくる仁水に、大輝の方が戸惑ってしまう。
「そ、お、前。一体何なんだよ?!だって、こんなのっ、普通気持ち悪いと思うだろうがっ!ど、どうって、言われても……」
大輝はは意外と背が高くて、170近く身長のある仁水でさえ、少し見上げてしまってから、フッと微笑んでみせると、手を伸ばして、大輝がのろのろと脱いだ、二枚の布地を受け取る。
彼は中に、Tシャツとジーンズを着ていた。
一方の仁水は、スゥエット姿でやはり、女性用では無いスニーカーを履いている。
もしかしたら、サイズがないのかも知れない。
(足も手も、随分デカイ女子だよな……でも、綺麗で器用そうな細い指してるよな、俺なんかと違って……)
「考えておいて下さい。だって、仕立ててもいない布地着るなんて、淋し過ぎますよ。家政科魂が燃えます!是非、やってみたいです。肩幅とかが気になるのなら、そうは見えないように、可愛い感じのデザインとか、リクエストしてもらえれば、頑張って似合いそうなデザインとか、考えさせてもらいますから。私は勉強になりますし、ギブアンドテイクって言うんですか?一石二鳥です。コレでも縫うのもデザインも早いですし、被服の先生は私に太鼓判押してくれてるんです。だから、普通は数人でやるウェディングドレスの制作も、私は一人でまかされました。学校祭で展示するんですが、皆自分が着たくって、誰のサイズで作るか揉めてましたよ?私は自分のサイズでは作りませんでした。身長が高すぎるのと細すぎるので、標準体型のデコルテに合わせて、それに近い体型の女子が普通科にいたので、発表会で着てもらう約束なんです。あ、脱線しちゃって済みません。だから、ワンピースとかなら、二・三日ですし、ドレスも作りますよ?女性の服、着るのが好きならどうですか?お手伝いしますよ……誰にも言いませんし」
「…………本当に? からかってるとかじゃなく。本気か?……しかも、誰にも言わないだなんて、信じられるか」
疑り深い大輝の言葉に、仁水は可笑しくなって笑いだす。
「私、双子なのに、友誉みたいに可愛くもないし、自分で自分を飾り立てたり、お洒落するとかって、全然興味ないんですけど、服を作ったり、デザインしたりするのが好きなんです。家事とか裁縫しか、取り柄ないし……だから、ご迷惑じゃなければ……何となく楽しそうだなぁ、と思ったので……お願いします。こんな所で、真夜中に満月が出逢わせてくれたご縁です。ムーンレイカーって知ってますか?湖に映った月をさらい出そうとする、愚か者のことだそうですよ。まぁ、ソレにはちょっと理由があって、結局バカにされて笑いものにされた彼等の勝ちだったんですけど、ね。人生って分からないですよね………?」
ザワリと吹いた風に、髪が乱れて、仁水は目を細めて月を見上げた。
(……変わったヤツだな……でも、嘘は言っていないように思える)
「じゃぁ。その、布。悪いけど……頼む」
「はい。確かにお預かりいたしました。明日までには仕上げられます。明日のこの時間に、ここでお返しするので、大丈夫ですか……?」
「あ、ああ……頼む」
その言葉に頷き、頭を下げると、笑顔で去って行く仁水を見送ってから、大輝は気付いた。
————しまった。もっと、しっかり脅すぐらいの勢いで口止めするの忘れてた。女なんて口が軽い生き物なのに。口が固いなんて、自分で言うヤツほど、絶対言いふらしてくれて駄目なんだよ————
ガシガシと頭を掻きむしってみたが、後の祭りだ。
明日アサイチで、校門で待ち伏せするしかないと決めたが、同級生の妹が居るんじゃ、家で話されて、結局は意味が無いようにも思える。
だが、やらないよりかはマシに思えた。
部活の朝練よりも早い時間に、校門脇で大輝が立っていると、友人達に『誰待ってるんだー?』『告白か⁉』等と言う冗談をかまされたが、現実はそれ程、呑ん気な問題ではない。
———大輝の平穏な高校生活がかかっている大問題なのだ———
