突然の夜
三年生は修学旅行に出て行っておらず、二年生も職場体験で登校していない。広い校舎には一年生のみ。これを解放的だとはしゃぐ同級生もいる。上級生に恋人を持っている故に寂しいと口にする同級生もいる。あの先生もいないから部活が気楽と口にする同級生もいる。本編主人公・深沢にはどれもあまり興味のない話であるが、どれも妙に耳に残る。休み時間は睡眠に充てたい。それが叶わず苛立っている訳でもなく、眠れないから残るのである。
休み時間に眠れる、眠れないは日によって違う。調子が良いときは、授業は括目、休み時間に入った途端に夢の中に落ちる。悪い時は授業も途中で眠りだして、休み時間に目が覚める。授業は大事だが、眠るのも大事という考えである。周りからすれば大人しい気性ゆえ、クラスの中でも彼は目立つ男ではない。彼自身にもその自覚がある。他人と比べて冷めている方だと己を分析している。冷めていると言っても、他人の言動、周りの視線がまったく気にならない訳でもない。また、大人しいといっても運動が出来ない訳でもない。文武共にどれも人並み以上に出来るが、どれも人並みと自分で思い込んで目立つ真似は一切しない。これすらも、能ある鷹ではなく、単にうだつが上がらない性格なのだと自分を客観視している。
こう目立たない男でも、文武共に能力が並み以上なら、周りから侮られることもない。いじめに遭ったこともない。高校に上がってからは特に部活に所属していないが、中学生の時分に野球をやっていたせいもあって気楽に話しかけてくる友人も数人いる。どうして高校に入って野球を続けないのかと言われれば、中学三年生の時に肘を痛めたからである。すでに治っているものの、再発を恐れて、運動部は避けている。野球そのものは嫌いになった訳ではないので、時々投げたくなるし、打ちたくなる。その際はバッティングセンターへと一人で足を運び、欲を満たしている。言うなれば、彼にとって運動はただの趣味となっている。なっていると言っても、自分から押し込んでいるようなもので、退屈は退屈である。故に、日頃、何か面白いことが起きないだろうかと、そんなことばかりを考えている。この日もまた然りであった。
机上にて突っ伏していると、教室内が突然真っ暗となる。停電はしかし、すぐに回復してまた明かりが戻る。瞼を半分ほど閉じていた深沢だが、それによって目も冴える。周りでは同級生たちが一瞬の停電を不思議がって騒いでいる。そのうち誰かが、
「おい、外を見てみろよ。まるで夜だ…」と言う。
立っている者、座っている者、クラスにいた生徒全員が窓へと振り返る。深沢も人より遅れて窓を見る。その目に飛び込む夜の景色は、それまで午前の授業を二つ終えた休み時間にしてありえない光景である。魔法でも使われて昼夜逆転したかのようであった。
「ちょっと、何よこれ? 何の冗談よ…」
女子の一人がヒステリックに言う。窓際にいた男子の一人は、
「おい! 外の景色、運動場がないぜ! いつもの景色じゃない!」
と、大声で叫ぶ。その声に引き寄せられるように皆が窓際へと群がっていく。一階にあるこの教室の外はすぐ運動場がある… はずであるが、あるものがない。代りに平野が広がっている。何が起きたのか、外の景色はどこだというのか、誰も理解できず、生徒の中には、この不可思議な現象を何かのアトラクションと勘違いして笑い出すものもいる。きっと動揺の裏返しだろう。そいつに釣られて笑う者もごく僅かである。皆の中で、何だか洒落にならないといった思いが、却って膨らんでしまう。
「おい! 外が!」
廊下にいた者が突然教室へと入ってきて叫ぶ。中の者たちは皆、すでに心得ている。それでも、それはつまり、この奇妙な現象は、この教室に限った話ではないことを意味して、皆で慄く。
「中は普通に学校で、普段とまったく変わらないんだけど、外が…」
外だけが異常なのである。それも休み時間だからと外で遊んでいた者は悉く姿を消してしまったと言う。
「世紀末… か?」
男子の一人が冗談めいて言う。その意味がわからない者は聞き流し、意味をそれとなく知っている者は怯えだす。深沢は、それを口にした同級生に軽蔑の一瞥をくれるが、そいつもまたこの現象に気持ちの整理が追いついていないと汲み取ると、すぐに逸らす。不意に窓際にいた男子が窓を開ける。
「遠くに山が見えるぞ。森みたいなものも見える…」
深沢もようやく自分の席を立って群がる同級生の後ろから窓の外をしっかり眺める。見ていると、隣のクラスから男子が一人外に出てくる。どのクラスの連中も、おそらくこの異様な事態に一度は動揺したはずである。だが、一年生だけがこの学校にいたとはいえ、十クラスもあれば中には勇気のある者、奇特な者もいる。一人が出て行けば、また一人、もう一人と続いて外へと出ていく。深沢がいるこのクラスからも男子が数人、外へと飛び出していく。丁度深沢の目前が拓けて、彼は窓のすぐ側に立つ。開けられた窓から吹き込む生温い風を額と頬に受けながら、外に出て行った者たちの行方を目で追う。彼らは特にそこで何をするわけでもなく、校舎から遠く離れていくわけでもなく、地に足をつけ、改めてそこがいつもの運動場でないことを確かめている。
「月が赤いぞ!」
外の一人が大声で叫んで夜空を指差す。まるで血に染まったような不気味に赤々とした月が空に望める。何が何だか、ますますわからない。中では怯える者も増えてくる。ただ、考えによれば、自身が日頃から望んでいた退屈な日々を覆す特別な出来事が、今まさに起こったとも解釈できる。深沢の胸は人知れず高鳴り、武者震いをするのであった。
そのうち教室に担任の先生がやってくる。島田という二十代後半の女の英語の先生で、髪はボブカットにして口調も気の強さも男勝りの人である。
「みんな、無事?! ちょっとあんたたち! 勝手に外に出て行くんじゃないわよ!」
怒鳴る声もまたよく通る。普段からこのとおりである。でも、女子の一人は血の気の失せた顔で、
「先生、これは何なんですか! 何があったんですか!」と不安で声を張り上げた。
さて島田も、この学校に、自分たちの身に、一体何が起きているのか見当もつかずに戸惑う一人とくる。眉間に皺を寄せ、眉尻を下げて、珍しく頼りなく困った顔をしている。
「とにかく、全員集まりなさい! 先生たちもみんな訳がわからないんだから!」
続きます