第二十九話 戦乱の地、再び
空に浮かぶ満月を見上げながら、レンガ造りの屋根に腰掛ける。
今の教国は過ごし易い時期に当たるらしく、時折流れる涼風が心地よい。
今頃下の部屋では、ユイカが大きないびきを立てて熟睡しているだろうか。
「何をしているのだ?」
と、屋根に掛けられた梯子の方向から、カトラの低い声が聞こえた。
常に自信満々なカトラは、足場の不安定な屋上でも悠然と立っている。
「ちょっと、眠れなくてさ」
女神のことや過去のことや魔物のこと、余りに色んな出来事があり過ぎて、思考の整理が追い付いてない。
こうやって夜風に当たり、少しでも気持ちを落ち着けたかった。
隣に座ったカトラと、何を話すでもなく夜景を見つめる。
そのまま数十分が経った頃だろうか。
相変わらずまん丸い月を見ながら、なんとはなしにカトラに話を振ってみる。
「前から気になってたんだけどさ、何でカトラはそんな姿なんだ?」
カトラが人間の姿を取るときは、成人の姿でなく年若い少女の姿を取っていた。
わざわざその恰好になる理由でもあるのだろうか。
「これのことか?」
カトラは自身の大きな胸の下に手を回すと、果物を持つかのように掬い上げた。
胸に付いた二つの球体は、空に浮かぶ月よりもまん丸だ。
「……っ!?」
余りに無造作な動作に、こっちが驚いてしまう。
「お前が望むのなら、触っても構わんぞ」
カトラはその体制のまま、見せつけるように両手を揺らす。
ばうんばうんと揺れる双丘に間近で対面して、何が何だか分からない混乱状態に陥る。
「そ、そうじゃなくてさ!」
正気を取り戻すまでの数秒間、視線は胸に固定されていた。
「何だ、つまらんな」
急に冷静になったカトラの反応で、ようやくからかわれていたと察する。
「はぁ……」
あっちは随分楽しそうだけど、その相手になる方は疲れる。
「龍のままでは行動に不便が生じるときがあってな。動きやすい恰好を念じたとき、自然にこの姿になっただけだ。他意は無い」
「動きやすい、かなぁ……」
一般女性の平均より明らかに大きな胸は、歩く度に大きく揺れてかなり重そうだけど。
「ほたて」
と、後方から聞き慣れた声で呼び掛けられた。
「ナルク? どうしたんだ」
寝間着姿のナルクは、屋上から見る景色が珍しいのか周囲をきょろきょろと見渡していた。
「お礼、まだ言ってなかったから」
「別にいいのに」
時折地上を見ながらおずおずと近づいてくるナルクに、思わず立ち上がって手を貸す。
手を握った瞬間に少しだけ赤らんだ顔を見て、思わずこちらも頬が熱くなる。
「座っても良い?」
「あ、ああ……」
「我は構わんぞ」
カトラと反対側に腰掛けたナルクは、いきなり肩の上に頭を乗せ、体重を乗せてこちらに寄りかかった。
「ナルク?」
いきなりの急接近に、意識せず声が上ずる。
「ねぇ、ほたて」
「あ、ああ」
耳元に暖かい息がかかり、背筋がぞわっと震える。
直接触れるナルクの体温は、予想よりも大分熱く感じる、
「暫くこうしていても、いい?」
潤んだ瞳+上目遣いで問い掛けられれば、断るという選択肢は無い。
無言のまま、一も二も無く頷いた。
夜の街に人影は無く、不気味なほど静かだ。
そんな中では、自分の心音がやたら大きく聞こえる。
まるで、すぐ近くを濁流が流れているのかと錯覚してしまう程に。
隣にいるナルクも、似た様に感じているのだろうか。
確かめようにも、直接聞くなんて出来る筈も無く。
「まったく、見せつけてくれるな」
「カトラ!?」
いつの間にか背中に回っていたカトラが、覆い被さるように抱き付いてきた。
背中へ直に柔らかい感触が当たり、嬉しいやら恥ずかしいやら。
「むぅ……」
あからさまな横槍に、ナルクの機嫌が目に見えて悪くなる。
「何、二人が随分仲睦まじくしておるから、我も混ぜて欲しくなってな」
