第四十九話 闇の胎動
昔から、私は負けず嫌いだった。
前に立つものには例え遊びであっても容赦せず、全力で勝ちをもぎ取っていた。
勉学や武術においても同様で、兄弟は元より、年の離れた親類に負けたことも一度とて無かった。
実力だけでいえば、間違いなく私が当主になっていただろう。
それでも、私が家を継ぐことは無かった。
両親は、私を政略結婚の道具としか考えていなかった。
丁度十六になった頃だろうか、私の意思とはまるで関わりなく、自分達の利益の為に婚約を決められたのは。
その時だ、家に期待するのを止めたのは。
誰にも告げずに家を出奔し、身一つで生きていくことを決意した。
家を継ぐとは別の道で名を馳せて、私を蔑ろにした家に意趣返しがしたかったのかもしれない。
ただひたすらに剣を極め、武の頂に至る道を選んだのは、子供の頃に抱いた微かな憧れから。
幸いなことに、私は生まれつき恵まれた体躯を持っていた。
だからとて、いきなり武者修行の旅に出るのは無謀すぎる。
人里離れた山林に住処を移し、暫くはたった一人で己を鍛え上げることに決めた。
鍛錬を続けるうちに、所作や言葉遣いも自然と変わっていた。
かつて名を馳せた剣豪達の物語を元に、その技法を模倣する日々。
元々凝り性だった私は、日常生活でも彼らの真似をするようになっていたのだ。
いつの間にか、私は随分男らしくなっていた。
自分から敢えて明かさなければ、自然に男だと思われるほどに。
それに気が付いたのは、彼と出会ってからだったけど。
三年の間修業を続け、それなりに自信も付いた頃。
和国に、物の怪という得体の知れない化け物が現れ始めていた。
物の怪の被害は全国に及び、山奥に住む私の元にも自然と噂が届いていた。
旅に出たのは、自身の腕を試す為。それに、剣豪として名を売る為。
そんな旅の中、初めて出会ったのが彼だった。
彼は、今まで会ったどの人物とも違った。
どこか余裕の無かった私を、彼の言葉は優しく包み込んでくれていた。
何故だか分からないけど、彼の前では自然でいられたのだ。
たった数日で、私はすっかり彼に参っていた。
鍛錬の参考にしたいだなんて、口から出まかせだ。
単に、彼の前を離れたくなかっただけなのだ。
もしあそこで別れていれば、こんな所で命を落とさずに済んだだろうか。
目前に迫った死期に、纏っていた鎧はあっけなく剥がれた。
所詮私は、剣術ごっこをしていただなのだろう。
何度かの戦いを経て少しは自信が付いたつもりだったのに、何も分かっていなかった。
彼や紅鬼逹が立つ戦場は、こうも簡単に命が消えていく場所なのだ。
何も出来ないまま、突き出された男の手が不気味に輝く。
間近に訪れた最期の瞬間に、ゆっくりと目を閉じる。
けれど、そのときは訪れなかった。
代わりに現れたのは――
※
「ようやく来てくれましたか」
もうもうと立ち込める煙が晴れ、目の前に見知らぬ男が現れる。
和国には合わない服を纏った男は、余裕の笑みを浮かべてこちらを見つめていた。
「誰、いや……何だお前」
「流石に理解出来ましたか、経験の賜物ですね」
男の発する気配は、明らかに普通の人間と違っていた。
というよりも、明らかに『人間』と異なる気配である。
この深い闇の中から漂うような悍ましい気配は、恐らく……
「どうです、ここで見逃してくれると約束すれば、私について全てをお教えしますが」
「生憎今日は、お前を倒さないと大赤字なんでな」
ここに飛び上ってくるのにも『きおく』の力を使った。
カトラが見せた飛翔を思い起こして、一気に天守閣まで飛び上がったのだ。
……飛び上がり過ぎて、頭から天井に落下してしまったけど。
とにかく、今日だけで三つもレベルが下がっているのだ、ここで経験値を逃す訳にはいかない。
それに目の前の男は、約束を正直に守るような相手ではないだろうし。
「やはりそう答えますか、では」
男の発する雰囲気が、瞬時に剣呑なものへと変わる。
