第六十話 英雄の訪れ
少女は神秘的な光を薄らと放ちながら、悠然と宙に浮いている。
この現象に対して、その場にいた全員が何の反応も出来なかった。
護衛も、座っていた三人の統治者達も、ただ目の前の出来事に圧倒されていた。
光景の異様さは元より、瞬時に室内を満たした重圧が、指一つ動かすことを許さない緊張感をその場にもたらしていたのだ。
重圧の原因は、机上数㎝をただの少女から発せられる気配ではない。
その圧倒的な威容は、まさしく『神気』とでも表現出来るものだった。
ナルクを良く知っているシェイルは、それが痛いほど理解出来た。
眼前の存在は、既に自分の記憶にある可憐で儚げな少女とはまるで違ってしまったのだと。
「君は……いや、貴女は一体」
ドルガード王が、困惑を隠し切れない様子で問い掛ける。
修羅場には慣れている筈の王でも、この状況は流石に想定外だったようだ。
「私は、女神の意思を伝えるもの。これから貴方達が聞く言葉は、女神の真言です」
少女はゆっくりと周囲を見渡し、呆然としたままの人々を穏やかに見つめる。
その言葉を受け、室内にはざわめきと動揺が広がった。
「女神だと? まさか、本当に……!?」
驚きが最も大きかったのは、目を大きく見開いたままの楓である。
和国には殆ど女神の逸話が伝わっておらず、生粋の和国育ちである楓は、女神に対して殆ど知識を持っていなかった。
日ごろから女神の存在に触れていたシェイル達と違って、その驚愕は相当なものがある。
「俄には信じ難いかもしれません。ですが、こうして貴方達の前に現れた私こそが証明です」
通常より厳重な警備が敷かれた城内に、生半可な手段で潜入するのは不可能だ。
実際に三者が集まる会議室は城内で最も優先度が高く、魔術に対する防御も万全だ。
もし不心得者が現れようと、瞬時に取り押さえられる戦力は揃っている。
そんな場所にこうもあっさりと出現出来たのは、まさに奇跡と呼ばざるを得ない所業だろう。
三者に危害を加える事が目的なら、こうやって派手に登場する必要も無い。
その考えが集まった全員に行き渡り、室内のざわめきが収まり掛けたとき。
「今世界は、未曾有の危機にあります」
少女の口から、今までとは異なった声が発せられた。
それまでの少女の声色を一段低くしたような、重厚感のある女性の声。
聞いているものの心に自然と染み渡る、まるで穏やかな陽光の如き清音だった。
「この危機に対し、通常の手段で立ち向かうのは不可能でしょう」
「では、貴方には手があると?」
「貴方達が私の言葉を信じてくれるのであれば」
その言葉を皮切りに、室内には重苦しい沈黙が流れる。
誰もが少女の特別性については認識できていたものの、女神の使いだとはまだ信じ切れていない。
国を預かるものとして、軽々しく下せる決断では無かった。
「……分かりました、信じましょう」
沈黙を破ったのは、シェイルの凛々しい声。
「シェイル女王!?」
咎めるような側近の言葉にも、シェイルは慌てた様子をまるで見せず。
「このままでは、座して滅びを待つのみです」
はっきりと言い切った声に、迷いは微塵も感じられなかった。
「何もせずに死すよりは、可能性に賭けた方が良い……か」
「承知した」
シェイルの姿を見て、残った二人も心を決める。
下された決断は、少女の言葉を信じること。
三者の視線を受けた少女は再び荘厳に話し始める。
「世界を救うには、世界の意思を一つに纏めることが必要です。この世界に漂う全ての願いを収束させることで、この危機を退ける力が生まれます」
「しかし、どうやって」
抽象的な説明に、話を受けた側には疑問符が浮かぶ。
「貴方達に望むのは、難しいことではありません」
そう言った少女が、おもむろに右手を翳すと。
「既にこの世界には、全ての願いを受けるに値する英雄がいます」
