第二十六話 現れた”神”
カトラの背に乗って、暫く天空を飛翔する。
いつしか暗雲は晴れ、地平線の先まで広大な森林が広がっていた。
さっきまでの殺風景な荒野とは打って変わって、緑の大地は命の息吹で満ち溢れている。
カトラは、鬱蒼と茂る森林のある一点に舞い降りた。
地面に着地したカトラの背中から飛び降りた瞬間、目の前の光景に圧倒されていた。
「でっか……」
前方の視界が、途轍もなく巨大な大木の姿で埋まっていたのだ。
カトラが降り立ったのは、この巨木のすぐ傍だった。
幹の直径はどれくらいだろうか、あちらの世界に建っていた巨大なビルが、何本も余裕で収まる程の太さがある。
高さも相当なもので、遥か先まで伸びる先端は雲に覆われて確認出来ない。
上空から見てもその大きさは分かったが、近付いてみると想像以上だ。
余りに大きすぎて、一目見ただけではそれを樹木だと認識できなかった。
「ミトレーヤ、お前に客だ」
姿を変えたカトラはその木に近づき、親しげに話し掛けた。
「これが、女神だって……?」
聞き間違いでなければ、カトラは確かにミトレーヤと言った。
確かに神秘的なものを感じるが、どう見ても樹木にしか見えない。
「女神かどうかは分からんが、ミトレーヤならこいつしか知らん」
呆然とする俺を見て、カトラはどこか楽しそうに口の箸を緩めていた。
女神だと期待していたのに、会えたのがただの木だったとは。
まさか、カトラにからかわれたのか。
こうなれば文句の一つでも言ってやろうかと思いかけた、そのとき。
「初めまして、ほたてさん」
何処からか、カトラの物とは明らかに違う声が聞こえた。
辺りを見回すが、俺達以外に誰かの姿は無い。
「ここです、貴方の前に」
戸惑う俺の目の前で、大樹が薄緑色にぼんやりと輝いた。
まさか……
「貴方が目にしているその木が、貴方に話し掛けているのです」
その言葉で、疑問が確信に変わる。
今の声は、目の前に聳え立つの大樹から発せられるものだったのだ。
「成程、貴方は私のことを既に知っていたのですね」
「分かるのか?」
「ええ、この方の記憶を読み取りましたから」
驚きで思考が止まっているこちらの頭上を通過して、カトラとミトレーヤの会話が続く。
「随分面白い顔をしているな」
余りに呆けた顔をしていたのだろうか、カトラに鼻で笑われてしまった。
「いや、まさか木だったとは思わなくて」
あれ程偉大なものとして語られていた女神が、まさか樹木だったなんて。
女神教の伝承で聞いた優雅な姿とは、余りに違いすぎる。
「この姿は、あくまで依代に過ぎません。貴方が今見ているものは、私の意思を伝える媒体でしかないのです」
そんな考えを察したのか、女神は説明を付け足す。
「というと?」
「私は今、その場所から遥か遠くに存在しています。今の私では、貴方のいる場所へ直接干渉出来ないのです」
「貴女は、一体……」
そもそも、女神とは一体何なのだろうか。
目の前の存在は、人間とも動物とも、龍や岩石人間達とも違う。
こうやって実際に相対して、その異様さが実感できた。
「この星の……いえ、この世界の意思とでも言えば良いのでしょうか。」
世界とは、随分大それた話になったな。
「この世界が生まれ落ちたそのとき、私もまた生まれました」
女神の言葉と共に、頭の中へ直接映像が流れ込んでくる。
まだ生物の存在していない、星全体が分厚い雲に包まれた原初の時代。
至る所で溶岩と水蒸気が噴出する光景を、後に女神と呼ばれる存在は天空から見つめていた。
「私が、世界が望むのは、そこに生きるもの達の進化」
視点が移動し、脳裏には海中で発生した原子生物達が映し出される。
「日が昇りまた沈んでいくように、生物が進化していくのは当然のこと」
時間が移り変わり、やがて陸上には植物達が生い茂り始める。
更に時間が経ち、その植物を食べる動物がまた……
「この世界が正しく進化の道を進むために、私の力はあるのです」
と、映し出されていた過去の光景が途切れ、景色が再び大樹に戻る。
木々の間を抜ける爽やかな風が頬に当たり、まんじりともしない意識が覚醒する。
女神の存在について、何となくは理解出来た。
彼女が語った言葉が正しいのなら、まさしく神と呼ばれるに相応しい存在だろう。
けれど、女神が本当に生命の進化を目的としているのなら、一つおかしい事実がある。
「だったら、何故魔物を封印したんですか?」
旺盛な生命力と、強靭な肉体を持つ魔物達。
人間が他の生物を駆逐して発展したように、魔物も他の生物を侵略して勢力を広げようとしていた。
魔物が人間に取って代わったとしても、この星の進化の結果ならば何の問題も無いはずだ。
しかし女神は、人間に手を貸して魔物を封印した。
女神は何故、優れた生命体である魔物を敵視したのだろうか。
「彼らは、全く異なる存在なのです」
「俺達や他の動物と違うってことですか?」
確かに魔物達は、人間とも動植物ともまるで違う生態をしている。
どうやって栄養を補給しているのかは不明だし、何の目的で人間に攻撃を仕掛けたのかも分からない。
だとしても、この星に暮らす生物としては変わりないはずだ。
「いえ、それ以上の違いです」
女神の毅然とした言葉には、魔物をはっきりと拒絶する強い意志が感じられた。
「それって、どういう……」
「ほたて、後ろだ!」
と、今まで黙って話を聞いていたカトラが、急に大声を発した。
「えっ?」
声に釣られて振り返ると、そこにいたのは。
全長は10m程だろうか、人一人は軽く呑み込んでしまいそうな程大きな頭と、それを支える短く太い首。
大木のような長く重厚な尾に、大地を踏みしめる太い後ろ足と、頼りない枝のような前足。
開かれた口には鋭い歯が生え揃っており、ぎらぎらとした細い目が今にもこちらを捕食せんと見つめていた。
話に夢中になっている内に、今にも触れそうな距離にまで肉食恐竜が接近していたのだ。
「きょ、恐竜!?」
驚きながらも、慌てて恐竜から距離を取る。
過去の世界に恐竜がいるのは当然なのかもしれないが、実際に恐竜をこの目で見るのは初めてだ。
それもこんな近くでとは、全く予想していなかった。
泡を食って逃げ去る俺を、恐竜は凄まじい勢いで猛追してくる。
助けを求めてカトラを見れば、顎に手を当てて楽しそうな笑みを浮かべていた。
どうやら、必死で逃げる俺の姿を見て楽しんでいるらしい。
「ほたてさん」
と、頭の中に女神の声が響いた。
「済みませんが今は、話している場合じゃないんです」
女神には悪いが、呑気に会話を楽しんでいる状況ではない。
「ほたてさん、貴方に」
足元に生えていた蔓に足を取られ、無様にすっ転んでしまう。
すぐさま飛び起きたが、恐竜は既に数㎝の距離まで近付いており、獲物に向かって大きく口を開いていた。
「かつて手にしていた力を、再び」
その言葉が聞こえた瞬間、周囲の景色が一瞬揺らいだ。
次の瞬間、こちらを呑み込まんと閉じられた恐竜の口は、内側から切り裂かれる。
口を切られた衝撃で後ずさった恐竜の体が、瞬時に細切れに変わった。
先刻まで悠然と大地に立っていた恐竜をただの躯にしたのは、俺が持つ木の枝だった。
「今のは……」
物言わぬ肉塊に変わった恐竜の前で、呆然と立ち尽くす。
恐竜に食べらられる直前、体が勝手に動いた。
まるで、『けいさん』を使ったときのように。
空中に手を翳し、親指と人差し指を合わせてから開く。
さすれば、今まで開けなかったメニューが開けていた。
更にメニューを展開すると、わざの欄に『けいさん』と『きおく』の記述が。
「今の私でも、これくらいなら出来ます」
驚く俺の頭に、また女神の声が届く。
失っていた力が戻ったのは、女神の助力によるもののようだ。
「助かりました、ありがとうございます」
「いえ、これくらい当然です。貴方の本当の望みを叶える力は、今の私には無いのですから」
本当の望みとは、元の世界に戻ることだろう。
女神に会えたなら一気に……と心のどこかで期待していたのだが、そう物事は上手く運ばないらしい。
「我を倒したというのも、あながち冗談ではないらしいな」
と、カトラが腕を組み、得心したように頷きながら近づいてきた。
というか、俺の言葉が嘘じゃないって納得してたんじゃないのか。
「酷いですよ、ただ見てるだけなんて」
「ここで死ぬのなら、その程度の存在だったということだ」
カトラは全く表情を変えず、冷徹に言い捨てた。
そこまで言い切られると、恨む気持ちも湧いてこないから不思議だ。
「ほたてさん」
「はい?」
「貴方に、一つ頼みがあります」
それまでとは違い、女神の声色には真剣身が増していた。
世界を総べる存在である女神から、直接告げられる頼み。
俺は気持ちが一気に引き締まるのと同時に、確かな面倒事の気配を感じていた。