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恋火

作者: よる


 最初から、この恋が叶わない事ぐらい解ってた――。



 男が荒くなった呼吸を整え、シャワーを浴びに行っている間、ベランダの窓を開けて煙草に火を点けた。気怠い空気と立ち上る紫煙が窓から入り込んで来る冷たい風に晒されて一掃されて行くのをぼんやり見てた。


 いっその事、この恋心も吹き飛ばしてくれないだろうか。


 そんな事を考えながらゆっくりと瞼を閉じた。

 出会った時には既に人の物だった。

 恋心を自覚したのは何時の頃からか、気が付いた時にはもう目が彼を追っていた。


『有坂、悪いな、残業付き合わせて』


 違う、彼と一緒にいたくて私が進んで引き受けたのだ。


『おお、良くやった有坂!帰りに飯でも行くか!』


 笑った顔が幼く見えて、くしゃっと崩れるのが好き。

 骨ばった長い指が、必死にキーボードの上を動くのを見ているのも好き。

 眠気覚ましにと珈琲を飲み込む喉仏が色っぽいと思う。


 偶に寝坊して無精髭が生えているのも、可愛らしく見えてしまう。


 煙と共に溜息を吐き出し、ぎゅっと灰皿に押し付けた吸い殻は、惨めな私のようだ。

 バーで適当に声を掛けて来た男とこうして身体を重ねたけれど、虚しさだけが心に広がった。だけど、人肌が恋し過ぎて代わりを見付けなきゃいられない程、あの人の事が好きになってる。


 どうしようもない虚しさを抱えたまま、毎日あの人と顔を合わせるのはツラい。


 奪える物なら奪いたいとさえ思ってしまう激しい恋情に身を焦がす。

 だけど、あの人が幸せそうに笑うから。


『今度子供が生まれるんだ』


 そう言って、嬉しそうに、照れくさそうに話しているのを見ていた。

 あの人の腕の中にいる女が憎い。

 どんどん嫉妬に塗れて行く私は、別の男と身体を重ねて一人で膝を抱える。


「……どうした?気分悪い?」


 いつの間にかシャワーから出て来たらしい男が、そう言って私の頭に手を乗せる。

 硬い掌の感触と大きな手を、あの人の手だと思い込んでも良いだろうか。


「水でも飲むか?」

 

 その言葉と同時に離れて行った掌に顔を上げた私は、窓から入ってくる風とその姿に更に身体を冷え込ませた。


「木崎……」

「おう。何だ、やっぱ気付いて無かったか。お前飲み過ぎだ」


 安いホテルの部屋に付いてる冷蔵庫から、水を出した木崎はコップに水を入れてからそれを手渡して来る。素直に受け取ってごくりと飲めば、冷たい水が胃に落ちて行く感覚に顔を顰めた。


「……お前、煙草吸うのな」


 灰皿にチラリと目を落とした木崎は、そう言ってボトルに直接口を付けて水を飲み込んだ。上半身裸のまま、膝を抱えて座り込んでいる私の隣に腰を下ろす。


「仕事、じゃねえよな。お前、彼氏いたか?」


 問い掛けに無言で首を振って、煙草に火を点けた。

 身体を重ねたからと言って、自分の物のように思わないで欲しい。


「どうだっていいでしょ」

「いやいや、良くねえよ。何、お前そんな軽い女だったっけ?」

「そうよ。やる事やったんだしもう帰れば?」


 責任を取れなんて言わないから安心してよと、ふうと煙を吐き出しながら視線を逸らした。あの人じゃないなら誰だって同じなのだから。


「……何それ。お前、やり逃げするつもりか?」

「そうだけど?」


 木崎の言葉を肯定すれば、何故か思い切り笑われた。

 同期の木崎は人懐こくて割とどこでも馴染んでしまう男だと思う。親しい付き合いはしてこなかったから解らないけど、偶に行き会う飲み会ではそんな感じだったと記憶している。


