第三十九話 和の国へ
空には一面真っ青な青空が広がり、風を切る音がすぐ近くで聞こえる。
眼下に見える分厚い雲は、暫く延々と白い大地を模っている。
この下では、今頃雨でも振っているのだろう。
悠々と上空を飛ぶ龍の背に乗っていれば、下界の喧騒は遥か遠い。
「我を足として使うとは、相変わらず不遜な奴だ」
当然新幹線や飛行機が無い世界で、飛龍の機動力は圧倒的だ。
歩きでは数週間掛かる旅路も、僅かな時間で済ませることが出来る。
帝国から王国へ向かったときも、カトラの力を貸してもらっていた。
「船が出てないし、これ以外に方法が思い付かなかったんだ。でも、本当に助かったよ」
鎖国政策を取っている和国への交通手段は、全て封じられていた。
周辺の漁師から船を借りようかとも思ったが、生憎今は金欠だし。
「……ふん」
カトラは鼻を鳴らすと、そのままそっぽを向いて黙り込んでしまった。
多分、礼を言われて照れてるんだろう。
「和国、か」
これから赴くのは、この世界の人間でも情報を持っていない未知の場所。
一応王都の図書館で情報を仕入れてみたが、大まかな地形が分かったのみ。
全く見知らぬ場所に、隠そうとしても不安が漏れる。
帝国や王国の苦境を訴え、同じ世界に暮らす者として力を貸してもらう。
言葉にすれば単純だが、果たして自分一人にそんな大役が務まるのだろうか。
「まあ、やるしかないよな」
ふっ、と息を吐き、胸に溜まっていた澱みを追いやる。
何が待っているにせよ、自分に出来ることをやるだけだ。
「見えてきたぞ」
カトラの言葉に、思索を止めて下を見る。
「あれは……」
いつの間にか雲は消え、眼下には蒼い大海が広がっていた。
抜けるような透き通った青色の中に、ぽつぽつと緑いろの塊が見えている。
和国を構成しているのは、直線状に並んだ大きな島が四つと、大海に群生する無数の小さな島々だという。
現れ始めた幾つもの島々は、和国へ近付いた証だろう。
「このまままっすぐ行ってくれ」
地図通りなら、この先に和国で最も大きな都市がある筈。
「承知した」
身体を大きく伸ばしたカトラが、風に乗ってぐんぐん速度を増していく。
遥かに広がる地平線の先に、何が待つのか。
その答えは、もうすぐ分かる。
※
時は夕刻、都から遠く離れた和国のある村にて。
一面に群生する芒が、赤い日に照らされてそよそよと揺れている。
その内の一つに止まっていた赤蜻蛉が、近付く人の気配を感じて飛び立つ。
あぜ道を歩いてきたのは、飾り気の無い着流し姿の青年。
一見ただの旅人にも見えるが、腰に刺した刀には二本の刀を差していた。
和国の風習において、刀を持てるのはある程度の地位を持つ者のみ。
また、刀に着けた鞘は鮮やかな漆で染められていて、それだけでも青年の素性が伺い知れる。
と、何かに気付いた青年がおもむろに走り出す。
「やはり、物の怪か!」
厳しい視線表情の青年が見つめる先に居たのは、和国では見慣れない服装の怪しい男。
「え、何?」
いきなり大声で呼び掛けられ、男が驚いたように振り返った、瞬間。
「――!」
周囲に、孔雀の鳴き声のような絶叫が響いた。
一泊の間を置いて、切り取られた芒の先端がはらりと大地に落ちる。
「くっ、外したか」
くの字に体を曲げたまま固まる男を見て、青年が悔しそうに臍を噛む。
青年の手には、鞘から抜き放たれた刀が握られている。
刀による抜き打ちが、眼にも止まらぬ速さで振るわれていたのだ。
「喰らえ、物の怪!」
「いや、だから、何なのさ!」
青年が叫ぶ度に、白刃が何度も空中で煌めく。
掠っただけでも致命傷になりかねない一撃を、男は全て紙一重で躱していく。
「ええい、往生際の悪い。大人しく成仏しろ、忌まわしき物の怪め!」
十数回の一方的な応酬を負え、青年は刀を降ろし肩で息を吐く。
縦横無尽に刀が振り回された結果、周囲の芒はすっかり刈り取られていた。
「さっきから言ってるけど、物の怪って何なんですか」
「惚けるな! 命を奪われた民草の恨み、今こそ晴らさせて貰う!」
