第四十六話 潜入、江渡城
雲の間から覗く月が、淡い光を地上に届ける。
玉砂利の敷き詰められた中庭には、何人もの人間が入り混じる足音が大きく響いていた。
砂利を踏んだ足音で振り向くと同時に、眼前の忍者に木刀を突き出す。
貫かれたかに見えた体が、次の瞬間には嘲笑うように木の葉に変わる。
驚く間もなく、短刀の一撃が背後から繰り出される。
身体を捻ってそれを避け、勢い余って目の前に出て来た忍者の前に右足を差し出す。
無防備に晒された体は、忍者自身の力で吹き飛んでいった。
息を付く間もなく、今度は足元の地面が不自然に盛り上がった。
敵が出てくる前にそれを思い切り踏みつければ、隙を狙って手裏剣が左右から飛んでくる。
「ああもう、何でこうなる……!」
次々と現れる敵を前に、思わず愚痴が漏れる。
容赦なく吹き付ける殺意の中で、終わる気配の無い戦いが続いていた。
※
止められることも無くすんなりと入れた江渡の町は、首都に相応しい様相を備えていた。
建物の数や質は他の街と比べ物にならない程で、流石に都というべき豪勢さだ。
しかし通りを歩く人々の表情はどこか暗く、心なしか活気が足りないように感じていた。
これも、生類憐みの令や物の怪の影響なのだろうか。
目立つことを避け、少し寂れた裏通りの安宿に部屋を取る。
年老いた気の良さそうな女将は、踊り子だという紅鬼の説明を素直に信じていた。
案内された宿屋の一室で、紅鬼から今後の作戦を聞く。
話が本題に入った途端、黙って聞いていた楓が突如大声を上げた。
「暗殺!?」
それも当然だろう、紅鬼が言い出したのは、将軍綱好の暗殺だったのだ。
「成程、それが手っ取り早いか」
「ちょっと待て、相手は只の侍ではなく、この国を治める将軍なのだぞ!?」
身分制度の厳しい和国に置いて、将軍はまさに殿上人とも呼べる絶対の存在。
普通であれば、危害を加える事すらあり得ない人物である。
流石の楓も動揺を隠せず、視線を左右に彷徨わせていた。
「でも、これ以上有効な手は無い」
「ですね」
話を聞く限り、和国がおかしくなったのは綱好が将軍に着いてから。
取れる手の限られている俺達にとって、最小限の労力で最大限の効果が発揮出来る作戦だろう。
楓には悪いが、状況を鑑みれば当然の結論だ。
「な……」
絶句する楓とは対照的に、俺達は冷静に会話を続ける。
「それで、将軍の居場所は分かっているんですか?」
「……そんなの、和国の住人だったら誰だって知ってる」
まだ衝撃を呑み込めていないのか、楓は少し疲れた様子で窓の外を見る。
「あの城に……」
窓の向うに見えるのは、街の中心に鎮座する大きな城。
巨大な天守閣が目を引くその威容は、街に入る前からもはっきりと確認できるものだった。
「あれこそが、幕府の象徴であり、将軍の居城である江渡城です」
江渡城、名前こそ少し違うが、その重要さはあちらの世界に存在していた江戸城と同様のものだろう、
「我ら臥鬼忍軍は元々将軍の下に仕える隠密でした。故に城の構造については知り尽くしています」
流石に警備は厳重であり、正面突破は自殺行為でしかない。
しかし臥鬼忍軍の知識を活用すれば、労せずに潜入可能だそうだ。
……紅鬼には言わなかったが、俺の戦力なら別に正面突破出来そうである。
少なくとも、只の人間相手なら何百人いようが相手にならない。
しかし、そう出来ない理由があった。
暗殺者として幕府に存在が知られてしまうのは不味いのだ。
今の目的は幕府を滅ぼすことでなく、帝国を救う事。
もし将軍暗殺の実行犯として認識されてしまえば、まともな交渉は難しいだろう。
「決行は?」
「明日の夜」
期間が長引けば長引く程、素性の割れる危険が大きくなる。
さっさと事を済ませてさっさと離脱する、忍者らしい無駄のない計画だ。
