1−3 おしゃべりな花
夜目の利くシノのあとをついていく。
シノは瞳孔を大きく開いて、ゆっくりと尻尾を左右に揺らして1メートル先を歩く。シノの白い毛は夜の暗闇の中で、ケータイの明かりをよく反射する。
ときおり、周りの背の高い木から木葉が落ちてくる。頬や手の甲を掠めるたびに、理都はピクリと小さく跳ね上がる。
餓鬼の群れから離れた後、足許の悪い密林を抜けて、ならされたなだらかな獣道に戻った。密林の中と違い、登り降りの坂道はなく歩くのは遥かに楽……なのだが、それでも足に疲れを感じていた。普段、こんなに距離を歩くことはないし、餓鬼と戦ったせいもある。
何気なく手をグーパーしてみる。まだ、肉体を切った感触が手に残っていた。
なにより闇雲に線路が探すわけにもいかず、道に沿って歩いていくわけだが、汽車の通る線路にはなかなか行き当たらない。そう思うと、どっと疲れが増すのを感じた。
「シノ、ちょっと、休憩しよ」
「疲れちゃった?」
「うん」
理都は、辺りに何もいないことを確認して、近くで一番太い木の幹に腰掛ける。左手に持っていた仕込み刀を太ももの上に寝かせた。
シノは、見張り役として木に登って辺りを見回す。
「こういう時、本当なら獣除けに焚き火して日の出を待つのがいいんだけどね。どうにも嫌な予感がするのよね」
「嫌な予感?」
「はっきり、こうとは言えないんだけども、なんとなくね。それに妖怪や鬼が出るだなんて、ここ普通じゃないわ。近くで鬼門でも開いているのかしら」
「きもん?」
「鬼の門で鬼門よ。陰陽道で、鬼が現世とあの世を行き来するために使う門のこと」
理都はなんだか不安になった。
「鬼門が開くとどうなっちゃうの?」
「そうねえ。あの世とこの世を鬼や妖怪が自由に行き来できるようになるからね。そういうことは平安の頃から時々あって百鬼夜行と言われているわ」
「百匹もいるの?」
「そうよ。夜になると百の鬼や妖怪が行列をなして街中を練り歩くの。日が昇る朝には姿を隠しちゃうんだけどね。だから、夜、人は出歩かないのよ」
「今も?」
「昔ほどのじゃないわ。でも、夜は事故や事件が多いのは鬼たちのせい。心に闇を抱えている人は取り憑かれやすいのよ」
「そんなに怖いのに、なんで夜に寝ないでいる人がいるの?」
「大人になれば分かるわ。人一人が狂うだけで、間接的に沢山の人が幸せになるのよ。りっちゃんには関わって欲しくないけれど、いわゆる黒い企業ね。1+1は10にも100にもなるって聞いたことない?」
理都は不思議そうに首を傾げる。
「よくわからないけど、1+1は2だよ?」
そうね、とシノは声を上げて笑った。
それに同調するようにくすくすと笑い声がそこかしこでし始めた。人を小馬鹿にするような笑い声。
理都はギョッとなって立ち上がり辺りを見回す。
道の両端の花たちだ。餓鬼を倒したあとにいたとても失礼な花たちと同じに見える。
「そこの額に月のマークのある猫さん、猫じゃなくない?」
「そりゃそうだ。だって喋っているじゃん!」
「妖怪? もしかして妖怪?」
「それより、そこの人間の娘も面白いよ。この子、ここがどこか分かっていないんだもん」
「それに匂いは人間なんだけど、人間となんか違う!」
花たちがケタケタ笑う。
「ち、それ以上、喋るんじゃないよ」
シノは苛立たしげに尻尾を立てて言う。
「りっちゃん、ここを離れるわよ」
「えー、行っちゃうの? もっとお話しようよ! ギャア!」
シノがまた花を踏みつけた。踏みつけてグリグリしてから、理都を急かして小走りに走り出す。お喋りな花たちの声が次第に遠くなる。
「あれは迷い花の一種ね。人を惑わせて、心を弱らせる。そして喜怒哀楽の喜びとか楽しみを司る部分を食べるのよ」
シノは理都に嘘の説明しながら、本当に心配すべきことを考えていた。理都には秘密があった。それは理都自身も知らないことだ。それを理都自身に自覚させることはあってはならない。その方が皆が幸せに暮らせるのだ。理都の両親も、理都も、シノ自身も。理都が生まれたときから、シノはずっとそう信じてきたのだ。
だから、あの花たちは厄介――。
***
さて、シノは実によくしゃべる白猫である。もちろん私が猫語を理解できるわけではない。シノが人の言葉をしゃべるのである。ついでといってはなんだけれども、シノの周りの猫さんたちも人語をしゃべる。
物心ついたときからそうだったせいで、猫という生き物は人語をしゃべるものなのだと思ってしまっていた。
前に、学校でクラスメイトと話しているときに、シノが如何におしゃべりな猫なのかということを話してみたら変人扱いされてしまった。あれはぜったいにシノが悪い。
なんでシノはしゃべれるの? と問い詰めてみた。
