第五十八話 そして、始まる
窓から差し込む陽光が、机の上に置かれたカップを照らす。
歪に伸びた長方形の影が、うつ伏せになった右腕に差し掛かっている。
殆ど物の無い整理された家の中は、真新しい木材の臭いに包まれていた。
一応自宅という扱いにはなっているが、殆どここで過ごした事は無い。
多分、野宿した日の方がよっぽど多いだろう。
背もたれにもたれかかり、一人伸びをする。
もう昼過ぎだけど、みんなは何をしているだろうか、
気を使って一人にしてくれたとは分かっていても、少しだけ荒涼とした気持ちが去来する。
今日は、何もしないお休みの日。
自分が望んでそうしたのではなく、強制的に休みを取らされたのだけど。
あくる日、いつものようにレベル上げをして帰って来た所、待ち構えていたセーリット達に働き過ぎだと叱られた。
こちらが疲労を感じない体だと知る由も無いセーリット達からすれば、最近の働きぶりは見ていて危惧を覚えるものだったろう。
確かに、僅かな睡眠時間以外は殆ど戦いに明け暮れていた。
レベル上げや資金集めを考えると、いくら戦っても戦い足りることは無い。
帝国や王国を襲っていた新種の魔物を倒してからも、ナルクの嫌な予感は消えなかった。
何があるか分からないのなら、何があっても後悔しないように今出来ることをやるだけだと考えたのだ。
だからこっちとしては、別に変だなんて思っていなかった。
必要だからやっているだけであって、精神的に平衡を失っている訳でもない。
けど、事情を知らない者から見れば、戦いに人生の全てを捧げた戦闘狂だ。
実際に、街では妙な噂が流れているらしい。
新しい帝国には、女王の懐刀として密かに活躍する恐るべき戦士がいるとか。
たった一人で万の軍隊にも匹敵する実力を持ち、先の内乱でも凄まじい働きを見せたらしいとか。
一人で千体の魔物を葬り、一週間寝ずに戦い続けることも出来るとも言われているとか。
信じ難いことだが、帝国の守り神たる黒き巨竜をも自らに従属させているとか。
内乱に参加した革命兵から流れ出したこの噂、あっという間に帝国中を駆け巡り、今では田舎の子供でも諳んじることが出来るそうだ。
『荒唐無稽だけど、あながち外れていないのが侮れないよな』って笑い飛ばそうとしたら、シェイルに本気で怒られてしまった。
将来結婚を考えている身からすれば、その相手が化け物のように言われていていい気はしないだろう。
シェイル自身はともかく、彼女の臣下にまで化け物扱いされては堪らない。
あまり他人の評判を気にしないたちではあるが、ナルクやユイカ達まで化け物の仲間等と思われるのは嫌だ。
そんな事情もあり、今日は無理にでも休息を取ることになった。
休んだだけで噂がどうにかなるとも思えないが、そのあたりはシェイルが何か手を打つのだろうか?
