第三話 サイタマーの怪しい影
~~~~「スカーフェイスに関する報告」[王国軍事記録]より抜粋~~~~~
王国歴***年、自治都市ウラワンオーミャ近郊における
モンスター討伐任務に於いては、『スカーフェイス』なる
詳細不明の人型モンスターにより、所定の成果を収めることに失敗した。
その原因となった対象については、以下のような証言が得られている。
・兵士八人で大丈夫だと思ったらたった一人に返り討ちに遭った。
・野営地から一分の場所で見張りが頭から血を流して倒れていた。
・足元がぐにゃりとしたかと思ったら罠が仕掛けてあって死にかけた。
・鎧を着れば大丈夫だと思ったら隙間を狙われて戦闘不能にされた。
・ワイルドボアーが突っ込んで来たと思ったらその後ろから襲撃された。
・野営地のテントからテントまでの二十歩の間で奇襲に遭った。
・部隊の四分の三が襲撃経験者、しかも「精鋭ほど狙われて危ない」。
・「そんな危険な訳がない」と言って出発したベテランの軍曹が、
五分後血まみれで戻ってきた。
・「二刀流なら大丈夫だろう」と言って出て行った剣の達人が、
身包みはがされて逃げてきた。
・討伐本隊の被襲撃率は150%、一度は確実に襲われ、
撤退中にもう一度襲われる率が50%
なお、任務については第四次討伐が失敗したのち、正式に中止が宣言された。
当該の『スカーフェイス』についての詳細は未だ判然としていない。
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……私は今、ベッドの上で惚けた頭を抱えています。
「……どうか、いつまでもお側に置いて下さい。一生、お供します!」
彼女が私の傍らで宣言する。
気付けば私も彼女も裸だった。
つまり昨日の『アレ』は夢ではなかったらしい。
答える代わりにアルスラを引き寄せて軽くくちづける。
皮膚に伝わる感覚は、彼女の喜びを感じさせた。
朝は頭が上手く働かない、誤魔化してしまえ。
……かえってマズいことになりそうな気もするが。
幸せなのだかそうじゃないのだか、何だか良く分からない朝の一時だった。
* * *
とりあえず、アルスラにサイタマーの街を案内することにした。
道すがら、とりとめの無い会話を交わす。
「……隊商護衛のシーズンが終わるから、しばらくは暇になる。というか、なってしまう。つまり仕事が無いんだ。」
それが当然とでも言わんばかりの、何気ない顔。
……なんか男女の役が逆だな、『俺について来い』とか言われそうだ。
「い、いやそこまでは心配要らないんだが。多少は蓄えもあるし……。」
さて、通常この街は『サイタマー』と呼ばれているが正式な名称は、
『ウラワンオーミャ 自治都市』と云う。
その名の如く、『ウラワン城砦』と『オーミャの村』が由来だ。
王国本領と北部の辺境領は、チチブー山脈によって隔てられており、軍勢やモンスター、或いは流浪民などの侵入を防ぐ天然の防壁となっている。
しかしチチブー山脈には、一箇所だけ『切り通し様』の通行可能な切れ目が存在し、古くから交通の要衝として知られていた。
ここに作られた関所が、現在のウラワン城砦のもととなっている。
やがて、その関所に食料や日用品を供給するためにオーミャの村が出来た。
関所を行き交う商人たちはそこに市を立て、次第に発展してゆく。
そして力を付けた商人たちは、ここを自治都市として承認させるべく活動した。
が、一方でこの場所は王国本領の防衛の要の一つである。
王国としても簡単に認める訳にはいかない。
妥協策として、一つの考えが実行に移された。
まず、ウラワンとオーミャを一つのものとして扱うこと。
ウラワン城砦には表立っての領主権と軍事の権限を付与すること。
そしてオーミャの村(というには巨大だが)には、経済的な独立権と実質的な住民管理の権限を黙認――実質は付与――することとしたのだ。
こうして誕生したのが、『ウラワンオーミャ 自治都市』である。
故に奇妙な『自治都市』として誕生したこの街は、成り立ちからして微妙に政治的で、各勢力の危うい均衡の上に出来上がっている厄介な代物でもあった。
それだけに、統一した領主権も、一貫した王国法の支配も、余り期待出来ない。
何か派手なことをやろうとすると、必ずどこかの勢力とぶつかることになる故だ。
そしてこの点に、各種各地方のギルドや、『表立ってあまり歓迎されない団体』などが目を付け、拠点を作るようになった。
すなわち取り締まったり弾圧したりする根拠が、今一つあやふやだからだ。