「なるほど、お前はセックスの相手を探してるって事か」

「そうだけど、都合の良い女になるのは嫌なの。だからこれっきりよ」

「マジかよ。なんでそんな割り切ってんのさ」

「どうでもいいでしょ」


 鬱陶しい男だと思いながら灰皿に煙草を押し付け、服と荷物を持ってバスルームに入る。持ち逃げされない為の処置だから、濡れないように気を付けながらシャワーを浴びた。

 あの人じゃない男の匂いを消す為に、丁寧に全身を洗い、頭から流れ落ちるお湯に身を委ねる。程良く上気した身体をタオルに包み込み、入念に身支度を整えてからバスルームを出てみれば、既に帰ったと思い込んでいた木崎が一人でベッドに座ってスマホを弄りながら待っていた。


「お、やっと出たか」

「何してんの?」

「何って、お前の事待ってたんだよ」

「頼んでないけど」

「俺の親切の押し付け。駅まで送るけど?」

「いらないわよ」

「ん?最寄駅なのか?」


 それには答えず、そう言えばと部屋代の半分を財布から出して木崎に差し出すと、木崎はニヤリと笑ってそれを拒否する。


「今度俺の都合に付き合ってくれればそれはいらない」

「断る」

「まあまあ。俺はお前が素面の時に抱きたい」

「うわ、絶対嫌だわ」


 何なら今からでもいいがと、腰を抱き寄せられたので遠慮なく肘打ちすれば、木崎は腹を抱えて悶絶していた。今の内にと木崎の胸ポケットにお金を捻じ込んで、さっさと部屋を出て早足で駅に向かう。

 後ろから木崎が付いて来ていないか振り返って確認し、姿が無い事に安堵して息を吐き出した。


 失敗した。


 今日は確かにお酒の量が増えてしまった。

 だって、あの人が幸せそうに笑ながら、愛妻弁当を食べてたから。

 子供が出来て退職したらしい奥さんが、あの人の為にお弁当を作ったと嬉しそうに言っていたから。


 どうして、私じゃないんだろう。


 もう何度も何度も頭を過ったその疑問は、いつも答えが出ないままに通り過ぎて行くだけだ。もし、あの人が結婚する前に出会っていたら、私を選んでくれただろうか。

 ただ虚しくなる『もしも』の考えに頭の中を支配され、やるせなさが募る。


 一人の時間を過ごす事にも随分慣れたけれど、人恋しくてどうしようもない時もある。

 短い時間で良い、私だけを見てくれる目と、私を囲う腕が欲しくてバーに行くのだ。


「はあ……」


 狭いアパートの一室に辿り着き、窓を開けて煙草に火を点けた。

 冷蔵庫から出して来た冷えた炭酸飲料を飲みながら、飲み過ぎて同僚に引っ掛かったなんて馬鹿すぎると自嘲する。

 まあ、木崎とは離れた部署だからいいかと頭を切り替え、もう一度シャワーを浴びてから眠りに付いた。


「おはよう、有坂」

「おはようございます、木崎君」

「おっと、やっぱりそう来るか」


 そう言いながら笑った木崎を殴り付けたい衝動に駆られたけど、必死で抑え込んだ。


「金曜、仕事帰りにちょっと付き合って欲しいんだけど」

「彼女にどうぞ」

「いたら誘わないって」

「じゃあ作れば」

「そうしようとして努力してる所だ」

「じゃあその人誘えばいいじゃない」

「誘ってるよ」


 エレベーターを待ちながら周囲を気にしつつ、小声でやり取りを交わしている私は、思わず隣に立つ木崎を振り仰いだ。


「まあ、そういう話しがしたいから金曜の仕事帰りに付き合って欲しいと思ってんだが」

「……無理」

「うん、まあ何か答えは解ってたけどさ。待ってるから」


 そう言って開いたドアから乗り込んだ木崎は、ドアが閉まる瞬間ニタリと笑って見せた。何度も瞬きを繰り返した私は、上がって行くエレベーターの階数表示を見上げながら、乗り忘れたっ!と盛大に悔しがったのであった。


