第六十三話 最後の声
今まさに命を奪わんと放たれた光弾が、体を僅かに逸れていた。
背後で轟音が響く中、俺は目前に視線を奪われていた。
「ぐっ……!?」
余裕の笑みを浮かべていた女神の顔が、耐え難い苦痛に歪んでいる。
「逃げて、ほたて!」
次に聞こえた。悲痛な叫びは、間違いなくナルクのものだった。
「器の分際で……」
憑依されるがままだったナルクが、内側から抵抗を始めていたのだ。
光弾が逸れたのも、ナルクのお蔭だろう。
と、苦々しげに呟いた女神、いやナルクの体が、再び眩く光った。
「きゃあぁっ!」
すると、高空を浮遊していたナルク体が、一気に地上へ落下していた。
「ナルク!」
重力のままに落下してきた華奢な体を受け止め、地上に降ろす。
憑依されていたことで消耗したのか、ナルクの表情は弱々しい。
「まあいいでしょう、力を取り戻した私に、今や器の存在は不要」
地の底から響くような声が聴こえ、天井を見上げる。
そこに居たのは、背中から純白と漆黒の翼を幾重にも生やした、まさしく神の姿。
女神は、塵を見るような目つきでこちらを睨み付けていた。
その冷酷な視線に、慈愛深かったというかつての面影は少しも残っていない。
「貴方の気持ち、分かるよ」
「何……?」
と、よろよろと立ち上がったナルクが、はっきりとした声で女神に話し掛けていた。
「ずっと一人ぼっちで、寂しかったんでしょう。大切な人がみんないなくなって、一緒に笑ったり、泣いたり出来なくなって、悲しかったんだよね」
驚く俺の前で、ナルクは訥々と語り続ける。
聞き分けのない子供に言い聞かせるように、ゆっくりとした優しげな口調で。
「器の分際で、知った風な口を!」
「私も、少し前はそう思ってた。世界に一人ぼっちで、冷たい水の底に沈んでいるようだった。けど……」
「痴れ事を! 神たる私がそんな、稚児の如き矮小な理屈で!」
「でも、今は違う。今の私には、大切な人達がいる」
激高し、喚き散らす女神に対しても、ナルクはあくまで冷静に語り続ける。
「だから、貴女だってきっとそうなれる筈」
「ナルク、お前……」
ナルクは、女神を赦そうとしている。
自分の存在を利用し、世界すら滅ぼさんとする相手を。
「何もかも無くしてしまうなんて、それは、とっても悲しいことだから」
「矮小な存在が、好き勝手に言ってくれる!」
今の俺には、どちらが女神なのか見分けがつかなくなっていた。
「その喧しい口を閉じなければ、今すぐここで――!」
「ナルクは逃げろ! ここは俺が何とかする」
目の前の女神から放たれる殺意は、最早臨界寸前まで高まっていた。
ナルクの説得も、女神の心を動かすことは出来なかったようだ。
「ほたて」
「大丈夫、必ず帰るさ」
心配そうにこちらを見た瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。
何の根拠も無いのに、その言葉は一切の淀みなく口から出ていた。
「うん!」
洞窟の外へ走っていくナルクを見送り、凄まじい瘴気を放ち続ける女神へ向き直る。
「愚かな! この場で死を逃れたとて、いずれ無に帰る定めは変わらぬというのに」
本当に愚かなのは、一体どちらなのだろうか。
「先に、お礼を言っておきます。この世界に連れて来てくれて、有難うございました。例えそれが罠だったとしても、貴女のお蔭で大切な人達に出会えたことは変わりありませんから」
女神がいなければ、そもそも俺はこの世界にいなかった。
皆に会って、生まれて初めての恋をすることも、心躍る冒険をすることも無かった。
「絶望に身を投げ、今際の言葉を残すつもりですか」
「それと、ごめんなさい」
突然頭を下げた俺を見て、女神の殺気が戸惑いて一瞬和らぐ。
「貴女は……俺が倒します!」
頭を上げ、木刀を抜き放つ。
例えどんな理由があったにせよ、このまま女神の目的を果たさせる訳にはいかない。
この世界は、最早俺の世界なのだから。
「戯言を。その思い上がり、今ここで消し去ってくれる!」
女神の両手から七色の燐光が放たれる。
「このくらいならっ!」
その光を、真っ向から木刀で切り捨てた。
「馬鹿な、今の貴方にそれ程の力がある筈が……まさか!」
今は無くても、昔そうであったのなら再現出来る。
『きおく』の力を使って、さっきまでの自分を再現したのだ。
滅びゆく世界の意思を背負った、救世主としての自分を。
「もう容赦はしません、一撃で消し去ってあげましょう!」
女神の体を中心にして、黒と白の光が収束していく。
空間全体へ稲妻のように力が迸り、周囲の空気がぴりぴりと震える。
「終わりです!」
前方に突き出された両手から、全てを消し去る光の奔流が射出される。
どんな物体であろうと消滅させる一撃が、一直線に迫り――
「それを待っていた!」
「何っ!?」
予想外の光景を前に、女神の顔が驚きに染まる。
こちらの体へ触れる手前で。女神の放った光線は堰き止められていた。
振われた木刀からも、全く同じ光線が放たれていたのだ。
光線同士が衝突し、凄まじい轟音と閃光が周囲に飛び散る。
出来るかどうかは半分賭けだったが、ギリギリで間に合ってくれた。
流石の女神も、自分の攻撃にはどうしようもないだろう。
……だが、ここからどうするかは考えていなかった。
膠着状況の中、ステータス欄に表示されたレベルだけが凄まじい勢いで減っていく。
「このまま均衡状態を保っていたとて、そちらの敗北は変わりません。無限の力に対して、貴方は余りにも儚い」
「くっそおぉ!」
駄目なのか、ここで俺は消えて、世界も。
悔しさと絶望で、思わず両目を閉じる。
――めないで!
暗闇の中で、誰かの声が聞こえた。
「力が……力が、増している!?」
均衡を保っていた光線の衝突位置が、次第に女神の方向へ進んでいた。
――頑張れ、英雄! ――あんたには期待してるんだ、ここで負けたら許さねぇからな ――がんばって、えいゆうさん!
――顔も見えない貴方に対して、今の私達は願う事しかできません。でも、だからこそ、今は心を込めて祈ります。世界を救わんと戦う、たった一人の救世主に対して。
世界中の祈りが、俺の体へ流れ込んでいた。
まさにこの時も、世界中の人々は俺の勝利を信じてくれている。
祈っている人達は、相手が女神だなんて知らないだろう。
けれど、この世界を守る為に戦っていることに変わりはない。
「俺のレベルなんかでいいんなら、全部持ってって良い! だから、今は!」
「私が、負ける……!? ここまで来て、ようやく定めから解放される所で……」
「いっけぇぇぇぇっ!」
駄目押しとばかりに、もう片方の手で課金剣を取り出した。
出し惜しみせず、所持金の全てを放出する。
十字に交差した光の刃が、一気に女神の体へ向かっていく。
空中で光が弾け、視界全てが真っ白に染まる。
――そうだ、私は。私はただ、自由が欲しかったんだ。
薄れていく意識の中、最後に聞こえたのは、寂しげな少女の声だった。