こうして現在、自治都市『ウラワンオーミャ』の状況は以下の通りとなる。
城の兵士は軍事と防衛に専念し、
交易の商人は商売に専念し、
職人ギルドは職人作業に専念し、
裏稼業のものは裏稼業に専念し、
そして冒険者はその間を飛び回る。
隣の人間の氏素性には無関心を努め、決して深く詮索しない。
都市の正確な人口は、誰にも把握出来ない。
何かあっても、基本自分の力で対応しなければならない。
……そういう街が、ここに出来たのだ。
古き良き『伝統と因習』を尊重する向きは、当然眉を顰める体たらく。
破壊と混沌、淫蕩と堕落の満ち溢れる、活気溢れる『新天地』の姿。
ゆえに、古い伝説にある悪名高き其の名で、此処は呼ばれるようになる、
すなわち其の名、『悪徳の都 サイタマー』。
さて、『ウラワン城砦』は大きな壁のような形をした城である。
チチブー山脈に出来た自然の裂け目を、全て塞ぐように造られている。
そして、南と北(より正確には南東と北西)には門が備えられていた。
王国本領側に当たり、中央広場にも面しているのが南門であるが、ここは『通称』のほうが有名な門であるのだ。
「……ここが有名、というか悪名高い『地獄門』だよ。知ってた?」
「いえ、私は街のことは全然知らないので、初めて聞きました。」
ちょっと反応に困ってしまう。
「……まあ、そうだよね。地獄門というのは、あれが元になっている。」
私は、門の上にある青銅製の扁額を指差す。
『汝等此処に入るもの、一切の望みを棄てよ』
そこには、そう記してある。
私は記憶を探り、回想に沈む。
「当時はグンマー族の活動も活発で、ウラワン城砦に配属されることは『戦死と同様』と言われるほどだった。」
「たまたま学のあったその兵士は、或る夜、絶望のあまり城壁に詩篇を大書した。」
「彼は『なかなか上手いことを言う』と大いに笑い、わざわざ扁額にまでして門の上に飾ったのだとか。」
「それを書いた兵士についても、城主は特に咎めるようなこともせず、むしろなるべく安全な配置になるよう取り計らった。」
「その甲斐あってその兵士は無事に期間を勤めあげ、故郷に帰ることが出来たと云われている……。」
こうして聞くと、風流を愛した武人の、ちょっと良い話だと思える。
何事にも、完璧というのは難しいものだ。
「それは、『あの詩篇』はその人の創作物、という訳では無かったんだ。」
「今では有名だけど、あれは『神聖喜劇』の一節さ、地獄の門の。」
アルスラにはアインの言っていることは今一つ理解出来なかった。
だが、彼女は何も言わなかった。
今この時、『主様』の邪魔はすべきでは無い、と彼女は思ったからだ。
我を過ぎれば永遠の苦しみあり、
我を過ぎれば滅亡の民あり
義は、尊き我が造物主を動かし、
聖なる力、比類なき智慧、至上の愛、
我を造れり
永遠の物の他、我より先に造られし被造物は無く、
而して我永遠に佇む
汝等此処に入るもの、一切の望みを棄てよ」
デイント作、『神聖喜劇』の一節、地獄の門の碑文だ。
それはもう、忘れてしまったかと思っていた。
でもそれを、意外なほど自然に口にしていた。
そして自分は、一切の望みを棄てて此処に来たと思っていた。
だが、未だ何かが残っているのだろうか、残せるのだろうか。
彼女は、一瞬ためらいを感じたあと、
お世辞のように、それでも考えを口にする。
「……せめて、あれが読めたなら、もっとましなことが言えたのですが。」
やがてそう言って、彼女は扁額を指差した。
その事実は、私には思い浮かばなかった。
少々、浮かれ過ぎてしまったように思える。ちょっと反省。
そうして二人、笑顔がこぼれる。
人にものを教える事は得意ではないが、何とかなるだろうか。
その日は、適当に街を案内して、午後には家に帰った。
* * *
……家では、まず彼女に治療の続きをする。
魔力を通じ、治癒の力を行き渡らせる、皮膚を再生し、傷を直し。
よし、これで完璧だ、痕も残っていない。
精神力は使ったが、いい気分だった。
やがてアルスラはにこにこと笑って、抱き付いてきた、もう涙は無い。
抱き付いて、抱きしめてくるので、つい体の一部が反応してしまった。
彼女が悪戯っぽく笑う、誘ってくる。私もそれに応える。
色と欲望にまみれた甘いひとときを。
……明るいうちから、なにをやっているんだか。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
数日はぶらぶらしたり、彼女に読み書きを教えたりして時間をつぶした。
そろそろほとぼりは冷めただろうか?
