プロローグ サイド・ネロ 『村人の始まり』
サイド・ネロ
ネロが誕生してから、七年が過ぎた。
ネロが生まれたことが縁となって、ロメロ夫妻はグラン婆さんと家族ぐるみの、付き合いをするようになった。
とは言え、既に夫に先立たれ、子供も身寄りも無い一人暮らしのグラン婆さんとの付き合いは、家族ぐるみの付き合いというよりも、最早、近所に住む祖母ちゃんの家という雰囲気に近く、グラン婆さんとの付き合いの中で、アリアは、製糸や養蚕、赤ん坊の取り上げと言った技術を住み込みで学び、ロメロの方も、そんなアリアの夫である以上は、なし崩し的にグラン婆さんの家に泊まり込むことが多くなった。
そうしてロメロは、腕のいい狩人として仕事を行う傍ら、グラン婆さんの畑や、少ないながらも所有している馬や牛の世話を任されるようになり、そんなロメロに従って、ネロは、畑を耕しつつ、時おり狩りを行うという生活を行うようになっていた。
だから、家族ぐるみの付き合いというよりも、グラン婆さんの家に住み込みの手伝いとして半ば居候する形で厄介になっていた。という方が正確だろう。
何はともあれ。
こうして、ロメロ一家はグラン婆さんに厄介になりながら、狩猟と農耕を行いながら生計を立てるようになり、ネロが七歳にもなる頃には、美しい絹と毛皮を生産する農家として、近隣の村々にも名を馳せるようになっていた。
※※※
その日は、そろそろ冬も見え始めた深い秋の事で、ロメロは、夏の恵みを一心に受けた畑の刈り取りを行い、ネロはアリアと一緒になって蚕の繭から絹糸を取り出す作業に追われていた。
白い糸に包まれた蚕を熱湯の中に落とし、そこから解けた絹糸を糸車を通して、糸の塊を作って行く。
そうして、沢山の繭玉を何度も何度も糸車に通していくうちに、いつの間にかあれだけあった繭玉は無くなり、後には黄金色の光を帯びた絹糸の塊と繭玉の中にあった蚕の蛹だけが残った。
「お母さん。もうお蚕さん残ってないよー」
糸車を動かし終わったネロは、隣の部屋で同じように糸を紡いでいるアリアの元に向かうと、そう言って、籠の中に入れた絹糸を見せた。
ニコニコと笑いながら紡ぎ終わった糸玉を見せて来るネロに、アリアは作業の手を止めてネロの頭を撫でると、柔らかな微笑みを浮かべて見せた。
「あらあら。ネロは凄いわねえ。私はまだまだ絹糸を紡ぎ終わっていないのに、もう終わったの?さっすが未来の英雄さんねえ。頼りになるわあ」
アリアは優しく微笑みながらそう言うが、彼女の紡ぐ蚕の量はネロに与えられらた仕事量の優に五倍はあり、明らかにネロよりも大変そうであった。
もちろん、それはネロに無理をさせないように、というアリアの心づかいの結果であったし、ネロ自身もその事には最初から気づいてはいた。
それでもネロは、ただ単純に母に褒められたことが、頼りにされたことが嬉しくて、屈託なく笑うと、ただ目を細めてアリアの手に頭を撫でられていた。
するとそんな時だった。
「おやおやあ?やっぱり洟垂れ小僧は洟垂れ小僧のままなのかい?私が出ていく間に、乳離れしておくって言っていたのはどこの誰かさんだったかねえ?」
つい一週間前に隣の町に出かけていたグラン婆さんが玄関口から顔を覗かせては、底意地の悪い声を上げて、アリアに頭を撫でられるネロを笑っていた。
ネロは、突然のグラン婆さんの帰還に、今まで幸せそうに薄桃色に染めていた頬を、恥ずかしさのあまり真っ赤に変えると、咄嗟にアリアの後ろに隠れて意地の悪い笑みを浮かべるグラン婆さんに、ネロは必死になって言い訳を考えるが、中々うまい言葉にならず幼い言葉は口の中でぽろぽろと崩れていく。
「ち、違うモン。是は、是は、別に甘えてるわけじゃないもん!」
「くかか。洟垂れ小僧め!口すらまだまだ回らないのかい‼くはははは」
「ふふ。グランさん、ネロに意地悪するのはそこまでにしておいてください。ほら、ネロもあんまり泣かないで頂戴?グランおばあさんは、ネロが可愛いからちょっかいを掛けちゃっただけなの?」
いつものようにネロにからかいの言葉を投げかけるグラン婆さんと、何も言い返すこともできずにただ目尻に涙を浮かべて答えを返すネロの二人に、アリアは困った様な、楽しんでる様な曖昧な笑みを浮かべながらグラン婆さんを嗜めると、ネロの頭に手を置いて、優しく宥めた。