女装趣味の変態剣道部副主将。などという恥ずかしい上に、不名誉極まりない、下手をしたら人生が変わってしまうようなあだ名は、死んでもゴメンだった。
中森仁水を待つ大輝の目の前に、中森友誉が三年生の男子と、腕を組むようにして、仲良く一緒に登校して来た。
邪魔をしては悪いかと思いつつ、必死の大輝は、勇気を出して友誉に声をかける。
「なぁ。えっと、あの……中森仁水は、まだ来てないのか?」
「えっ? 仁水ちゃんはねぇ〜?いつも遅刻ギリギリだよ? 今朝も早くから、なんか、凄く楽しそうに夢中になってキャラ弁作ってたから、遅刻かも……?私に朝ご飯とか作ってくれたりもしてて、時間とらせちゃったし〜?でも、私が自分でつくると、目玉焼きも焦げちゃうんだもん」
「そうか……引き止めて悪かったな」
「ううん。仁水ちゃんに伝言とかあるなら、私でよかったら、言っておくよ?」
にっこり笑ってそう言う友誉は、とても仁水と姉妹とは思えない程の、激しい可愛らしさだった。
(その辺のアイドルなんか、顔負けの美少女だな……)
そう思ったが、笑顔の優しい雰囲気や、ふっくらとして柔らかな印象の口の感じは、どことなく似ている。
そう、大輝は思った。けれど伝言で口止めだなんてアホらしいので、友誉の厚意はあり難くお断りした。
待つ事さらに三十分。
いよいよ大輝も諦めて、校舎の中に入ろうとしたその時、仁水が走って来るのが見えた。
「あっ!!おいっ!こらっ?!」
「へっ !ああ、おはようございますっ!」
言いながも、遅刻を避けたいらしく、肉食獣に襲われるトムソンガゼル並みの早さで、大輝の目の前を通り過ぎてゆく。
「待てってっ! ちょっと話しがあるンだって!!」
「遅刻するから、早歩きしながらならっ……」
呼吸を調えながら言う仁水の手には、二人分の弁当があった。
「弁当……妹の分も作ってるのか?」
「はい。頼まれた時だけですけど。普段は先輩と学食で食べたりもして居るみたいですから」
並んで歩くと、仁水は頭ひとつ分ほど大輝より背が低かった。
顔を見ながら話そうとすると、大輝がやや前屈みにならなければならない。
「あのな……昨夜の事なんだが……その……」
「?……ああ、大丈夫です。誰にも話してませんよ。布地も昨夜のうちに繕って、少し泥で汚れていたので、洗濯して干してありますから。溶けないように気を付けて、スチームアイロン当ててから、夜、持っていきます。じゃあ、また!」
そう言って仁水は生徒玄関の方へ走って行く。
職業科は大輝の二組とは、校舎が別で学年もひとつ下では、ロッカーも離れているし、普通科と職業科は合同の授業もないので、その日は朝に会えただけだった。
何となく、昨夜と、今朝ほんの少し話しただけなのに、仁水を信ずるに足る人間と考えてしまって、大輝はそれ程『バレたのではないか』と、ビクビク過ごさずに済んだ。
満ちた月が、ほんの少し欠けてきている。
それでも今夜も美しい月夜だった。
「綺麗な月……」
呟いて、仁水は微笑んだ。
こんな自分を、待ってくれている誰かが居る……。
しかもこんな寂しい夜中の散歩の途中で……。
それは、仁水にとっては、とても嬉しい事だった。
昨夜の場所に仁水が行くと、すでに大輝は待っていた。
その姿は決闘を申し込み、真剣勝負を挑む剣客のように、凛とした空気を纏っている。
彼が剣道部の副主将で、現在は怪我をして部活を休んでいると教えてくれたのは、同じクラスで職業科で農林科の、剣道部で有段者の男子だった。
この目の前の彼は、部活ではとても強くて指導も厳しいが、優しい面倒見の良い先輩なのだと、笑って教えてくれたが。
至極奇妙な顔をされ『大輝さんに気があるのか?』とも聞かれたので、先日被服室の窓辺に腰掛けて、ウェディングドレスのべールに、レースにを付けていたら風で飛んで下に落としてしまって、地面に付く前に素早く拾ってくれたので、確か剣道部の人だった記憶があったから……と話したら、何故か酷く笑われた。