満面の笑みを浮かべた男が、前方へおもむろに両手を翳し――
「逃げろ、紅鬼! 楓!」
二度目の衝撃が部屋を覆ったのは、楓の体を抱えた紅鬼が、天井に空いた大穴から退避するのとほぼ同時だった。
「無茶苦茶やってくれるな……」
再び煙に覆われた室内で、木刀を支えに立ち上がる。
部屋を覆った衝撃破の威力は凄まじく、常人であれば一瞬で粉微塵に砕け散っていただろう。
咄嗟に木刀を床に突き立てなければ、今頃は遥か先まで吹き飛ばされていた筈だ。
と、真っ白な煙の中から、空気を切り裂く軽い音が耳に届いた。
発動していた『けいさん』が、無意識の内に回避行動を取らせる。
大きく捻った胴体の数ミリ先を、黒い何かが通り抜けていた。
飛び退きながら振り向いて、通り過ぎたものの正体を理解する。
男の手に、先が幾つもに分かれた黒い鞭が握られていた。
一度振われれば、何股にも別れた鞭が無数の打撃を繰り出してくるだろう。
「貴方の実力は、この程度ですか?」
嘲りの言葉を発しながら、残像も残らない速度で男が腕を振るう。
黒い鞭は唸りを上げて、まるで生き物のように次々と襲い掛かってきた。
「ここじゃ不利っ、か!」
射程で負けているにも関わらず、狭い場所に留まるのは愚策だ。
かつて壁だった場所から抜け出て、瓦葺の屋根へ飛び移る。
「逃げの一手とは、話に聞いていた姿と随分違いますね」
見せつけるように鞭を構えながら、男もゆっくりと部屋の外へ出る。
さっさと突撃して叩きのめしたいのは山々なのだが、『けいさん』が導き出す答えは違っていた。
恐らくあいつも、ただの打撃では倒せない相手だろう。
これがゲームなら、単調なプレイに歯応えが出たと喜んでいたかもしれない。
難易度を上げてくれと頼んだ訳でもないのに、随分サービス過剰な事だ。
「別に、お前を楽しませるために戦ってる訳じゃないからな」
軽口を叩きながら、男との距離を慎重に図る。
軽く弧を描くように歩きながら、じりじりと距離を詰める男。
足元の瓦が、踏まれる度にからからと乾いた音を響かせる。
「来ないのなら、こちらから行きますよ!」
痺れを切らしたのか、男が一気に距離を詰めた。
「ちょっと距離が不安だけど……!」
それに呼応するように、こちらも瓦を蹴って前方へ躍り出た。
宙を滑る鞭を足場にして、空中で一気に加速。
「なっ!?」
その勢いのまま、男の体にぶつかる。
驚愕の表情を浮かべたままの男と共に、勢いよく屋根から飛び出した。
「何を考えて……!?」
「生憎俺は、どんな場所から落ちても死なないんでな」
こちらの世界に来てから今まで、高所から落ちても一切傷を負うことは無かった。
流石にここまでの高さは初めてだが、大丈夫……の筈だ、多分。
「けど、お前はどうかな?」
「ぐっ!」
拘束を抜け出そうともがく男の胴体に、木刀を思い切り突き立てる。
予想通りこれで致命傷にはならなかったが、動きを止められれば十分だ。
「成程、流石、ですね」
どこかすっきりとした表情の男と共に、俺は自由落下のまま中庭へ落着した。
衝撃が体の芯を突き抜け、まともに目を開けてることすら難しくなる。
それでも、木刀を握った両手を離すことは無かった。
重力を助けにして、木刀が男の体へ深く突き刺さる。
「がぁぁっっ!」
激しい断末魔を上げて、男の体から黒い鮮血が噴き出した。
足掻くように暫し痙攣した後、男の体は完全に静止する。
木刀を引き抜き、体に付いた血を拭う。
村で借りた麻の上着は、あっという間に漆黒へ染まっていた。
「……私に勝った、褒美に、一つ、教えて、差し上げましょう」
仰向けに倒れた男が、浅い呼吸を繰り返しながら呟く。
「世界の、滅びは、既に、始まって、いるのです」
不穏な言葉だけを残して、男の体が闇に解けていく。
男が去った中庭に、動くものは残っておらず。
ふと見上げた夜空には、ほの赤く染まった月が浮かんでいた。