「おはようございます、大澤課長」

「おはよう、有坂。どうした、ここに皺よってるぞ」

「ちょっと、朝から色々ありまして」


 はははと軽快に笑う大澤課長と挨拶を交わし、席に座る。

 パソコンの電源を入れ、立ち上がるまでの間に昨日までの仕事のチェックをし、漏れが無いか抜けている物は無いかと確認して行く。そうして今日の仕事の流れを大体把握してから、仕事に取り掛かった。


「ねえ、木崎となんかあったの?」

「……え?」

「いや、昨夜木崎がライン飛ばして来たらしくてさ」


 そう言いながらスマホを見せた友人、若菜がニヤリと笑った。


「昨夜帰りの時間が一緒になったもんで、家に来たのよ」

「ああ、野上君?」


 同期の若菜と野上君が付き合い始めたと聞いたのはもう、半年以上前の事だ。

 バッタリ映画館で会った二人は、その時初めて個人的な会話をし、やけに気が合う事に気が付いて付き合う事になったと、若菜から聞いている。


「うん。それでね、いちゃついてる時にラインが来て」

「うん」

「木崎が有坂の事聞いて来たんだけどって」

「ふうん」


 同期の中では確かに若菜と一番仲が良い。だけどそれは、仕事の範囲だけの話しだ。プライベートでまで付き合う程ではないから、気楽な付き合いしかしていない。


「ねえ千春。何があったのよ」

「うーん、バーで偶々あって一緒に飲んだだけなんだけど」

「ほうほう、それでそれで?」

「それでって、別にそれだけだよ」

「む、木崎、さてはヘタレかっ!」


 そうして話をしながら社食でのひと時を笑いながら過ごせたのは、若菜のお蔭だと思う。


「誠はさ、千春と私が友達だって知ってはいるけど、直接話した事は無いじゃない?」

「うん、そうだね」

「それで、良かったら木崎と千春を誘って一緒に飲んでみないかって」

「あー、うん、そうだね」

「うんうん。そうしようそうしよう」


 変な話になっちゃったなあとは思うけど、若菜達が一緒にいるのなら別にいいかとも思う。それぐらいの付き合いはするつもりだから、では早速と言いながら、若菜が野上君にラインを飛ばすのを横目で見てた。


「おお、あっちも丁度そんな話しをしてたみたいよ?」

「え?」

「誠と木崎君。今日一緒にお昼するって言ってたからさ」

「用意周到な感じがするんですが」

「千春、出会いってのはね、自分で作る物なのよ」

「偶然バッタリ出会った人に言われたくないわねえ」

「アイタタタ、そうでしたそうでした。まあでも、そんな身構えた話じゃないから気軽に行こうよ」

「そうね、楽しいお酒なら大歓迎だわ」

「よし来た任せろ!」


 若菜はそう言っておどけて見せたので、クスクスと笑ってしまった。

 昼休みが終わる前に戻った部署で、大澤課長がニマニマ笑いながらスマホで愛のラインの最中なのを見るまでは。


 デレデレの顔をした大澤課長が、慣れた手つきでフリック操作するその指に、ハートマークがたくさん並んだ画面に、苦い思いが込み上げる。


「……奥様ですか」

「ん?うん、まあね。妊娠中は不安になる事が多いらしいね」

「そうですか」

「うん、やたらと不安になってしまう時があるらしくてね」


 それでも、こうして大澤課長が着いていてくれるじゃないか。

 

「では支えるのが夫の役目ですかね」

「そうなんだよ。けど中々難しくてさ」


 何を贅沢な。

 手を伸ばせばそこに、望んだ人がいるくせに。


「……羨ましいですよ」

「うん?」


 丁度昼休みが明ける事を知らせる音楽が鳴り、これ以上大澤課長のデレデレな顔を見なくて済む事にほっとした私は、午後は一言も発さずに過ごし、今日は用事があるからと残業も断って早々に帰宅した。