「あのなぁ……」
カトラに対抗するように、ナルクもぐいぐい体を寄せてくる。
何だか最早、おしくらまんじゅうをしているような気分だ。
「騒がしいと思ったら、何やってんだお前等」
今度は、寝ていた筈のユイカまで現れた。
「……何だろうね」
明日にはまた帝国に戻るというのに、まるで緊張感が無くなってしまった。
「でも、これくらいで丁度いいのかもな」
言い知れぬ安堵感の中で、知らず知らずの内に笑みがこぼれていた。
数十分経って、ナルク達はようやく体を離した。
深く息を吸い込んだナルクは、徐に立ち上がり。
「私も一緒に行くよ、ほたて」
真剣な口調で、自身の決意を告げた。
「ナルク……」
身を案じて置いて行ってもあんなことになったのだ、今更止めることは出来ない。
「こうなれば一蓮托生、という訳だな」
カトラの言葉に、全員が頷く。
夜は、いつの間にか明けようとしていた。
※
教国が帝国に介入を開始してから数週間後、革命軍の本拠地であるルーツスカ城にて。
城内の一室では、シェイルとセーリットが今後の方針について話し合っていた。
「ここからが正念場、ですね」
「う、うん……」
あれだけ戦意旺盛だった教国軍は何故か一斉に退却を始めており、魔物の侵攻にも落ち着きが見えてきた。
帝国内から余所者の姿は消え、革命軍と帝国軍の戦いが再び始まろうとしていた。
「て、敵襲! 帝国軍です!」
と、一人の伝令が、大声を発しながら室内に駆け込んで来た。
慌てて城壁に登った二人が目にしたのは、居並ぶ帝国軍の軍勢。
城から少し離れた場所に布陣した帝国軍は、今にも攻め込まんと気勢を上げている。
帝国軍は、一気に奇襲を仕掛けてきたのだ。
「何故ここまで接近を……」
勿論、革命軍とて帝国軍の攻撃を想定していなかった訳ではない。
城の周りには数十の砦が築かれ、厳重な警戒網が機能している筈だった。
「た、多分、あれを使って」
セーリットがおずおずと指差したのは、居並ぶ帝国兵の後ろで黒煙を上げる機動兵器の姿。
四本の足で大地に立つそれは、かつてほたてが戦った歩行要塞と似た兵器。
恐らく帝国軍は、通常の何倍もの速度で進軍出来る歩行要塞に兵士を搭載し、短時間で一気に城へ侵攻してきたのだろう。
「ただ閉じ籠っていただけではなかったということですか」
十を軽く超える歩行要塞の数は、今まで革命軍が掴んでいた情報を軽く超えていた。
帝国軍の科学力が、あれを量産出来る程にまで高まっているのとは。
帝国軍は教国や魔物との戦いを避け、自分達の戦力を守る事だけに勤めていた。
たとえ領土内の民衆に被害が及ぼうとも、一切助けに入ることもせずに。
その間に、帝国は更なる遺跡の発掘を進めていたのだ。
単に兵士の数でいえば、革命軍の方が上回っているだろう。
自分達が傷付こうとも無辜の民を守る為に行動していた革命軍には、更なる支持が集まっていた。
しかし、戦力差では圧倒的に不利だ。
鋼の体を持つ機動兵器群を前に、生身の兵士で太刀打ちすることは難しい。
意を決したシェイルが撤退の号令を下そうとした、その瞬間。
青々と晴れた雲一つない空から、突如黒い炎が降り注いだ。
大地を焦がす漆黒の焔は大地を舐めるように広がり、帝国軍を呑み込んで一帯を炎獄に変えた。
炎は歩行要塞の堅牢な装甲さえも、まるで飴細工のように溶かしていく。
燃え盛る炎を見下ろしつつ、城壁の上に悠々と一体の黒い怪物が降り立った。
突如現れた怪物を前に、革命軍の兵士が怯えつつも周囲を取り囲む。
その背に乗っていたのは、二人の少女と、一人の青年。
青年の姿を目にしたシェイルは、兵士達に警戒を解くように告げる。
怪物の背から降り立ち、シェイル達の傍へ近付く青年。
彼に対し、シェイルは微笑みながら声を掛けた。
「おかえりなさい、ほたてさん」