「は、早いな……」
ぽつりと呟いた楓の顔には、躊躇いがありありと浮かんでいた。
「楓、無理にとは」
好意でここまで同行してくれたが、楓にそこまでする理由は無い筈だ。
将軍暗殺と言う大罪がもし表沙汰になれば、無関係な楓の家族にも累が及ぶかもしれない。
だが、楓はゆっくりと首を振った。
「気遣いは無用だ。最初は動揺したが、よくよく考えてみればそれ以外に手は無い。……暗殺という方法には、心から賛同出来ないがな」
「それでもいいさ、俺もこれが最善だとは思ってない」
どんな理由があったとて、人を殺める手段に正しさは無い。
例え相手が悪人だったとしても、命まで奪われる謂れがあるだろうか。
「今日はゆっくり休んで、明日に備えるか」
何処か吹っ切れた様子の楓に頷き、もう一度窓の外を見る。
江渡城は先程と全く変わらない姿で、悠然とそこに建っていた。
※
将軍暗殺という言葉の重々しさとは対照的に、作戦の内容自体は実に単純だった。
江渡城は高い城壁が外からの侵入を拒んでいるが、かつて臥鬼忍軍が使用していた隠し通路がある。
これは一族の秘密であり、たとえかつての主であっても知る由が無いそうだ。
中に入ってからも、見張りの行動は全て紅鬼が把握している。
そのまま建物の中に入れば、後は成功したも同然だろう。
決行の夜は、天候に恵まれた曇り空。
薄暗い地下通路を抜け、江渡城内へと侵入する。
突き当りにあった縄梯子を昇り、上開きの古びた扉を開ける。
そこに広がっていたのは、玉砂利を敷き詰められた中庭の光景。
外から見ると、この通路は古びた井戸に偽装されていたらしい。
深夜の江戸城は、不気味なほどの静寂に包まれていた。
「ここからは、私の後に続いて下さい」
いつかと同じ赤い忍び装束を纏った紅鬼に続いて、中庭に一歩足を踏み入れた、そのとき。
空間が不意にゆらぎ、音も無く表れた忍者達が俺達の周囲を囲んでいた。
白い忍者装束に、不気味な赤い眼鏡。
現在の御庭番である刻屍忍軍の姿が、そこにはあった。
驚きで動きが固まった俺達に、忍者の一人が冷徹に告げる。
「愚かな奴らだ、自分達が誘い込まれていたとも知らずに」
「そんな……!?」
全く想定外の展開に、紅鬼の瞳が驚愕で見開かれる。
「紅鬼、楓、先に行け!」
決断は、自分でも驚くほど速かった。
「しかし」
「ここまで来たら、後戻りは出来ない」
どうやって知ったか分からないが、敵は俺達の襲撃を予測していたのだろう。
ということは、既に臥鬼忍軍の里にも手が回っているかもしれない。
こうなってしまえば、選択肢は一つだ。
つまり、将軍暗殺を成功させるしかない。
「分かりました」
「……くっ、死ぬなよ」
「そっちこそ」
動き出そうとする二人を、正面の忍者が取り囲もうとする。
勿論、それを黙ってい見ている訳にはいかない。
『きおく』を発動し、正面の忍者へ燃え盛る火炎をお見舞いする。
「があぁっ!?」
炎の壁は数人の忍者を巻き込んで燃え上がり、あっという間にその体を灰燼に帰る。
何の前兆動作も無く繰り出された攻撃で、流石の忍者達も面喰ったように動きを止めていた。
「今だ、行けっ!」
その隙を突き、二人が忍者の間をすり抜けて疾走する。
「くっ、待て!」
追い縋ろうとする忍者の背中に、木刀の一撃を叩き込む。
ゴム毬のように地面にバウンドして消えていった忍者を一瞥し、周囲の忍者へ次々と襲い掛かっていく。
視線を周囲へ向ければ、全く同じ格好の刻屍忍軍達がわらわらと中庭に殺到していた。
先程までの静寂を破って、中庭には何人もの雑多な足音が響く。
押し寄せる白い嵐の中心で、ただ一人忍者達と相対する。
「貴様、何者だ」
「さぁね、聞きたきゃ力尽くで聞くんだな!」
敢えて勢い良く切った啖呵が、夜の闇に解けて消えていった。