私がドジで、廊下でコケて抱えていた教科書をバラ撒いた挙げ句、パンツ丸出しのところを、彼に目撃されたことは数知れずで、打撲のあまりの痛みで動けない仁水のスカートを直されて、教科書を拾ってくれながら『ここの廊下は滑るって分かってるのに、どうして何度も転ぶんだ?』と呆れられたりしているのは、中学からなのだから……ドレスのベールを落としたぐらいでは、たいした事では無いように思う。
何で笑われたのか、謎だ……。
「済みません。お待たせしてしまったようで……」
きれいに繕ったサテンに生地には、様々な形の金属の飾りを縫い付けて、ラインストーンを散りばめてみた。オーガンジーが、ミシンで縫うのが怖いほどほぐれていたので、布地用接着剤でレースで挟むようにして、そこにリボンや刺繍を施された模様のレースとスパンコールとビーズをあしらい、彼が風に舞うのが好きな様子だったので、ゴツい革のベルトをしなくて良いように、家にあったシルクの切れ端とレースと紗の布を使ってを使って、結ぶだけの簡単なへご帯のようなものだが、ベルトを作って来て、一緒に彼に手渡した。
大輝はあからさまにホッとした様子で笑ったあと、驚愕したように布地を眺め、そして、ベルトを手に取り、震えている。
「あの、余計なお世話かな、とは思ったんですけど……」
「っ……」
どうやら言葉になら無いほどに喜んでくれたらしいと察して、仁水はホッとして微笑むが、大輝は、修理された箇所を丹念に、確かめるようにしながら、まるで幼い少女のように目を輝かせて、眺めたり触っいたかと思うと、仁水が、勝手に余り布で作ってきたベルトを、本当にうれしそうにして、レースの線を指で辿るようにして、頬ずりせんばかりにしている。
(う——ん。こんなに喜んでくれるのなら、もっとちゃんと作ってあげれば良かったな……朝方眠くて、思いつきで作っちゃっただけだったし……)
「あの、着て確かめてみてもらえますか?ちゃんとくっついていなかったら、また直してきますし。装飾やベルトも、良かったらもっとお好み通りに可愛くしますよ?」
仁水の言葉に、ちょっと戸惑うようにしつつも、大輝は馴れた手つきで、二枚の布地を上手に巻き付けて、着込むと、器用に帯で結んだ。
それを見ていた仁水はふと。
(古代ローマ人って、こんな風に服を着ていたのかな……?)
などと下らない事を考えてしまった。
「おぉ?!凄いぞ中森!かぎ裂きになってたのに、全然分からない!しかもこんなに綺麗にっ……可愛い造りにしてくれてっ……まさかベルトまで作ってくれるだなんて、本当にありがとうな!」
「いいえ。とんでもありません。追いかけてしまった、私のせいみたいだったから……あ、それとコレ。デザイン画。簡単にだけど描いてみたんで。よかったら見てみてください」
「……ありがとう……なんだか、変わったヤツだな。お前……」
「はい。よくそう言われます」
ひっそりとした、妹の友誉とは正反対で自己主張の無い。野の花の様に微笑む仁水と、手渡されたクリアファイルとを交互に見て、大輝は近くのベンチを指した。
「あそこでちょっと座らないか? これ、ゆっくり見せてもらうよ」
「はい。みてくれて、気に入った感じのがあったら、教えて下さい」
さっさと歩き出す大輝の後ろを、仁水もスタスタついてくる。
二人並んでベンチに腰掛けると、仁水は持っていた袋から、大きな保温出来る水筒に入ったお茶と、お菓子を出してきた。
「友誉に頼まれて作ったんですけれど。ちょっと不格好に出来てしまったせいで、はじかれてしまったモノなんですが、味は一緒なので、よかったら食べてください。お嫌いじゃなければ紅茶もどうぞ」
「ああ。ありがとう……お前、弁当作ったり、なんでも出来るんだな。しかも、妹の分まで家の食事とかも、いつも作ってるって聞いたぞ。本当か?」