 家に入るまでずっと目に力を入れ、バッグの肩紐をぎゅっと握り締めてた。

 そうしないと、涙が零れそうだったから。


 玄関に入って早々、靴を脱ぐ前に泣き崩れる。


 嫉妬でどうにかなりそうだった。

 結婚さえしていなければ、独身だったらと、何度も何度も考えて来た。奪いたいとも思ったし、実際そうしようかと画策した事だってある。

 だけど、幸せそうに笑う大澤課長を見る度に踏み止まって来たのだ。

 今更、思いを告げた所でどうしようと言うのか。


「……助けて」


 誰でも良い、私を助けてくれないか。

 散々泣いた後、重い頭のままでシャワーを浴びた私は、瞼を冷やす為に濡らしたタオルを当てていた。やっと冷えて来た嫉妬の炎は、私に日常生活を思い出させる。

 バッグの中で震えていたスマホを取り出し、耳に当てた。


『あ、出た出た、千春、今大丈夫?』

「……うん、大丈夫」

『あのね、昼に言った事なんだけど、明日なんてどう?』

「明日……」

『そう。金曜だし丁度良いかなって』


 若菜と二、三言話して、スマホを耳から放した。

 それを右手に持ったまま、左腕を目の上に乗せたタオルの上に乗せる。

 まだ出て来る涙に乾いた笑いが漏れ出て来るけど、一体いつになったら枯れ果てるのか挑戦してみようかと思ってしまいそうだ。

 そんなバカな事を考えながら、何度もタオルを水で濡らしては目に当て続けた。


「え、じゃあ木崎も今まで話した事無いんだ」

「うん、そうだね?」

「ああ」


 野上君とお噂はかねがねなんて言いながら挨拶を交わした後、木崎とその節はどうもと普通に挨拶を交わした。木崎も説明する際、バーで偶々行き会って一緒に飲んだとだけ話しをしたらしく、ペラペラと余計な事を言われずに済んだ事に安堵する。


 殆ど、野上君と若菜の熱々な会話を聞きながら、楽しく飲んで少しだけはしゃいだ帰り道。木崎が送ると言うのを受け入れた。逆に木崎が驚くぐらいすんなり受けたので、木崎に心配されたほどだ。

 

「だって、野上君と若菜の邪魔したくなかったから」

「ああ……、そっち?」

「まあね。じゃ、ありがとね、木崎君」

「やっぱそうなるのね、うん、何か解ってた気がするわ、俺」


 一人でもう一軒行こうとしていた私は、腕をグイッと引っ張られて溜息を吐き出した。


「何処へ?」

「何処だっていいじゃない」

「このまま俺の事放置するなら着いて行くけど?」

「ストーカー宣言とか怖いんですけど」

「違うから、いや、違くないか?」


 そんな事を言って軽く笑った木崎に、仕方なく話を聞く為に歩き出した。


 付き合ってる奴はいないのか。

 特定の奴はいないのか。

 好きな奴がいるのか。


 たぶん、泣きそうな顔をしてしまったのだろうと思う。

 泣くまいと、気合いを入れた顔はどうやら失敗だったらしい。

 木崎はそのまま私の腕を掴んでぐいぐいと引っ張り、駅の近くのビジホに連れ込んだ。


「なあ、お前にあんな事をさせてる男は誰なんだ」


 掴まれている腕を振り払うように放し、替わりに肩を掴まれ壁に押し付けられた。

 痛みに顔を顰めたけれど、木崎は私よりも怒りを表し、その怒りの炎を乗せた目で見下ろして来る。


「……肩、痛いよ」


 何秒か何分か、それとも何時間なのか。

 木崎とじっと睨み合ったままだった私は、やがて諦念の溜息と共に言葉を吐き出した。


 ぽつりぽつりと紡ぎ出す言葉は、降り出した雨のように部屋の中の空気を重くしていく。垂れ篭めた分厚い雲から落ちる滴のように、静かに、だけど確実に二人の間に沁み込んで行った。