「それはともかく、お帰りなさい。グランおばあさん。こんなところで立ち話なんてしていないで、早く家の中にお入りください。久しぶりのお出かけは楽しかったですか?」
アリアは、未だに玄関の前に立つグラン婆さんににこやかな笑みを浮かべて、軽く頭を下げると、七日前から隣町に出けたグラン婆さんに居間に置かれたテーブルに着くように左手で指し示した。
「あん……?ああ、そうさねえ。楽しくは、…………あったかねえ。何しろ、色々とありすぎたからねえ。懐かしいツラにも会えたが、面倒事にも出くわしたしねえ」
すると、アリアに街での様子を聞かれたグラン婆さんは、珍しく奥歯に物が挟まった様な半端な言葉で応え、いつもと違うグラン婆さんの様子に、アリアは思わず小首を傾げた。
「どうしたんですか、グラン婆さん?何だか、いつもとは違った様子ですが?私たちが力を貸せることでしたらいつでも力をお貸ししますが?」
「…………そうさねえ。元々、私ひとりじゃあ、手に余ることではあったしねえ。力を借りられるなら、借りたいところだがねえ……」
悩み迷っている。というよりも、自分自身どうしていいのか判らないといった様子のグラン婆さんに、アリアは内心、嘆息と驚愕を禁じえなかった。
アリアが生きている限りにおいては、グラン婆さん程思い切りが良く、決断に時間をかけない人間など、自分の夫であるロメロを除いて見たことは無かったからだ。
元々、グラン婆さんの家に居候することになったのも、アリアがグラン婆さんに絹糸づくりを教わる際に、グラン婆さんが住み込みで働いた方が覚えが早い。という事で、その場で無理矢理住み込みませたことが切欠だったし、その他にも、その場で即断即決するグラン婆さんには、振り回されたことも多いが、助けられたことも多い。
そんなグラン婆さんが、今、助け船を出したアリアの目の前で悩み葛藤している姿を見るのは、初めての事であったし、それ以上に、非常に不安と心配を煽ることであった。
それでもアリアは、話題を変えるでもなく、グラン婆さんを急かすでもなく、ただじっとグラン婆さんが答えを出すのを待ちながら、厨房に立つと、そっと紅茶を淹れてグラン婆さんの目の前に用意した。
ただ、グラン婆さんの答えを待つ。
そんなアリアの態度に腹を括ったのだろう。グラン婆さんは、一度大きく溜息を吐くと、テーブルの上の紅茶を一口飲んで、向かいの席に座るアリアに話しかけた。
「…………しょうがないねえ。アンタに少しばかし、頼もうかい。ただね、あたしの身内に関わることでねえ。私の過去とか、大っぴらにできない内々の事情が絡んでくるから、あんまり多くは話せないんだよ。だからね、あんまり大事にはしないでくれないかい?」
グラン婆さんの、まるで泣き顔のような表情を浮かべたのを見て、アリアはふと一つの事実を思い出した。
実は、グラン婆さんは、この辺境の田舎の山村であるコルンバ村に生を受けた生粋の村人ではなく、今から五十年以上前に何処からともなく住みついたよそ者であり、隣町はおろか、周辺の村々でさえ、その素性を知る者はいない、正体不明の人物だった。
身なりこそは質素で、けして高価な持ち物も所持していたわけでは無かったが、村に越して来るなり早々に畑や蚕を購入し、家畜を飼うだけの余裕があった。
その上、産婆の技術を初めとするちょっとした医療知識や魔術の心得を持ち、かつては神父であった亡き夫の代理をこなせるだけの神学も修めている。
金銭はともかく、是だけの知識と技術を持ち得る人間が、何処かで暮らしていただけのただの農民である筈は無く、かと言って、貴族の様な、高貴さというか、傲慢さというべきか、そのようなどこか生まれながらの上位者と言った雰囲気は欠片も感じられなかった。
つまりは、グラン婆さんは明け透けでさばさばとしたあっけらかんとした第一印象の割には、その正体も、身元の詳細も探り出せない、秘密主義者なのであった。
そんなグラン婆さんの過去に纏わる人物や物事に関わると言う事は、ただそれだけで厄介事と面倒事の匂いがするし、事実そうなるのだろう。