「ウチは共働きで、昔から母が忙しいので手伝っているうちに、小学校の高学年の時には気がついたら、家事全般が私の担当になっていて……」
「ひどいな」
「いいえ!そんな事はありません。好きでしているんですから。だから酷いとかじゃないですよ。炊事洗濯したり、縫い物していたりすると、無心になれて……休みの日にシーツなんか洗って、天気が良かったりすると、倖せな気持ちになるんです……変なヤツって言われますけど、人それぞれ、シアワセって、違うじゃ無いですか……」
「……変わってるな」
「上原先輩もですよね。ちょっと変わってますよ?」
「うっ……俺も……柔らかくて、ヒラヒラした布を着て踊ってると、無心になれるんだ……胴着も、汗臭い防具も、本当はあんまりなんだか……やっているうちに、強くなったから……何となく続けてしまっていて……」
そう言って、言葉に詰まった大輝が、自分の布地の膝を掴むと、仁水は微笑んで言う。
「みんな違って、みんないいんですよ。私は上原先輩の趣味は、そんなに変だとも思わないですしね?だって、西洋の中世の男の人とかは、フリルの付いた服を着て、タイツ履いてたりするし。それに、上原先輩が女装趣味でゲイだったとしても、私には害が無いですしね?綺麗なものが好きだって言う脳ミソって、男性の方が発達しにくいんですって。だから、その感性を産まれ持った先輩は、仕事で大成する、かもしれませんよ……?」
「ゲっ……違うっ!!俺は、普通に女の子が好きなんだっ!それは絶対に違うっ!気色悪い事言うなっ! 」
「あ〜そうなんですか。それは失礼しました」
「本当に失礼なんだよ。俺はただ、こういう柔らかくって、フワフワ広がる、きれいな服が着たいだけなんだっ!! 」
「それじゃぁ、こんな服はどうでしょう」
そう言いつつ、大輝の手にあったクリアファイルの中から、仁水はデザイン画を取り出してめくる。
一瞬触れた白く華奢な手の感触に、思わず手を引っこめてしまう大輝だったが、仁水は気にも留めず、大輝にデザイン画を見せてくる。
「踊ってるみたいに、フワフワしていたでしょ……? だから、スカートが広がるのが楽しいのかなって、思ったんです」
「あ、ああ。楽しい……」
「それなら、アンダーに重ねて着てスカートをを広がりやすくして、膝丈ぐらいにするといいと思って。表面じゃ無く、バレエのチュチュみたいに……少しそれに飾りを付けて、出して見せても可愛いとは思うんですが……下に重ねて使うその分、生地は必要になりますけど……」
「あ〜。(チュチュってなんだ? )色はこういう色じゃなくて、淡い緑とか、白が好きなんだ……」
「そのサテンの色みたいな?」
「そうだ……」
「じゃぁ、上原先輩が嫌じゃ無ければ。生地は一緒に見に行きましょうか……?その方が良いと思います。最初は安い生地で作りましょう。良い生地って意外と高いですし。安い生地で幾つか仕立てて、着てみて、本当に好きなデザインの傾向が決まったら、本気出してお互いに意見を言って。デザインをしっかり決めて、お気に入りの服を作る。と、いうことでは、いかがでしょうか?」
言いながらもお茶と手作りのマドレーヌを勧められ、デザイン画を見ながら、生まれて初めてできた理解者と、どんな服にしようか話す事が出来て、大輝はとても幸福だった。
それに仁水の作るお菓子はとても美味しかったし、いれてくれて持ってきてくれるお茶も、温かくて優しい味がした。
こうして、夜な夜な二人は奇妙な逢瀬を重ねた。
満ちていた月が、徐々に痩せていく……。
大輝はその後剣道部に復帰したが、たまに時間を作っては、被服室へ顔を出して、何気なく仁水と話しながら、製作中のウェディングドレスに触っていく。
仁水も特に気にする様子はなく、大輝との少し風変わりな友情を深めていった。
一部の噂で、二人が付きあっているという事が、まことしやかに囁かれている事など、当の本人達は気付きもしなかったのが、類は友を呼ぶ、とでも言うべき所かも知れない……。