「……要するに、お前は自分でも持て余すぐらいの恋心を燻らせてて?そんでそれを消す為に男を利用してるって事か?」

「うん、そう」

「ちっ。やっぱ俺、やり逃げされたのかよ」

「そうね。全然覚えてないけど」

「……嘘だろ」

「実はあの時飲み過ぎてて。終わったぐらいの時からしか記憶が無いんだよね」


 はははと乾いた笑い声を上げれば、木崎は瞼を閉じて天井を振り仰いだ。

 さて。

 どうして木崎に話しをしたのかはわからないけど、何となく心が軽くなった気がすると、帰る為に身支度を整える。


「おい、待て待て」

「まだ何か?」

「お前は何でそう……、まあいい、今度は俺の話しを聞いてくれ」


 そう言われ、無理矢理聞き出されたとはいえ自分の話しをしたのだから、確かに聞くのが礼儀かもしれないと、こくりと頷いて置かれている椅子に腰を下ろした。


「渋々聞いてやる感を隠しもしない所、今現在の俺の立ち位置が良く解るってもんだわ」


 そう言って、はははと笑った木崎は、その笑みを消してじっと私を見て来た。

 そうしてじっと見られる事に慣れていない私は、段々居心地が悪くなって来て顔を俯ける。居た堪れないから、話しをするのなら聞くから早くして欲しい。


「有坂、お前、その男に告って振られて来い」


突然のその言葉に、盛大に眉間に皺を寄せ顔を上げてマジマジと木崎の顔を見た。


「………………は?」

「お前の話しから想像したんだが。相手って結婚してんだろう?」


 意外にも鋭い読みで当てられ、慄きながらも渋々こくりと頷いた。


「だろうな。そしてお前はその男の家庭を壊すつもりも無い」

「無いわ」

「奪いたいと思った事もあるんだろうが、それは出来ないんだろう?」


 当然じゃない。だって、幸せそうに笑うんだもの。

 初めて会った時から、幸せそうに笑ってたんだもの。


「うん、振られて来い」

「冗談でしょ」

「本気だ」


 告白したら、仕事に支障が出るじゃないの。ふざけんなってえの。

 どれだけ私が自分の気持ちを抑えているのか、この男は知らないからそんな事が言えるんだ。


「振られたら俺がここぞとばかりに慰めるから」

「……馬鹿じゃないの?」

「どうせ一回利用されてんだ、また利用されてやる」

「何、言って」

「利用されてやるから俺もお前のへこんだ気持ちを利用する」


 茶化しているのかと思えば、真剣な瞳に睨まれてて戸惑った。

 一体、この男は何を言っているのだろう。


「ってか振られて欲しい。そんですんげえ落ち込んで欲しい」

「そんな、そんな簡単に言わないでよっ!確かに奥さんいる人を好きになったわよ!だけど、そんな風に踏み付けないでっ!」


 真剣に、ちゃんと真剣に好きになったのだ。

 だからこそ、何も出来ずに踏み止まっているのだから。


「……お前がソイツを真剣に好きなんだってのは良く良く理解してんだよ。だからこそ、代用品で間に合わせようとすんなボケ。真剣なほど代用品じゃ虚しくなるだけだろうが」


 そう言いながら、ポケットから出したハンカチを顔に押し付けられた。

 どうやら涙が出ていたらしい事に初めて気が付く。


「うん……、虚しいよ。虚しくて、余計寂しくなる」


 吐露した言葉に、涙腺が決壊した。

 渡されたハンカチだけじゃ足りなくて、木崎が慌ててコンビニに走ってタオルを買って来てくれる程に涙が溢れ出た。誰でも良いなんて嘘、あの人じゃなきゃ意味が無い。


「虚しいよ、寂しいよ、でも、望めないんだよ……」


 そう言いながら散々泣き続けた私は、かなり酷い顔になったらしく。

 木崎が視線を逸らしながら「シャワーを浴びると良い」と言ったその横顔は、笑いを堪えているようで何だかムカついた。

 その日、木崎は私には一切触れず、ただグチグチと泣き事を零す私に一晩中付き合ってくれた。


「振られて盛大にへこんでくれ」


 そう言って背中を叩かれたのは、散々泣かせて貰った翌週の金曜日。

 その一週間で随分木崎と仲良くなってしまった気がしなくも無い。

 誰にも言えなかった恋心は、木崎のお蔭で随分軽くなった気がしていた。


「あ、とうとう降って来たよ」


 窓の外から見える景色に皆が顔を顰めた。

 夕方から降り出した雨は、徐々に大粒の雨に変わって行く。ボツボツと窓を叩く音を聞きながら、皆が終業に向けてスパートを掛けるのを横目に見ながら、残業の届け出を出した。「ごめんな」と言う大澤課長に、無言で首を振る。