或いは、それは単純に遺産を初めとする金銭トラブルと言った単純な物事かもしれないし、もっと複雑に事情の込み入った人間関係の話かもしれない。
もしかすると、大貴族の家庭に隠された秘密を守っていることだってありうる。
いずれの場合にしろ、無関係な人間がそう簡単に首を突っ込んでいい問題でも話でもないし、下手に巻き込まれれれば、一生分の汚点となり得ることだってあり得るのだ。
そして、何より問題となるのは。
最大の問題となるのは。
グラン婆さんは、その厄介事と面倒事の全貌を話すことはしないし、することは出来ないのだろう。
話の内容も、条件も分らず、下手を打てば一生分の借金や、消えない傷跡を残すことになるかもしれない事情に巻き込まれる。
そんなことには誰だって巻き込まれたくないし、首を突っ込もうと思わない物だ。
けれども、アリアは、一瞬だけグラン婆さんに微笑みかけると、
「水臭いことは言わないでください」
そう言って、穏やかな顔のままグラン婆さんのその手を取った。
「グランおばあさん。覚えていますか?私がロメロ様と一緒にこの村に来た最初の日の事を。身寄りもなく、お金もなく、身元も明かせない。そんな私たちがこの村に住みついて、最初に私たちを助けてくださったのは、グラン婆さんだったではないですか。ロメロ様が猟師として活動できるようにして下さり、ネロを身籠った私が暮らせるだけの家を用意してくださいました。それだけじゃないです。私がネロを産んでからは、なにくれとなく世話を焼いてもらって、今ではあなたの家で娘も同然に過ごさせていただいている。今、私たちが何不自由なく幸せに暮らしているのは、全て貴方の御恩があったからです。今さら、それを返すことなく暮らすこと等、私には、私たちには、出来ません。どのような事情が絡んでいようが、グラン婆さんの恩をすこしでもお返しすることができるなら、何ほどの物でもありません」
グラン婆さんの手を握りしめながら、穏やかに語られるアリアの言葉に、グラン婆さんは思わず涙ぐむと、慌ててその眼もとを擦り、零れかけた涙をぬぐった。
「…………ッ!そうかい……。そう言ってもらえると助かるよ。……ありがとう」
眼球を赤くしたまま、アリアに礼を言ったグラン婆さんは、そこで一度テーブルに出されたお茶を啜ると、目の前にいる娘のように信頼を寄せる女性に向き直り、頼み事をする。
「実はね。私の知り合いにルーウェルという男がいるんだがね。その男の知り合いが、今度私を頼ってこの村に住むことになってねえ、そいつらの世話をアンタ等に頼みたいんだよ」
「グラン婆さんの知り合いの知り合いが、この村にやって来るということですか?」
アリアの質問に、グラン婆さんは黙ってうなずいた。
「ああ、そうだよ。元々その知り合いってのが、大分都会暮らしの長い人間でねえ。こんな辺鄙な村では、苦労すると思うのさあ。それに、そいつはネロと同い年くらいの子供を連れて居てねえ…………。そいつらがこの村の暮らしになれる間だけでいいから、面倒を見てくれないか。って頼まれてねえ。一年かそこらの間は私たちの家で匿うことになったんだよ。本当だったら、アンタ等にはその間、この村ン中にある別の家でも間借りしてもらって欲しかったんだけど、もしもの事も考えてアンタ等と一緒にその知り合いの面倒を見ちゃあくれないかい?」
グラン婆さんの頼み自体は、決して非常識なものではない。
都会から田舎に越して来る人間は少ないが、いないわけではないし、その村の顔役や知人の家に上がり込んで暫くの間生活の面倒を見てもらう。というのはよくあることだ。
だが、そういう場合、かなり多いのが貴族がらみの厄介事だ。
よく演劇や話のネタにされるのが、不倫の果てに生まれた不義の子の世話をする。というものがあるが、勿論そういう話は多くはない。
大抵の場合は、没落した大貴族やかつての大富豪に金を借りたり、生活を世話になったりして、そのかつての恩を返してもらうために、今の生活を助けろ。というものである。
まあ、いずれの場合にしろ、話しだけ聞けば中々の厄介事であるのは確かである。
だが、問題は本当にこの程度の厄介事なのか?と言う事であろう。