机の中央に大きな光球が発生し、それに何処かの映像が映し出された。
それは集まった人々にとって全く未知の技術ではあったが、彼らは今までの数分で散々驚いており、今更大仰に驚く気力も残っていなかった。
ただ呆然と、目の前の景色を眺めるのみである。
「これは、まさか……」
映し出されたのは、魔物の群れと戦う一人の青年。
手に持つたった一本の木刀のみで、何十倍もの数と互角以上に渡り合っている。
映し出されたその姿は、集まった統治者達にとっても馴染み深いものだった。
彼ら全てが、彼によって自身の国を救われていたから。
青年は各地で凄まじい功績を立てながら、今まで決して表舞台に立とうとはしなかった。
その青年が今、初めて人々の前に現れようとしている。
この世界を救う、英雄として。
※
ナルクが空からやって来たのは、戦いが一段落し、静寂の戻った沼地で一休みしていた頃だった。
眩い光を纏って現れたナルクにはもう慣れていたが、ナルクの口からべ女神の言葉が出てきたのには流石に驚いた。
女神って、こんな器用なことも出来たんだな。
「俺が、英雄に?」
ナルクの口を通して語られる女神の言葉は、かつて聞いたものと同じく大仰で解り辛いものだった。
それでも、自分が英雄に仕立て上げられようとしている事だけは分かる。
今までどうにか目立たないようにやってきたのに、ここに来て一気に有名人とはな。
「人々の想いを受ければ、貴方の力は飛躍的に高まるでしょう」
「それこそ、世界を救える程にか」
「あの時を思い出しているのですか、カトラ?」
「……ふん」
カトラは不機嫌そうに呟くと、龍の姿でどこかへ飛び去ってしまった。
彼女と女神の間には、二人にしか分からない何かがあるのだろうか。
気にはなったが、一瞬流れた深刻な空気を前に、正面から聞くのは憚られた。
「貴方には、世界全ての願いを背負う覚悟がありますか?」
「また、いきなりですね……」
突然そんなことを言われて、決断できる方がおかしい。
しかし、迷っている暇は無さそうだ。
周囲の情勢に疎い俺でも、世界が大変な状況にあると理解出来た。
ナルクが女神の巫女として目覚めたのも、その表れだろう。
「一つ、聞きたい事があります」
「いいでしょう」
頼みごとをしているというのに、女神は相変わらず偉そうだった。
けれど今はナルクの姿だから、どことなく可愛らしく思えるけど。
「もし世界を救ったら、俺はどうなるんですか?」
「どう、とは」
「前は言ってたじゃないですか、元の世界へ戻れるって」
前は戻れて嬉しかったが、今は違う。
ようやくこの世界に残る決意を固めたというのに、戻されてしまっては世界を救う甲斐が無い。
「私は、貴方の望みが叶うと言ったのです」
「それって……」
ゲームをクリアしても、元の世界には帰らなくて良いのか?
「余談はこれくらいにしておきましょう」
一つ咳払いをして、女神は真摯な瞳をこちらに向ける。
中に入っているのが別人(別神?)だとは分かっていても、ナルクの顔でそうされると照れてしまう。
「再び問います。貴方に、世界を救う覚悟はありますか」
「ここで断るなんて、貴女も思ってないんでしょ?」
答えなんて、最初から決まっていた。
「俺は、俺に出来る事をするだけです」
英雄扱いされたって、やる事は変わらない。
いつも通り、自分に出来る精一杯で戦うだけだ。
「貴方の意思、確かに聞きました」
満足そうにそう言った女神の姿が再び光に包まれ、目の前から消える。
「ふぅ……」
倒木の上に座り込み、一つ溜息を付く。
果たして、今度は何が起こるんだろうか。
「まあ、なるようになる……か」
澄んだ青空の中へ、誰に聞かせるでもない呟きが溶けていく。
涼やかな風が、火照った頬を撫でていった。