 やがて終業の音楽が鳴り、仕事が終わった者達から席を立ち帰って行くのを見送りつつ、キーボードの上で指を動かし続けた。

 ボツボツと音を立てていた雨音は、今では静かになっていた。


「あー……、終わりましたー……」

「おお、さすがだな、有坂。俺もう少しだから飯でも食ってから帰ろうか」

「いいんですか?奥様がお待ちでは?」

「ああいや、ちょっと具合が悪くて実家に戻ってるんだ」

「悪阻ですか?」

「うん、そうだ。見てる俺もツラくてな」


 作り上げた書類を大澤課長の机の上に置き、帰り支度をしてきますと声を掛けてから部屋を出る。ロッカールームでバッグを取り出し、一度髪を解いて櫛で梳いてからもう一度結い直した。トイレに行って鏡を見ながら化粧を直し、もう一度戻ると大澤課長がドアを開けて出て来た所だった。


「おお、ナイスタイミング」

「でしたね」


 守衛室に鍵を預けてから外へと出れば、静かな雨が降り続いてた。


「傘、持ってますか?」

「鞄に入ってる。有坂は?」

「私も入ってます」


 折り畳み傘を出し、雨の中へと一歩踏み出す。そのまま二人で会社の近くの食堂に寄り、食べて駅まで一緒に歩くのが残業した時の常だった。いつものように食堂で向かい合って食べながら、他愛も無い話をする。ご馳走様とお店の人に挨拶をして、再び傘を差しながら駅まで歩いた。


「……大澤課長、少し、付き合って貰えませんか?」


 そう言ってわき道を言った所にある公園の方を指さすと、大澤課長はじっと私を見た後無言でこくりと頷いた。駅前の喧騒から外れた道を、ただ黙って二人で歩いた。

 ぽつぽつと雨が傘に落ちる音と、二人の足音だけが耳に届いてる中、何故か私の耳にだけ木崎の声が聞こえた気がした。


「……明日も降るのかねえ」


 空を見上げた大澤課長がそんな事を言って、私に言葉を促して来る。

 ちょっとだけ、あともう少しだけこの恋火を消さないで欲しい。大丈夫、ちゃんと解ってるから。


「大澤課長」

「……うん?」

「話を、聞いて下さい」


 ごくりと唾を飲み込んだ私に、大澤課長はまた無言で頷いてくれた。

 向かい合った傘の中で、止め処なく溢れ出て来る恋火はやがて私を包んで燃え尽きる。それでいい、その方が良い。困らせたい訳じゃない、笑顔を曇らせたい訳じゃない。

 受け止めて欲しいと思いながら、受け止めなくて良いと思う。


「こんなに、人を、誰かを好きになったのは初めてでした」


 だからこそ、このまま終わりたいと思えたのかもしれない。

 結局、涙が出て来て恥ずかしくなって俯いた。


「……実は、何となくそうかなと思う事もあった」


 大澤課長の言葉に、顔を上げて笑顔を作る。

 懸命に隠したはずの私の恋心は、大澤課長に届いていたのか。


「有坂、ありがとう。そう思ってくれた事は素直に嬉しい」


 だけど、答える事は出来ない。そう言った大澤課長に、これで終わりにするからとお願いをする。


「一度だけでいいんです、抱き締めて貰えませんか?」


 泣きながらの懇願に根負けしたらしい大澤課長は、傘を持ったまま、片手で私を抱き締めた。パッと離れたその腕に寂しさを感じながら、「ありがとうございました。さよなら」と別れを告げる。