ゆっくり休息を取れなんて言われたって、何をしていいのか分からない。
あっちにいた頃なら、本を読んだりテレビを見たり色々あったけど……
「はぁ……」
こうして一人になると、今まで考えもしなかったことが脳裏に浮かんでくる。
――最初は、早く元の世界に帰りたい一心だった。
ここにはゲームも漫画も無いし、友達や親もいない。
まともな寝床にありつけることも稀だし、食事だって確実に得られるとは限らない。
その上、この世界には魔物がいる。
痛みや死の危険が無いとはいえ、実際に血飛沫が飛び交う戦場はやはりゲーム等と全然違う。
喧嘩だってまともにやったこともないただの少年にとって、魔物との戦いは神経をすり減らすものだった。
でも、今は違う。
勿論戦いは怖い。怖いけど、以前のように胸の奥をしくしくと締め付けられるような感覚は無い。
多分それは、みんなに会えたから。
こんな自分へ好意を抱いてくれて、結婚まで申し出てくれた。
みんなを守りたい気持ちが、いつの間にか恐怖を上回っていた。
俺は自分勝手だから、シェイルやナルクのように国や世界なんて大きな物の為には戦えない。
けれど、大切な人達の為なら戦える。
それが必要なら、命を捨てることだって――
もし、世界を救ったら。
このゲームをクリアしたら、俺はどうなるのだろうか。
少し前まで、自分がどうしたいかは良く分からなかった。
けれど、今ならはっきりと言える。
俺は、この世界に残りたい。
例え二度と元の世界へ帰れなかったとしても、この世界で生きていたい。
言葉に出ない決意が、胸の奥で静かに固まる。
気付けば、窓から差し込むのは紅い西日になっていた。
と、玄関の扉が勢い良く開かれ。
「ほたてさん!」
大声を挙げながら、セーリットが血相を変えて走り込んで来た。
「ど、どうしたんだ、そんなに慌てて」
彼女に似合わないアグレッシブな動作で、少し面喰ってしまう。
「た、たた、大変なんです」
慣れない全力疾走に疲れたのか、ぜえぜえと肩で息をするセーリット。
「と、取り敢えず落ち着いて」
激しく上気する背中を撫でつつ、椅子に座らせる。
セーリットは注がれた水を一気に飲み干すと、うわ言のように呟いた。
「き、きょう、教国が」
「教国が?」
余程動揺しているのか、そこから先が全く聞き取れない。
少しの時を置いて、ようやく落ち着いた彼女が告げた事実、それは――
※
セーリットがほたて宅に駆け込む少し前。
シーロンケイス内の大会議室には、剣呑とした空気が流れていた。
「教国が、魔物に占拠された?」
臣下の報告を聞き、上座に座るシェイル女王が思わず立ち上がる。
「国境付近を守る偵察兵の報告では、至る所に溢れんばかりの魔物の群れが存在していると」
兵士達が異変に気付いたのは、丁度一日前。
内乱時からの確執もあり、国境付近では常に厳重な警備が敷かれている。
それは教国側も同様で、二国の兵士達は互いに強い緊張感を抱いていた。
だが、その日は様子が違った。
普段なら昼夜を問わず監視を続けている筈の兵士達が、今日は一人の姿も見えないのだ。
監視塔から偵察を試みるが、教国領内には誰の姿も見当たらない。
不審に思った警備隊長が、貸し与えられている遠見の魔導具を用いて偵察を行った。
両手で抱える大きさの水晶玉に映し出された光景は、兵士達の予想を上回るものだった。
「魔物が、そこにいたのですね」
「はい、それも……凄まじい量が」
映し出された景色の中に、人間の姿は一つも残っていなかった。
まるで、一夜のうちに全ての住人が魔物へと変わってしまったかのような。
奇妙なことに、街や村の建物はそっくりそのまま残されていた。
もし街一つ滅ぼされるような激しい戦闘があったのなら、当然建物も無事では済まない。
それに、警備に当たっていた兵士達が気付く筈。
と、会議室の扉が開き、ローブを目深に被った通信魔導兵が駆け込んで来た。
「お、王国側の国境からも、我が方と同様の報告が挙がっているそうです」
その言葉を受け、室内が俄にざわめく。
恐らくこれは、教国の一部で起こっているものではない。
これら前代未聞の異変は、教国という国の全てで起こっている。
「今すぐ、私自らが王国へ赴きます」
混乱する議場の中で、勢い良く立ち上がったシェイルの声が響いた。
「シェイル女王!?」
「これは、一刻を争う事態です」
驚く臣下達に、シェイルは毅然とした態度で答える。
その真っ直ぐな瞳に射すくめられれば、誰であろうと反論は不可能だろう。
「帝国や王国だけの問題ではありません。恐らく、この世界そのものを揺るがす程の」
しんと静まり返った議場の中に、シェイルの凛とした声だけが響く。
暫し間を置いて、臣下達は慌ただしく議場を退出していった。
世界の全てを賭けた戦いが、今まさに始まろうとしていた。