「私をそこらの猫と一緒にしないの。猫又という神獣なのよ、崇めなさい」と返してきた。
次の日は土曜日だったので、図書館にいって日本の神々という本を開いてみたけれど猫又なんていなかった。
諦めて興味本位にその隣の日本の妖怪という本を開いてみたら、猫又のページがあった。人を惑わす妖怪だと書いてあった。
急いで帰って、シノのしっぽを掴んで持ち上げたら、
「痛い痛い痛い! なにするの!」とニ”ャーニ”ャー鳴いた。
「シノは妖怪なんだね。神獣じゃないでしょ。もう嘘つかないでね」
「わかった! わかったから離して!」
「約束だよ?」
「約束するから離して!」
すぐにしっぽを離してあげた。それ以来、シノは私に嘘をつかない。シノは信頼できる猫である。
理都はそう信じている。
***
理都とシノは獣道をてくてくと歩いていた。とりあえず、獣道のとおりに歩く。
シノが言うには時折雲の隙間から見える星の位置で進んでいる方角がわかるらしい。
そういえば去年、パパとママと一緒にプラネタリウムに行ったときに解説のおにいさんがそんなことを言っていた。すぐに眠気に負けて最後まで聞けなかったけれど。
「りっちゃん、止まって。何かいるわ」
シノが鋭く言う。
理都はぴたりと立ち止まり、進む先を警戒する。
「見えないけど……遠い?」
「そうね、人の目には厳しいかも。けど嫌な感じのがいるわ。妖怪か鬼ね」
「強い?」
「そうねえ……」
シノは見定めるように目を細める。
「油断しなければ、りっちゃんなら負けないわ」
「なら余裕だね」
「油断しなければ、よ」
「うん」
すぐに戦えるように、傘に偽装していた隠し刀の柄に手をかける。
ケータイの明かりは消した。明かりをつけたまま戦うことはできないから、暗闇に目を慣らす。
理都はもう割とこの状況い順応していた。
不意打ちにはシノが対応してくれるから、理都は前方にだけ注意を払う。
近づいていくと次第に相手の姿がはっきりしてくる。
着物を来た色白の髪の長い女の人だ。うねうねした髪で後ろは腰のあたりまで届いている。顔は……髪で隠れてよく見えない。
「シノ、あれ、ほんとに妖怪?」
「鬼髪ね……恨みや嫉妬、そういった負の感情がからみ合って集まって生まれた妖怪。人型よ、りっちゃん、斬れる?」
「きはつ……」
妖怪の名前を復唱して頷く。
「うん、大丈夫」
柄をしっかりと握り、刀身を鞘から引き抜く。この刀は普通のものと違い、重心が切っ先にある。通常は重心が手元にある。そのおかげで安定感が増し、力がなくても狙い通りに刃を走らせることができる。
けれど、理都の仕込み刀は切っ先を重くして操作性を犠牲にするかわりに、遠心力による切断力を増強に主眼を置いている、母親の好みで。
鬼髪が理都の方を向く。しずしずと近づいてくる。
「あら、かわいい娘……、きれいな顔立ちね」
それはしっとりとした小さな声色だった。褒め言葉に違いないがそれどころじゃない。
「お母さんに似ているのかしら?」
問いを無視して、もたげていた刀の切っ先を持ち上げて構える。何か違和感を感じた。
「ねえ、学校ではもてるの?」
髪がいつのまにか地面まで届いている!
「恨めしい……」
途端に声が低くなる。
刹那、うねうねした髪がまっすぐに伸びてきた。理都は前に見たホラー映画にデジャブを覚えて恐怖した。
「さ、貞○ー!」
叫んだと同時に髪が首に絡みつく。
「ぐ……」
理都の体が持ち上がり、つま先立ちになる。首と髪の間に左手の指をかける。けれど効果がない。
「りっちゃん、油断しない」
そういって、トン、とシノが跳ねた。
「調子に乗るんじゃないよ」
シノが鬼髪の肩口に噛み付き、肉をちぎる。
「ぎゃ」
鬼髪は顔をしかめて、肩を抑えて前かがみになる。首に絡まった髪が緩んだ。
瞬時に理都は刀を両手で握り直して、鬼髪の髪をばっさりと切断する。
首に残った髪を投げ捨てると、
「ごめんなさい」
刀を平突きにして、鬼髪の心臓にまっすぐ突き刺した。そして背中から抜けると同時に引き抜く。
女は崩れるようにその場に倒れた。
切り捨てた髪の毛がまだ地面を這うように動く。髪が蛇みたいに近づいてきた。
「りっちゃん、鬼髪はね、あの髪の方が本体よ」
それを聞いて理都は逃げた、全力で。本当に蛇みたいで気持ち悪い。
「はあ、はあ」
息を切らして木にもたれる。
「もう大丈夫かな?」
「そうね、もう気配はないわ」
シノが理都を見上げて答える。
安心して額を拭う。
「それより気になることがあるわ」
真剣な口調。
「なに?」
少しの緊張が走る。
「りっちゃん、モテるの?」
シノがしっぽを振って楽しそうに訊く。
「そんなのしらない」
理都は照れたようにそっぽを向いた。