欠けた月が再び満ちた頃、真夜中の公園で、大輝が一枚のデザイン画を手に、嬉々として輝く目で仁水を見て言った。
「完璧だっ!! すごいぞ中森!!?お前は天才だ〜〜!!」
「いいえ。一ヶ月も話しあえれば、そうなりますよ。じゃぁ、明日は日曜日ですし、生地を買いに行きましょうか」
「ああ。部活は休む 」
「えっ?!いいえ。終わってからで大丈夫ですよ?お店はまだ開いてますから」
「いや。どうせ落ち着かなくて、やってられないだろうしな。また怪我でもする方が主将がうるさいから」
「……そんなものですか……?じゃぁ、お店が開くのが十時ですから、九時半にここで待ち合わせ、と言うことではどうでしょうか?」
「よし。九時半だな」
笑って頷いた大輝は、あれから仁水が家にあった布地のあまりを上手く使って作った、可愛らしいフリルの重ねられたワンピースの裾をひらりと舞わせ、夜の公園を恍惚とした表情で、飛ぶように踊った。
二人で電車に乗り、目的の駅に着くと、二人は迷わず生地屋へ向かった。
大輝があちこち目移りして、予想より時間がかかってしまったが、無事に買い物を終えて帰ろうとした時に、友誉と三年の先輩にばったり出くわしてしまう。
「仁水ちゃんっ?!やっぱり、その人と付きあってるって噂、ホントだったのねっ?! 教えてくれたっていいじゃない! 聞いても違うって笑ってばっかりで!!うそつきぃ〜今日だって、友達と生地を買いに行くだけだなんて、嘘ついてっ!ヒドイわ!」
「嘘じゃないよ……」
そう言い返した仁水だったが、友誉は二人の顔を交互に見て言う。
「もうっ、帰ったら詳しく聞くからね!?ヒミツはナシの約束でしょぉ〜?!」
怒ったような口調の友誉に、何か言おうと口を開きかけた仁水を、友誉はかなり怒っているらしく、無視するように背中を見せて、さっさと歩き出してしまう。
一緒にいた先輩も、仁水を少し気にしていた様子だったが、友誉と一緒に人込みの中に消えてしまう。
その後仁水と大輝も電車に乗って、いつも利用する駅についたが、あの後、様子がおかしい仁水に、大輝が思わず尋ねる。
「大丈夫か……? ひょっとして、俺の服作るなんて、本当は嫌だったんじゃないのか?……無理しなくていいんだぞ? その……実際、気持ち悪いだろうし……」
「そんなこと全然ないですよ。本当に。でも、それより私なんかと噂になってるみたいなんですけど……上原さんこそ、大丈夫ですか……?」
「……アホか。気にするな。そんな事より、顔色悪い中森の方が心配だ。どっかで休むか?」
「……ありがとうございます。じゃぁ、公園で少し休んでいいですか……」
「ああ」
どうしても、『今日のお礼だ』と、大輝が譲らないので、コンビニでペットボトルのお茶とアイスをおごってもらい、いつもの公園のベンチに並んで腰掛ける。
いつも夜には、二人きりでこうしているので、違和感は無いはずなのに、昼間というだけで不思議な感覚があって、二人共夜のように話せない。
随分たって、アイスをきれいに完食した仁水が言った。
「……私……先輩が、中学の時から好きだったんです。でも、高校に入って、友誉も好きになったから……友誉に協力して欲しいって頼まれて……友誉のほうが可愛いし、先輩とお似合いだと思って、協力したのに……落ち込んだりして。バカみたいですよね……本当に、自分で、そう思います」
「それは確かにバカだな。お前の事だから、いつもみたいな、美味い手作りのお菓子作ってやったり、あまつさえ、あの先輩にバレンタインにマフラー編むとかって言われたら、阿呆のように親切に、進んで手伝ったりしたんだろ?」
「……頼まれた事しか、やってません、けど……」
「それでも大バカだ。だいたいお前は、妹と比べて自分が可愛くないとか、そんな事を当たり前みたいに言うのは、変だと思うぞ? 俺は、お前のほうが可愛いと思う。だから、お前が自分を卑下してると、イラッとくる」