 背を向けた私に聞こえて来るのは、強くなって来た雨音と、遠ざかって行く靴の音。

 徐々に聞こえなくなって行ったその音は、私と大澤課長の心の距離のようだ。


 ボツボツと強い音を立てて傘に落ちて来る雨に、負けないように声を上げた。

 最後にやっと手に入れた私の願いは、全然温かくなかった。

 心が、張り裂けそうだ。


 しゃがみ込み、強くなってきた雨に打たれながら自分で自分を抱き締めて泣いた。


 一度、たった一度だけで良い、その腕で抱き締めて欲しかっただけだ。

 その腕の中で幸せを感じたかった。

 ただそれだけを望んだはずなのに、なんで、なんでこんなに悲しいのだろう。


「あああああああああ…………」


 泣き崩れた私は、その場から一歩も動く事が出来ずびしょ濡れになりながら膝を抱えて座り込んでた。

 強かった雨はやがて小振りに変わり、私の頬を伝っていた涙と鼻水も収まって来た。

 膝の上に乗せていた顔を上げると、視界の中に傘が入り込んで来てビックリして振り仰ぐ。


「………………ひでえ顔」


 泣きそうな顔で私を見下ろしていた木崎の脛をグーパンしてやる。

 痛さに顔を顰めた木崎は、私の頭からタオルを乗せると、全身を覆うような大きな合羽を肩に掛けた後、私と手を繋いで歩き出す。大人しく引っ張られるままに歩き、車に押し込められた私は、ティッシュを貰って存分に鼻をかんだ。


「色気ねえよ、なあ、俺にも気を使って?」

「……今そんな余裕ない」

「ああそうね、うん、だろうね」


 用意周到と言うか準備万端と言うか、乗せられた車の椅子にはピクニックシートが敷かれていて、濡れたままでも気を遣わずにいる事が出来た。車が止まったのはアパートの前で、木崎が借りている部屋なのだと言う。


「いや、どうせなら家に送って欲しかったよ」

「俺に教えていいの?」


 ニヤリと笑った木崎に戸惑ってしまったけれど、下着まで濡れている今、これ以上迷惑を掛けたくなくて家まで送って貰った。私は木崎にそのまま浴室に放り込まれ、その間に作ってくれたお粥を食べながら泣いた。泣きながらグチグチと何か言ってた気がする。


「だと思ったんだ。お前莫迦だろ」


 翌日、しっかりと高熱を出した私の面倒を見てくれた木崎は、私の熱が下がるのと同時に自分も高熱に倒れた。


「……木崎も莫迦だね」

「ほっとけ」


 盛大に振られてへこんだ私は、ほんの少しだけ一歩を踏み出した。

 どうにもならない恋火はまだ燻っているけれど、たぶんそれは、別の恋の種火になるのだろうと思う。


「なあ、有坂」

「んー?」


 私が振られてから一月後、晴れ渡った空の下、久し振りに木崎と一緒に歩いてた。

 大澤課長とは毎日顔を合わせているけれど、あの時の事は互いに口にする事無く、初めはぎこちなかったけど今では元通りだ。

 大丈夫、私は一歩踏み出せたのだから。


「俺と付き合ってくれない?」

「……何処に?」

「お前、そこはお約束じゃねえだろうよー……」


 そう言って赤くなった顔を隠すように頭を抱えてしゃがみ込んだ木崎に笑いながら、私も隣にしゃがみ込んだ。


「ねえ木崎」

「……なに」


 照れて赤い頬を隠している木崎の耳に口を寄せる。


「好きだよ」


 囁くように伝えた言葉に、木崎が勢いよく顔を向けるから、私はぴょんと立ち上がり、走って逃げた。それを呆然と見送った木崎が、追い掛けてくる足音が聞こえる。


「待て!今度は言い逃げかこの野郎!」


 笑いながら走る私に近付いてくる足音はたぶん、新しい恋が始まる音。

 まだ小さな灯火のような恋火を、今度こそ上手く育てて行きたい。


「俺様の足に勝とうなんて十万年早いわっ!」

「あっ、嘘、普通抜かす?ねえ、抜かす!?」


 はははと快活に笑う木崎と一緒なら、それが出来ると思うのだ。






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