第五十二話 少女の決意
乾いた風が吹き付ける中で、ごつごつとした岩に腰掛ける。
額に手を当てて空を仰ぎ見れば、燦々と輝く太陽が容赦の無い日差しを放っていた。
目の前では、栗毛の年老いた駱駝が、丈の短い草をもしゃもしゃと食べている。
今はすっかり痩せ細ってしまったけど、家にとってはまだまだ大事な労働力だ。
彼の世話をするのが、私に与えられた重要な役目。
お父さんやお兄ちゃん達みたいに働けない非力な私だけど、確かに皆の役に立てているのが誇らしかった。
「お母さん、終わったよ」
散歩を終えた駱駝を納屋に戻し、丁度洗濯物を取り込んでいたお母さんに駆け寄る。
「ありがとね、ナルク」
と、不意に体を屈ませたお母さんが、私の体をぎゅっと抱き締めた。
「きゃっ、ど、どうしたの突然」
お母さんの柔らかい腕、頬に当たるふんわりとした布の感触が心地いい。
嬉しいけど、結構恥ずかしい。
私は、もうそんな年じゃないのに。
慌てて離れると、お母さんはまじまじと私を見つめていた。
「なんだか、あんたが遠くへ行ってしまうような気がしてね」
頬に手を当てながら喋るお母さんの、微かに滲んだ瞳が不安そうに揺れる、
その声には困惑が混じっていて、自分でもどうしてそんなことをしたのか分からないようだった。
「そんなことないよぉ」
はにかみながら笑った私を見て、お母さんも微笑み返す。
あのとき私は、確かな暖かさを感じていた。
代わり映えの無い日々でも、私にとってはそれが全てだった。
両親がいて、兄弟がいて、村の人達がいて。
そんな小さな日常が、かけがえのないものだなんて、全く気付いてもいなかった。
これは、いつかの幸せな記憶。
もう二度と戻れない、通り過ぎた過去の残滓。
あのとき、お母さんが未来のことを予想していたとは思えない。
けれど、現実はその通りになった。
私とみんなは、遠く離れ離れになった。
ずっと、私は考えていた。
何故私だけが生き残ったのだろう。
たった一人生かされたことに、意味があるのだろうか。
私にしか出来ないことが、私がしなければならないことが、いつか目の前に現れるのだろうかと。
※
目を開けると、そこは闇の中だった。
自身の姿さえも把握できない一面の暗闇は、本当に目を開けたのか不安になる程。
体を動かしても、水の中にいるような、もしくは空の上にいるような浮遊感に包まれるのみ。
自分が上も下もない奇妙な場所にいると理解するまで、暫くの時間が掛かった。
数十秒経って、ようやく頭が回り出す。
確か私は、帝国の遺跡に入って、そこにあった大きな扉の前に立って、そして――
思考を巡らせていたら、周辺の空間が不意に歪んだ。
ちかちかとした光が数回瞬いた後、上下左右の空間全体が蜂の巣状に区切られ、一面に絵が出現する。
それはただの絵ではなく、まるでそこに本物が存在しているように、現実の光景がそこにはあった。
万華鏡のように、空間全てに別々の光景が映し出されている。
それは、悪夢のような光景だった。
病院らしき場所に寝かされた包帯姿の人々や、骨と皮だけの姿で倒れ伏す老人。
またある場所では、押し寄せる津波に家々が覆い流されている。
……あそこには覚えがある。確か、教国から帝国へと向かう際に、カトラの背中越しに見えた街だったような。
これは、現実に起こっていることなのだろうか。
世界の現状が、この空間に映し出されている?
確信が持てたのは、足元の光景を見てから。
そこには、知らない場所で戦いを繰り広げるほたての姿が映っていた。
炎に包まれる街の中で、巨大な魔物へ切り掛かるほたて。
一目見ただけで、私にはそれが現実の出来事だと理解出来た。
確実な根拠は無い。けれど、炎に映し出されたほたての険しい表情を見た瞬間、まるで自分がそこに居るかのような錯覚を覚えていた。
それは、飛び散っている火の粉の熱さを錯覚してしまう程の。
映し出された風景について把握出来てから、新たな疑問が生まれる。
これは何なのだろうか、私は、何故この場所へ導かれたのだろうか。
この光景に何か意味があるのなら、光景を見せている相手は何を考えているのだろう。
脳裏に過ったのは、あの扉に書かれていた文面。
選ばれし者がこの扉をくぐれば、女神の力を得られると書いてあった。
「私に、何かをさせたいの……?」
そう言いかけて、小さく首を振る。
ううん、そうじゃない。
ほたては、誰かに命じられるまま戦ったりはしなかった。
どんな時でも、自分の意思で進む道を決めていた。
だから、私も。
「私に、何が出来るの?」
私に出来ることを、私に出来る精一杯でやるんだ。
虚空に問い掛けを発した瞬間、周辺に映し出されていた風景が消え、周囲は元の暗闇に戻った。
「世界は今、滅びの淵にあります」
一筋の光も刺さない漆黒の空間に、聞き覚えのない女性の声が響く。
それは空間全体から発せられたようでもあり、鼓膜へ直接届いたかのようでもあった。
「誰?」
そう問い掛けながらも、心の内では確信があった。
自分にしか聞こえない声で語り掛ける、不親切な女神の声。
いつかの夜、ほたてが苦笑混じりに話してくれたのを覚えている。
その声が、私にも話し掛けてきたのか。
「貴女には、世界を救う役目があります」
「どうして、私なの?」
教国に連れ去られたときも、彼らは理由について説明はしなかった。
何を聞いても、ただ私が選ばれた存在だと言うだけで。
多分、彼ら自身も何故私なのか分かっていなかったのだろう。
私の問いに謎の声は答えず、淡々と話し続ける。
「世界を救う為に、自身の全てを捧げる覚悟がありますか?」
いきなりそんなことを言われて、頷く人間はそういないだろう。
世界を救うというとても抽象的な目的の為に、自分の全部をあげるなんて。
けれど、今の私は違った。
それどころか、安心感すらあった。
私にしか出来ないことが、ようやく見つけられたのだと。
決意を胸に秘め、虚空へ向けゆっくりと頷く。
その瞬間、視界が眩い光に包まれ、そして――
※
ナルクが扉の中へ消えてから十数分後。
朽ち果てた遺物に戻った扉を、ユイカとガルは呆然とした表情で見つめていた。
自身の理解を越えた現象を前に、どうしてよいか分からなかったのだ。
と、二人の目の前で、扉が再び発光を始めた。
「な、何だ!?」
眩い光を放ちながら、ぎしぎしと音を立てて開く扉。
その中から、一人の影が現れる。
「う、ううん」
それは、先程扉の中へ消えたナルクの姿だった。
「だ、大丈夫でゴワスか!?」
「うん、ちょっとクラクラするけど……」
頭を抱えて蹲るナルクに、二人は心配そうに駆け寄る。
ガルの手を借りて立ち上がったナルクに、ユイカが優しく声を掛ける。
「無理すんな。背負ってやろうか?」
「ありがとう。でも、休んでいる暇は無いから」
「ナルク……?」
しっかりとした足取りで歩き出したナルクを見て、ユイカが怪訝そうに呟く。
「……私も、戦うよ」
遠く離れた誰かへ向けた言葉が、洞窟の中を残響しながら消えていく。
真っ直ぐに前を見つめるナルクの表情は、今までの儚げな少女のものとは明らかに変わっていた。