グラン婆さんの身元や、その過去に関わるという人物が、一体どれだけの秘密を抱えているのか判らない現状では、そう言った常識的な噂だけで判断するのは難しかった。
だが、アリアは頭の中の計算をそこで終えると、テーブルの向かいに座るグラン婆さんに向かって深く頭を下げて、言う。
「分かりました。それでは、私たちは明日この村に来る、グランおばあさんの知人を御向かいして、暫くの間、その方たちを手助けすればよろしいんですね?」
「ああ、そうだよ……。だけど、本当にいいのかい?私が言うのもなんだが、事情を詳しく知らない物事に首を突っ込んでも、ロクな目に合いやしないもんだよ?別にわざわざアンタら家族まで、背負う必要は、」
グラン婆さんは、知らず知らずの内にアリアの手を取りながら、心配そうにアリアの顔を覗き込んだが、アリアは先ほど変わらぬ態度でその手を握り返すと、ただ黙って微笑んだだけだった。
そのアリアの態度に、グラン婆さんは決意の固さと覚悟の強さを感じ取り、言葉を最後まで言わずに飲み込んだ。
「そうかい。……ありがとう。ありがとう」
アリアの心からの協力と信頼に、グラン婆さんはただお礼を口にすることしかできずに、何度も何度も同じ言葉を繰り返したのだった。
そんなグラン婆さんを見てアリアは、そこでふと心配そうな顔つきになってグラン婆さんの顔を見据えた。
「何が有ろうとも、問題は無いです。ただ、是だけは約束してください」
「何だい?」
「グランおばあさんの過去や、秘密については敢えて詮索はしようとは思いませんし、グランおばあさんが自分から話さない限りは、これからもそのつもりです。ただ、その秘密や過去がどうしても私たちでは対処しきれない大きなもので有った時、その時は、せめてネロだけは守ってください。ネロだけは、絶対に、どうしてもグラン婆さんの事情には巻き込まないで上げてほしいんです。よしんば巻き込んでしまうとしても、どうにか、無事に幸せになってほしいんです。ですから、どうか」
「それこそ当たり前の話だろう。この私が命を懸けても、----否、」
グラン婆さんは、自分の手を握りしめながら懇願してくるアリアに向かって、深い頷きとともその手を強く握りしめたかと思うと、一度席から立ちあがり、左胸に右手を置き、左手を頭上に掲げる独特の恰好で片膝を立てて、その場に跪いた。
「私、グランナタス・デル・アヴァンティーニと亡き夫ヨーハンの名と命を以て、天と地と、そこに遍くすべての神々、そして、全てを見通し、照らし導く主神ユースティティア様の聖名に懸けて誓おう。例え、どんな状況になっても、貴女の息子、ネロ・ダ・ヴィンチだけは守り抜くことを」
それは、聖騎士の宣誓だった。
或いは、御伽噺の世界か、劇場の芝居でしか繰り広げられることは無いが、簡易的ながらも、昔ながらの形式に則っり、厳然たる声で、毅然とした態度で、敢然とその言葉を言い放つその姿は、今までのグラン婆さんの姿ではなく、まさしく夢物語で語り継がれる聖騎士のそれであった。
そして、グラン婆さんのその宣誓を聞いたアリアは、驚愕と困惑のあまりに両瞳を大きく見開き、グラン婆さんのその姿に、頭の中をよぎった質問を口にした。
「その宣誓、その名前、もしかして貴女は―――――!」
その時だった。
「おーし、これで今日の仕事は終わりだ、終り!アリアー、帰って来たよー。お!グランのババアじゃねえか!無事に帰って来たのか!ははははは」
畑の刈り入れが終ったロメロが、勢いよく玄関を開けて家に入ってきたためアリアの疑問は空中で搔き消えてしまい、家の中にはアリアに跪くグラン婆さんと、二人の間に漂う微妙な空気が残った。
「お?どうした?二人して変な格好で固まっちまって?そのポーズは何か?聖騎士様の誓いか何かか?」
そんな空気を馬鹿ながらも感じ取ったのか、ロメロはある意味では絶妙とも言える言葉を発したことで、その場に漂っていた気まずい様な、緊迫したような空気は急激に薄れていき、アリアは咄嗟にロメロの言葉を肯定した。
「え……?ああ、ええそうです。グランおばあさんが隣町で見た劇を話していてもらったんです。何でも新しい劇は、女騎士様の物語だか何だかだそうですよ」
「……そうさね。禄でもない女騎士が田舎に流れるまでの物語さ」