白山亭を訪ねてみることにする。
アルスラがいれば、街を歩くのにもまったく不安を感じない。
彼女は隙の無い身のこなしで、実に頼りになるのだ。
さて、ここを曲がってしばらく行った先が、白山亭なのだが……
アルスラが、歩を止める。私の手を引いて静止させた。
何事かと聞こうとしたら、口に軽く指を当てた、「静かに」ということらしい。
彼女は数歩進んで、肩幅ほどに足を開いて立ち、武器を構えて声を出す。
応えは無い。
アルスラが僅かに身じろぎ、次の動作に出ようとすると、
応えが返り、相手は姿を現した。
身長はアルスラほどではないが、女性では十分に長身。
白い肌で手足が長く、全体としてはやせ型。
ただし、胸は十分に大きく、その代わり腰が細い傾向。
部分部分で黄色と黒に塗り分けられたような、奇妙な髪、
そして、やや丸みを帯びた、猫科の耳。
髪同様、黄色と黒の縞模様の太めの尻尾。
……彼女は『虎人』だった、実際にその姿を見るのは初めてだ。
獣人の一種族の『虎人』は、数が少ないと聞いている。
虎人の彼女は腰の左右に、剣を二つ佩びている。
無造作に歩いているようだが、隙は無い。
そして、アルスラも緊張を高めている。
「……見つかってしまったことだし、今日はこのまま消えるよ。」
彼女の、にやにやとした表情。
一瞬、肩をすくめて。
アルスラが刹那、槍を突き出す!
相手は大きく後ろに跳んだ、六歩(三メートル位)は飛んだだろうか。
そして、そのまま姿を消す。
アルスラは、追いかけたりはしなかった。
アルスラは、ただそれだけを述べた。
やや不安が残ったが、結局それでも白山亭に顔を出すことにした。
ここで悩んでいても、何も解決しないのは確かだからだ。
「……よう、来たか旦那……ってあれ? 後ろのはこないだの姐さん……なんだよな??」
いぶかしく思って後ろを振り返り、そこで気付く。
「ああそうか、傷を治してあげたから別人みたいに見えたんですね。」
彼女も微かに笑みを浮かべていた。
「そういうことか……じゃあ今日は俺が一杯おごろう。何でも好きなの頼んでくれ。」
そうして話が始まった。
飲み物は、自分はエールを頼んだが、アルスラはお茶しか飲まない。
やはりさっきの出来事で相応に警戒しているらしい。
雑談や仕事の話を交えつつ、先日の『もめ事』の件を聞き出してみる。
シンメイ氏は、自信たっぷりに断言した。
「もともと向こうさんのルール違反だ。しかも奴ら、痛い目にもあってるしな……。表沙汰には、しづらかろう。」
兵士が街の『素人』に遅れを取ったとあっては、確かに外面は良くない。
「……旦那も"鮮やか"なモンだ。まさか傷を消しちまうとはな。」
さらにシンメイ氏は、感心した表情。
「これじゃあ、街中で会ったぐらいじゃ気付きもしないよ、まったく。」
私も、思わず苦笑する。
成り行きとは言え、確かに『証拠隠滅』にはなってしまったからだ。
「……しかーし、だな、ギルド的にはそうホイホイ無料で治療なんぞして欲しくはないんだが……まあしょうがないとは言え。」
彼があきれたような微妙な表情をする。
実際、この辺の事情は以前も注意されたことだ。
この街に来てすぐの頃、頼まれるまま治癒魔法を使い、良く分からなかったから安い代金しか受け取らなかったら、シンメイ氏から注意されたのだ。
「ものには"相場"ってