生と死
一人の男が病院の屋上に訪れた。
彼は患者でも、病院の関係者でもない。
病院は既に診察時間も面会時間も過ぎていて、夜間診察を行っているところだ。
しかし男は診察に来たわけでもなく、疲れた体を無理に動かして屋上まで駆け上がって来た。
今は夜の十時を過ぎたところだろうか。
男にはもはや時間の感覚などなかった。
「今日で全てが終わる。ここで俺の全てが終わらせる」
男は迷うことなく安全のためにつけられた柵へと向かって行った。
これを乗り越えれば全てが終わる。
男の顔は段々とけわしくなっていった。
「今日は星空は見えない。それにここなら柵を乗り越えなくても上を見上げれば夜空が見える」
男は突然発せられた声に驚きを露わにした。
ここには自分一人だと思っていた。
まさか他にもこんな時間に、この場所に、人がいるなど思いもしなかった。
「そんな言葉で止めても無駄だ。俺は死ぬ」
男は暗くて顔がよく見えない相手にも迷うことなく告げた。
しかし体は中々柵を越えようとはしない。
「すごく元気そうに見える。きっと寿命はまだまだ長い。それなのにお前はどうして死ぬんだ?」
謎の声は尚も男に問いかけた。
「どうして俺がお前にそんなことを言わなければいけないんだよ。お前に関係があるのか」
男は尚も冷たく言い放つ。
「ここがどこだかわかっていて、お前はここで飛び降りようと言うのか」
謎の声の主がとうとう男の目の前に現れた。
声の主は男よりも若く、男よりもやせ細っていた。
男は声の主の姿に息を飲んだ。
病院、やせ細った男、男は患者だと一目でわかるパジャマ姿だった。
しかしやせ細っている割には点滴をしている様子はない。
「なんの病気だ」
男は思わず相手の全身を見つめた後で問いかけていた。
「どうして俺がお前にそんなことを言わなければいけないんだよ。お前に関係があるのか」
相手は男が言った言葉をそのまま言い返した。
男はムッとする暇もなく相手を驚いたように見つめた。
「そうだな。関係はない。だからお前も他人が死を選んだことを止める義理なんてないだろう?」
男は先程までの冷静さをかいていた。
少し震えた言葉は相手に迷いを伝え、相手は少しだけ安心したように笑みを浮かべた。
「義理か。義理とか義務とか、そんなものはない。俺はただ健康な奴には人生を選ぶことができるのだから簡単に命を捨てて欲しくない。そう思っただけさ」
相手の言葉が男の胸に染みこんだ。
男は思わず胸を抑えて、もう一度相手の姿を見つめた。
「健康だからと言って幸せとは限らない。俺は今自分が生きていることでさえ憂鬱でたまらない」
男は先程までの冷静さは微塵もなく、先程までの去勢ももはやなくなっていた。
まるで相手に自分の悲しみを知ってほしいとばかりに辛そうに声を出した。
「明日も明後日も、一年後もあるというのに、何が嫌なんだ。嫌なことがあるのなら解決すればいい」
相手は尚も落ち着いている。
男は相手の言葉にただ首を振るだけだった。
「生きている。それだけで素晴らしいじゃないか。お前は地面を走ることができる。なんでもできる」
男は相手の言葉を聞いてももう口を開こうとはしなかった。
「さっきはお前の言葉を返すために話さなかったが、俺の話をするよ」
やせ細った体が力いっぱいに笑った。
男は吸い寄せられるように相手を見つめた。
「俺は末期の癌で余命は後一か月かな。癌があると分かった時にはもう手遅れだった。
俺はしがないサラリーマンだった。だから昇進しようと毎日毎日仕事ばかりしていた。
俺は十代の頃に結婚した。できちゃった結婚って奴だ。
だから余計に仕事をしなくてはならない。家計を苦しくさせないために働かなければならない。
そう思っていた。
なのに、それが裏目に出た。土曜日も家で仕事をしていたし、日曜日は寝ていた。
子供の相手はしてやれていないし、妻ともろくに会話をしていなかった。
妻は子供を連れて出て行ったさ。
それから一か月して俺の癌が見つかった。
男は言葉を出せずにいた。
ただただ相手を驚いた目で見つめ、口元を覆っていた。
しかし相手も男の言葉を待っているようで、空を見上げていた。
「俺はもうやり直すことができない。病気がわかって、入院するようになって初めて後悔した。
こんな時に子供がいれば、妻が支えてくれればどれだけよかったか。
だけど俺はそれを自ら捨てた。
やり直す機会なんていくらでもあったのに、俺は目を向けなかった。
だからお前はやり直せる」
男は相手がもう一度口を開いたのを呆然と見つめていた。
相手も男を見つめているというよりかは、遠くの空を見つめている様だ。
「生きていればやり直せる」
男はぽつりと相手の言葉を復唱した。
「だが俺には何もない。
結婚するような相手もいなければ、職もない。
一番大切だった友も失った。
俺はもうやり直せない」
男は悲しそうに呟いた。
相手は男の顔をじっと見つめている。
「俺は親友と共に会社を興した。
親友が社長、俺は役職にこだわらなかったが周りの皆は社長とほとんど同等に扱ってくれたよ。
営業でもなんでも皆は俺に報告をする。
俺はその報告を聞く。
そして社長に伝える。
それが日常だった。
だが俺はある日社長よりも上になりたいと思うようになった。
下の者には俺が社長になったと勝手に話し、社長という会社で一番偉いはずのものを勝手に迫害した。
社長に伝える報告はせず、俺が会社を乗っ取るようなことをした。
下の者はそんなことは知らない。知らずに社長を追い詰めて、追い詰めて・・・」
「自殺でもしたか」
相手はとても落ち着いた。否、とても冷めた声で言い放った。
男の全ての動きが止まり、それまで表していた悲しみの表情もなくなった。
無表情。
無感情。
男はまるで電池が切れたロボットのように全ての動きを止めた。
「社長を失った会社は崩壊したか」
相手の冷淡な声が男を責めているようだった。
相手は確か男を自殺しないようにとめていたはずだ。
しかしこれでは相手が死ぬように追い込んでいるみたいだ。
「そうだ。
俺がいきなり欲を出したがばかりに全ては崩壊したんだ」
「何故欲を出した」
相手は男の罪を告白させようとしている。
これではまるで取り調べではないだろうか。
しかし相手は至って落ち着いている。
男も相手が尋ねることにもはや疑問は抱いていないようだ。
「高校時代の友人と飲む機会があった。
親友は高校だけは違っていたから、皆は親友のことを知らない。
友達の中には独立してフリーで仕事をしている者もいれば、社長になった者もいた。
勿論皆が成功していたわけじゃなかったが、俺は成功している者たちの言葉に俄然興味を示した。
その者たちは言った。どうして一緒に会社を興したのにお前は社長にならなかったんだ。
そいつより劣っていたのか? そいつの方が多く貢献したのか?
お前はそいつに良いように使われているだけじゃないのか。
責めるような友人の言葉が俺の胸に突き刺さった。
それまでなんの疑問も抱いていなかった俺も、どうしてだろうと考え始めた。
そしてそれはやがて社長であるべきではないか。社長になりたい。というものに変わっていた」
男はその時芽生えた感情、そしてそんな言葉に突き動かされて愚かなことをしてしまった後悔の念に感情を爆発させていた。
夜だから目立つと思ったのか、ただそれほどの気力がなかったのか、声を上げることはしなかったが、男の顔は真っ赤になっていた。
「今お前は何をしているんだ。親友を失ったのは昨日や今日の話じゃないだろう」
相手は男を射るような目で見つめた。
男はもうすっかり隠す気などなくなっており、まるで神様に自分の人生を語っているかのようだった。
「貯金が少しだけあった。今までそれで生活をしていた。全てを失って今日で丁度一か月になる。
そろそろ金もつきるし、毎日朝が来るたびに俺はあいつに責められているような気になる。
ドラマとかでよく見る何度も同じ夢を見て汗を掻いて目覚める。そんな経験は一度もない。
あいつは俺の夢にも出たくないのかもしれないな。
この一ヶ月どこに行く気力もなくて、何もせずに家で過ごしていた。
ただ何もしなくとも、絶望的な気持ちになろうとも、人間って奴は強欲だから腹が減る。
家の近くにあるコンビニに通う時だけが唯一外と触れ合う機会だった。
男は寂しそうに笑った。
「そうか。お前は趣味などは持っていないのか。学生時代やっていたことでもいい」
相手の唐突な言葉に男は一瞬キョトンとしたが、すぐに口を開いた。
「ネットかな。親友とはネットでビジネスをすることも考えていた。
大学時代ネットで色んなことを試した。
どちらがブログで多くの宣伝をできるか、どちらが多くの読者を集められるか。
毎日バカみたいに二人でパソコンにしがみついていた」
男は夜空を見つめながら語っていた。
まるでそこに昔の自分たちの姿を見ているかのように、男は嬉しそうな悲しそうな目をしていた。
「ならネットビジネスをやればいい。大切なものを失ったが、お前はまだ全てを失ったわけじゃない」
男は反論することができなかった。
自殺しようとしていた者に対して全てを失ったわけじゃない。希望があるじゃないか。
などと言うのは本来ならばただの綺麗ごとだと笑い飛ばせた。
だが相手は余命が僅かなやせ細った男。
全てを失ったわけじゃない。お前は健康で生きている。
俺は明日が来るのかと心配になっているが、お前はそんな心配をする必要がないじゃないか。
男は相手の言葉からそんな思いが込められているのではないかと感じ取っていた。
「だが俺は大切な奴を自殺に追いやった。俺だけがのうのうと成功していていいのだろうか」
男はまた次の疑問を放った。
本当は自分が死ぬ一番の理由はこれだったのかもしれない。
男は言葉を出してからその事実に気づいた。
それが本当に男にとっての死の理由なのかはわからない。
だが男はそれが一番の理由だと確信していた。
「成功すればいい。好きなように生きればいい」
男は攻めの言葉や、何か慰めの言葉をかけられるのではないかと考えていた。
しかし相手はあまりにもあっさり肯定した。
男は段々相手が何を考えているのかわからなくなっていた。
そもそもどうして自分はこの相手に自分の人生を語っているのだろうか。
こんなことをせずにすぐに飛び降りればよかったのではないか。
何故相手が来ただけで踏みとどまったのだろうか。
「お前は怖いだけだ」
相手の放った言葉に男はぎょっとした。
しかしすぐに気づいた。
男は先程述べた言葉に対してのことを言っているのだ。
「お前が罪悪感を抱いたところでどうにかなるものじゃない。お前が死のうと、不幸な人生を生きようと、幸福な人生を生きようと、死んでしまった親友には関係ない。
だからお前の人生を生きればいい」
男はなんとなく下を見つめた。
自分が飛び降りようとしていた、打ち付けられようとしていた地面を見つめた。
真っ黒なアスファルト、夜ということもあり黒がとても際立っている。
自分はあそこに横たわろうとしていた。
あの黒を赤で埋め尽くそうとしていた。
しかし今はどうだ。
柵を越えることを考えているだろうか。
「亡くなった人の分も生きる。そんなことは可能なのだろうか。
俺はこうなってから色々と考えるようになった。
だけどいつも思う。
自分に置き換えて思う。
死がそこまで近づいている俺だからこそ感じられると思って、俺はいつも自分に置き換えて考えていた。
だが思う。
俺が死んだことを元妻と娘が知り、それを悲しんでくれたところで二人の生活は何も変わらない。
むしろ俺は別に知らなくてもいいとさえ思っている」
男は相手が何を言おうとしているのか表情を探りながら見つめていた。
「人間は儚い。
健康なお前もここから飛び降りれば死ぬ。
健康だった俺は癌という細胞に侵されて死ぬ。
人間健康であってもいつかは必ず死ぬ。
人間は儚くもろい。
だが俺は思った。
誰かの記憶に存在が残っている限り本当に死んではいないと。
だから俺は元妻が俺がどうしているのだろうかと時々でも思ってくれればそれでいい。
俺の存在はそいつの中で生き続けている。
お前の親友はお前の中で根強く生きている。
だからお前は親友の分まで生きるのではなく、お前の中にいる親友と共にこれからも生きればいい」
男は相手の言葉に感激しながらも、頭の片隅にいる冷静な自分は反対のことを考えていた。
こんな状況でなければ相手が何を言っているのか、相手の思想を、理想を押し付けられても信じることなどできなかっただろう。
しかし今この状況だからこそ男は相手の言葉が素直に胸に染みわたった。
「お前は生きろ。生き続けるんだよ」
相手は微笑んでいるような、疲れ切ったような顔をしていた。
しかし男はその顔を見て、その言葉を聞いて思った。
「もう病室に戻るのか」
「ああ、看護師が見回りにくるからな。俺がいなけりゃ騒動になる」
相手はそういうと男の言葉も待たずに扉へ歩き始めた。
「おい、待てよ。一人だけ勝手に話して、一方的に切り上げるのかよ。
せ、せめて名前は? 明日にでもお前の病室に行ってやる」
相手はゆっくりと振り返り焦っている男に微笑んだのか、男の言葉に微笑んだのか、感情の読めぬ顔で口を開いた。
「俺の名前は佐藤秀介だ。だが、お前は明日も生きているのか」
皮肉だったのだろうか。
だが相手は真剣な顔でその言葉を告げた。
男は虚を突かれたような顔になり、しかしすぐに微笑んだ。
「今日の文句を言いに行く必要がある」
男はそう言って笑った。
久しぶりに歪んでいない笑顔を浮かべられたような気がした。
男は相手が屋上から出て行くのをただじっと見つめていた。
しかし相手は屋上の扉を開けてからもう一度振り返った。
「俺はただしばらく人と話していないから、誰かと話したかっただけだ。
もっともらしいことを言ったがお前が死んでも俺には関係ない。
そこから飛び降りれば確実に死ねる。
そこからは見えないかもしれないが、つい数日前にも一人ここから飛び降りているんだ。
おやすみ」
相手は無表情のままそれだけを告げると、もう扉を閉めてしまった。
男は呆然とした顔で相手が閉めた扉を見つめていた。
相手の真意は最後まで読み取れなかった。
本当に暇つぶしをしたかっただけなのか、自分が死ぬのだから健康な人には死んで欲しくないと思ったのか、健康なものが自ら死ぬことが許せなかったのか。
相手は何を思って男に話しかけたのかわからなかった。
だが男はそれでもいいと思った。
相手がどんな気持ちで生と死について語ったのかはわからない。
だが相手は突発的に死のうとした男の命を救った。
生きる気力を与えた。
「佐藤俊介」
男は相手の名前を小さく呟いた。
明日会いに行かなければならない。
自分が明日を迎えて初めてやるべきことができた。
男は朝を迎えた。
いつものように誰かに責められているような苦しい朝ではない。
親友と共に仕事をしていた時までのいつも通りの朝。
朝目が覚めることは当たり前のことだ。
だけどそれがどれほど素晴らしいことなのか。
男は起きて真っ先にカーテンを開けた。
窓からは眩しいほどの光が入ってくる。
お前は生きている。
お前の体には血が通っている。
お前は眩しいと感じることができる。
昨日佐藤に言われたような言葉が太陽から聞こえたような気がした。
「病院に行かなくては」
男は今日から生きる初めての目的地に向かうことにした。
俺は生きている。
俺は走ることができる。
気づけば男は病院まで走っていた。
照り付ける太陽が男を急き立てていた。
「こんなところだったかな」
男は昨日見た病院とは全く異なる印象を持つ病院を見つめていた。
一瞬間違えてしまったのだろうかと思い、男は辺りをキョロキョロしていた。
しかし男は昨日確かに病院の名前を確認していた。
ここで間違いはない。
死ぬために訪れた場所と、生きるために訪れる場所とで、男の目には違って映ったのだろう。
男は自然と笑みがこぼれていた。
佐藤に会ったらなんと言おうか。
何を伝えようか。
男はあれこれ考えていたが、結局何も思いつかなかった。
だけどそれでいいと思っていた。
佐藤はきっと昨日のように勝手に何かを語り掛けるに違いないと思ったからだ。
受付へ向かう。
男の歩みは少しぎこちなくなっていた。
「佐藤俊介さんの病室はどちらですか?」
男は昨日までまともに人と会話をしていなかった。
事務的な声を出すのも久しぶりだ。
しかし男の声は弾んでいた。
だからだろう。
受付の女性は申し訳なさそうな、悲しそうな顔で男を見つめた。
男はただただ首を傾げた。
病院へのお見舞いというのは身分証明書など必要だっただろうか。
相手との間柄を説明しなければいけなかっただろうか。
男があれこれ考えているうちに受付の女性が重い口を開いた。
「ご友人ですか? 今朝早くでしたからね、まだお聞きになっていないのですね」
女性は悲しそうに呟いた。
男には女性が何を言っているのかわからなかった。
尚も首を傾げて女性を見つめていると、女性はもう一度男の顔を見つめてからゆっくりと口を開いた。
「佐藤さんは今朝早く、五時頃にお亡くなりになられましたよ」
女性の言葉が男の頭に響いた。
何度も何度も響いた。
それでも男はすぐにその言葉の意味を理解することはできなかった。
今女性はなんと言ったのだろうか。
亡くなった?
佐藤俊介はなくなった。
違う。
もしかしたら相手の名前はそんな名前ではなかったのかもしれない。
俺は勘違いをしているだけなのかもしれない。
なんせ昨日一度聞いただけの名前だ。
一晩寝て忘れてしまったのかもしれない。
顔を確認すればいい。
見ず知らずの遺体を見ることになるが、それも仕方がない。
「会えますか?」
男の声は震えていた。
わかっていたのだ。
男は確かに名前を正確に記憶していた。
間違えるはずがないのだ。
一か月ぶりに話した相手の名前を、例え一度しか聞いていないとしても間違えるはずはない。
だが男は既にその名前は別の人物だということが事実であると思い込んでいた。
「こちらです」
女性は男を霊安室に連れて行った。
男は息を殺し、気を引き締めて中に入った。
白い布を顔にかけられている一つの物体があった。
全てが布で覆われていて、中に何があるのか今はわからない状態だ。
「ご友人が来られましたよ」
女性は白い布の下のものに声をかけながらその布をめくった。
そこには確かに男と昨日話した者の顔があった。
血が通っていない分顔が白くなっているという点以外は昨日の人物と何一つ変わらない。
「佐藤俊介」
男は一度も呼ぶことができなかった名前を呟いた。
昨日はあんなにも男に問いかけていたのに、あんなにも自論を繰り広げていたのに、ここにいる相手はもう何一つ言葉を発してはくれない。
余命一か月と言っていた。
男はそれがまだまだ先だ。
短いことはわかるが一か月は生きられるのだと思っていた。
だが間違っていた。
長くても一か月という意味だったのだ。
昨日男が相手の言葉から感じ取ったこと、目覚められるのか心配だと、お前はそんな心配をする必要はないだろ。それはやはり相手の思っていたことで間違いなかった。
相手はわかっていたのかもしれない。
自分がもうこの世のものではなくなってしまうことを。
だからこそ男を見つけた時、相手は話しかけずにいられなかったのではないだろうか。
自分が消えてしまう前に誰かの命を救ってやろうと。
いや、違う。
男は相手の顔を見つめながら考えを改めた。
記憶に残ってほしかったのだ。
俺の中で生きたかったのだ。
妻も娘も去ってしまい、相手はさみしかったに違いない。
誰でも良かったから佐藤俊介というものの存在を誰かの記憶に刻みつけたかったのだろう。