アリアの意図を察したグラン婆さんも又、アリアの即興の作り話に乗っかってしまい、それから二人は見たことも聞いたこともない劇の話をでっちあげて、ロメロに話しだすのであった。
こうして、アリアは脳裏にグラン婆さんの正体を僅かばかりに描きながらも、それを口に出すことはせず、静かに胸の奥に留めたのだった。
※※※
夕刻。
黒パンと根菜のスープを並べた質素な食卓にネロ、グラン婆さん、アリア、ロメロ、と四人の家族が座り、久しぶりの一家団欒を楽しみながら、アリアとグラン婆さんは、ロメロに夕刻前の事を話したのだった。
「成程な。分かったぜ。いいんじゃないか、それで」
するとロメロは、至極あっさりとそう言ってのけた。
「要は、グランの婆さんの昔の男が、婆さんを頼ってこの村に来るってだけの話だろ?んな程度の話に、わざわざ俺を通さなくていいよ。アリアが納得してんなら、オレはそれでいい」
余りにも明け透けに身も蓋も無いことを言うロメロに、グラン婆さんはややこめかみを押さえながら溜息を吐いた。
「いやまあ、細かいことについてはこの際、どうでもいいとしても、その理解は無いんじゃないかい?というか、本当に理解してんのかい?」
「理解してたらどするんだよ?そいつをこの村に呼ぶの止めるのか?少なくとも、ネロには迷惑をかけないようにするんだろ?それとも、そういうことも全部嘘なのかよ?」
「言ってることは正しいんだがね、言動には態度ってのが、つきものだよ?そんな軽く言われても、多少は不安になっちまうさ。重い物を抱え込んで相談する人には、言うべきセリフじゃあないよ」
「へいへい、気を付けますよ。ああ、そうだ。ネロ。この前からやってる糸繰は終わったのか?」
グラン婆さんの説教に、ロメロは反省を疑う様な科白で応えると、ふとスープの中のジャガイモを頬張るネロを見て、そんなことを言った。
「うん。終わったよー。でも、まだまだお母さんが糸にするお蚕さんが残っているから、明日はその手伝いをするのー」
何気なくその質問にネロは答えて見せると、ロメロは、ふと考え込むように右手を顎に当てると、数秒後には、にやりと悪い笑みを浮かべてネロに尋ねて見せる。
「じゃあ、ネロ。明日さ、俺と一緒に狩りに行ってくれねえか?」
「おいおい、又、坊主を連れて山に入るのかい?いくら何でも、頻繁に連れて行きすぎだよ」
「私も反対です。どうしても、ネロを連れて行かなければなりませんか?もう五歳とはいえ、まだまだ五歳です」
すると、ロメロの提案に対して、二人のやり取りを聞いていたグラン婆さんとアリアの二人が、猛反発した。
理由を聞けば当然であろう。
森の中には、熊や狼を初めとした肉食獣がいるだけでなく、時には魔力を操り人を襲う魔物と呼ばれる生物や、その中でも特に強力な力を持つ魔獣と呼ばれる生物までもが跋扈するのだ。
いくら、本職の狩人であるロメロがついて行くとは言え、それ等を相手取り戦う場にまだ子供の年齢でしかないネロを連れていくことは、火事場に放り込むのと同じくらいの危うさを伴った言葉である。
「いやー、この前にネロが狩った毛皮を隣町で卸に行ったらさ、思ったよりも高値が付いたんだよ。お前の息子が狩った獲物の皮は、品質が良いってんで、褒められちまったよ。一つ二つおまけに持っていきたい」
「あんたって奴は。自分の息子にたかる気かい?もうお天道様の足取りも早くなるころなんだ。何だって、わざわざ危ないことを自分の息子にさせるんだい?」
「そうですよ。ロメロ様。いくら何でも、自由すぎるにしても程度というのがあります。ネロに狩猟の技を教えたいのは分りますし、その必要性も解りますが、やるならばせめて、ある程度の時間を置いてください」
「いいじゃねえか。明日は、元々隣町に毛皮でも売りに行こうと思っていたしよ。毛皮を売るついでに、そのまま隣町まで行って、しばらくつってもまあ、仕事道具とか必要なモンを買いに行くだけだがよ。そう思っていてよ。」
「だからと言って、急にそんなことを言われても困ります」
そうして、女性陣二人とロメロとで暫く言い合っていたが、
「僕は良いよ。行く行く!この前お父さんと一緒に食べた山イチゴ今度も食べたい!」