「いや、さっき着いたばっかりなんですけど」
顔を真っ赤にして詰め寄る青年とは対照的に、男はあくまで冷静だった。
憤懣やるかたないといった様子の青年を、男は不思議そうな顔で眺めている。
「……って、何だあれ」
と、男がおもむろに青年の後方を指差した。
「虚言で隙を作り出すとは、姑息な手を」
本気で驚いた様子の男を見ても、青年は呆れたように首を振るのみ。
「いや、後ろ!」
「ふん、この私にそんな……ぎゃっ!?」
慌てた様子で後ずさる男に、刀を再び構えた青年が追い打ちを喰らわせようとした、そのとき。
ぬらりと現れた黒い影が、青年の体を吹き飛ばしていた。
「こいつが……物の怪?」
吹き飛んだ青年を一瞥もせず、男は黒い影を見つめる。
それは、巨大な月の輪熊だった。
普通の熊と違うのは、毛深く逞しい腕が四本も生えている事だろう。
「貴様、仲間を呼ぶとは卑怯な!」
顔に泥を付けたまま立ち上がった青年が、熊を見て男に怒る。
「何でそうなるんですか!?」
漫才のようなやり取りを繰り広げている二人には構わずに、熊はぎらぎらと光る四対の爪で襲い掛かる。
「ああもう、ただでさえ面倒くさいのに」
男はそれら全てを最小限の動きで避けつつ、瞬時に熊の背後へ回り込んでいた。
「な……」
まるで攻撃の来る時分が予め分かっていたかのような、全く無駄のない動作を前に青年が思わず絶句する。
「邪魔なんだよ!」
八つ当たり気味の叫びが轟いた後、黒い壁のような熊の体が中央から真っ二つに割れる。
それを為したのは、男がいつの間にか手に持っていた木刀だった。
「まさか、本当に違うのか?」
無残な姿で倒れ伏す熊と男の間に視線を往復させ、青年が男に問い掛ける。
「最初から言ってるでしょ」
ゆっくりと木刀を納めた男は、呆れたように溜息を一つ着いた。
「しかし、物の怪を倒すとは……」
動かぬ骸となった熊を見て、青年は重苦しく呟く。
「物の怪物の怪って、魔物じゃないのか?」
男が何事か問い掛けるも、腕を組んで考え込んだままの青年には聞こえていないようだった。
「……倒してしまうとは」
と、俄に道の向うが騒がしくなり、熊手を持った農民たちが何人も現れた。
どうやら、今の騒ぎを聞きつけ、周辺の村人が駆け付けたらしい。
「逃げるぞ」
「えっ、何で?」
深刻な表情になった青年に連れられて、納得のいかない表情のまま山の奥へ消えていく男。
そんな二人を、のんびりと空を飛ぶ赤蜻蛉が見下ろしていた。
※
枯葉を踏むかさかさという音と、どこからか聞こえ始めた鈴虫の音色がもの悲しく響いている。
「ここまで来れば……」
木々が光を遮る薄暗い森の中で、青年はようやく足を止めた。
「まずは詫びよう、早とちりで迷惑を掛けたな」
こちらに向き直った青年は、深々と頭を下げた。
「いえ」
物の怪とやらに間違えられたのは心外だが、誤解が解けたのならそれでいい。
「私の名は、楓だ」
頭を上げた楓は、こちらを見てはっきりと名乗った。
「俺は、ほたて」
名乗り返し、楓の顔をまじまじと見つめる。
年は同じくらいだろうか、この世界では見慣れない東洋系の顔立ちで、目鼻立ちの整った美形の青年。
蒼色の薄い着流しを纏い、黒い長髪を後頭部で結っている。
「どうして逃げたんですか?」
聞きたいことは色々あったが、まず気になったのはこれだ。
彼の様子から考えると、物の怪は民衆に被害を与える存在の筈。
それを倒した俺達が、何故こそこそと逃げねばならないのだろう。
「知らないのか!?」
「何を?」
驚いた様子の楓に、訳も分からず聞き返す。
「……あれは倒してはいけなかったんだ。出来れば、生け捕りにするべきだった」
「どうして?」
聞き返すしか出来ないとは我ながら間抜けなやり取りだが、全く見当が付かないのだから仕方がない。
再びの質問に、楓は深い悲しみを湛えた表情で押し黙ると。
暫しの沈黙の後、吐き捨てるように呟いた。
「生類憐みの令、さ」
消え入りそうな声が、森の静寂に溶けていく。
いつの間にか日は沈み、空には三日月が昇り始めていた。