「はっ?……あの。 え、と……あ、ありがとう、ございます……でも、無理に褒めてくれなくても、きちんととドレスは作りますよ?好きでやらせてもらってる事ですし」
戸惑うように微笑んでそう言った仁水に、大輝が盛大な溜息を吐く。
「俺がそんな世辞なんか言えると思うか!?バカか?付き合いがそう長くなくたって、分かるだろうが。それぐらい」
言われて傍らの大輝を見ると、頬どころか首まで赤い。
「あの……顔、赤いですが……?」
「うるさい。お前がこんな事言わすからだ」
「す、すみません……」
「本当だ」
そに日は、そのまま無言だったが、何故か仁水の家の前まで大輝が送ってくれた。
その日から、夜中も変わらず、大輝は仁水を家の前まで送るようになり、二人の中では、何故か自然に、それがあたり前の事になっていった。
その後、大輝の望み通りのカゲロウのような色彩の、フワフワのドレスが完成し、大輝は変わらず名月に誘われままに、月の妖精のように夜の公園で踊っていた。
その姿を、大輝に誘われるまま、見に来る仁水に、ある満月の晩、大輝が言った。
「あのな……なんだか、剣道部でまで、お前と俺が、その……付き合っていると言う、断言するような噂になってるんだが……大丈夫か?」
「だれがですか?」
「お前が」
「ああ、困りましたよね……家政科でも友誉の脳内もそのような状態のようで。上原さんが被服室にドレスを見に来た後で、もみくちゃにされて、『キスはもうしたのか!?』とか聞かれたりするので。ソレには困ってはいますが、上原さんが欲しいと思うようなドレスのデザインを考えさせてもらうのも、パターンを描いて仕立てるのも、なかなか作りがいがあって……私としては、凄く楽しいんです。私なんかのデザイン画も、いつも喜んで見てくれるし有難くて……でも、本当に何故か、学校中で公認状態らしいんですが。上原さん、嫌なら、早くなんとしてでも、否定しておいた方が良いですよ……?」
最初に出逢ったあの時同様の、何処かウスラボンヤリした仁水の、切れ長の穏やかな目を見ると、大輝がつっけんどんに言い放つ。
「……俺は別にどうでも良い……言いたいヤツには言わせとけばいいさ……仁水が嫌じゃ無ければ……誰がなんて言ったって、構わない」
「そうですか。私も、べつに構わないのですが……」
そう言って小首を傾げた仁水の傍らに、踊り疲れたのか、大輝が腰をかけて、皓々と月の輝く夜空を仰いだ。
「……今夜は、奇麗な月だな……」
「はい。とても綺麗な月です……次のドレスは、やっぱり純白が良いですか? それとも、あの月のような色も、少し他の色を差し色に入れれば素敵ですよね……そうだ月下美人みたいな、花の妖精みたいなのはどうでしょうか?……踊った時に広がりつつ、少し長めの鳥の飾り羽根のような長さのある物を、スカートにつけてみてはどうでしょう?……素材に悩むところですね。光沢が少し欲しいところですが、重みが出ないようにしないとです。そうしないと踊った時にふんわり感が損なわれますよね……」
月を見上げながら、真っ黒い澄んだ瞳に月を映して、一心にドレスのデザインを考える仁水の横顔は、何処か幼くて、夢を映してキラキラと輝くその瞳は、大輝には眩しいほどなのに、一見昼行灯で少々ドジな事も分かって……笑うと優しくて愛嬌のある表情になる少女は、多分大輝や彼女自身が考えているるよりも、ずっと、広い世界を見ようとしているのだろう………。
傍らに腰掛けたまま、今夜のおやつに差し入れられたシフォンケーキを口に入れ、大輝は無言だったが、その口元は微かに笑っている。
月を見上げる仁水の横顔を、出来ることなら……大輝自身の目で直接、出来るだけ長く見ていたいといつの間にか思っていた自分に、それも悪くないと、奇妙な胸の中のモヤモヤしたような熱と共に、全てをいつか仁水にきちんと伝えられたらな……そう、思い始めていた。
〜おわり〜