そんな女性陣二人の心配は他所に、ネロは屈託のない笑顔でそう言ってしまえば、反対し続けるのも難しい。
それで仕方なく二人は、狩りをするのは街道の近く。危なくなればすぐに逃げること、狩りの獲物も、ウサギや小鹿と言った危険性の少ない動物を見かけた時だけ。という条件で、二人の狩りを許したのだった。
※※※
こうして翌日。
ネロは山に狩りに行くための装備に身を固め、ロメロに連れられて、狩りに行きがてら隣町に商売をしに行くべく、街道を西へ向かって歩き始めた。
だが、不思議なことに、ロメロは山に入ることも無く、ただ街道をネロと連れ立って二人で歩くばかりであり、一向に山の中に入ろうとはしなかった。
「お父さん。どうしたの?狩りにはいかないの?」
そんな父の様子に、ネロは何かを決意したように前を見据えるロメロに話しかけると、ロメロは今までの少しばかり軽い雰囲気をかき消してネロに話しかけた。
「ん?ああ、悪いな。ありゃ、嘘だ。お前と男同士の話し合いをしたくてな。無理矢理連れ出したんだ」
「男同士の話?」
ネロは、男同士の話。という部分に、若干の憧れを感じながら首を傾げると、脚を止めてネロの目を覗き込んでくる父親を、ネロはただ不審げに見上げた。
「ネロ。昨日のグラン婆さんの話は、お前も聞いていたか?」
「え、えーと今日から新しい村人が来る。っていうことだよね?」
するとロメロはネロの目線までしゃがみ込むと、ネロの顔をしっかりと見据えて話しだし、ネロは父親の真意がわからないままに、その質問に答えた。
「ああ。グラン婆さんも言ってたろう?正直、何があるか判らねえ。もしも、何かあって、俺やお母さんに何かがあった場合、今度連れて行ってやるが、隣町にいる真冬のリス亭って、宿屋のウェルクって店主を頼れ。そこに行きゃあ、何があっても何とかなるだろうからよ」
すると、ロメロはそんなネロの顔を見据えながら、唐突にそう言った。
「グランの婆さんにはああ言ったがよ。俺も、アリア、お前の母さんもグランの婆さんには、とてもじゃねえが、返しきれねえ恩がある。命を張ってでも返さなきゃならねえほどの恩だ。だからな、俺も、多分、アリアも、これから先何が有ろうとも、グランの婆さんのやることには黙って従うつもりだ。だがな、ネロ。お前は違う。お前だけは、グランの婆さんにそこまでの恩を受けている訳じゃあない。だから、何かが起こって、お前が死にそうになったときは、迷わずオレ達を捨てて逃げろ。逃げて、何が何でも生きろよ。いいな!」
ロメロは、ネロには何を言っているのか判らないであろうとは思いながらも、ネロの両肩を掴みながらそう語り掛けた。
ロメロの思った通り、ネロには正直、半分ほど何を言っているのかは分らなかったが、それでも父親が何か大きな事情を抱えている事と、その事情の所為で家族が居なくなってしまう様な恐怖感を覚え、咄嗟に父の言葉を否定する。
「い、嫌だよ。みんなが居なくなるなんて嫌だよ。みんな一緒に居ようよ。ずっと一緒に居ようよ」
そんなネロの言葉を聞き、ロメロは寂し気な様な、あるいは何かを決意したようなそんな不思議な微笑みを口元に浮かべると、ネロの両肩から手を放し、そのまま頭を乱暴にかき回した。
「ああ。分かってる。ただ、是は念のためにお前に教えておくだけさ」
そう言うと、ロメロはネロを抱きしめた。
「安心しろ、ネロ。お前も、お前の母さんも、ついでにグランの婆さんも。全員、俺が守るからよ。絶対にお前の家族は、俺の家族は誰にも傷つけさせねえ」
力強くネロを抱きしめながら、そう語るロメロの言葉に、ネロは安心したように、うん。と小さく気付くと、そこで重大な事実に気付き、間抜けな大声を上げた。
「あ!大変だ!」
「どうした?」
一瞬、ネロの言葉にロメロは身構えたが、
「山に行かないんだったら、山イチゴ採ってこれないよ。どうしよう。折角楽しみにしてたのに」
その後にすぐ続いたネロの言葉に、軽く苦笑を溢した。
「安心しろ。隣の町には、山イチゴと同じくらい美味いモンが山ほどあるからよ。きちんと食わしてやるよ」
「本当に?」
「ああ、本当だ」
「やったね」
先ほどまでの重い空気が嘘の様に雲散した二人は、街道を再び歩み始めた。
その時だった。
助けを呼ぶ悲鳴が、聞こえた。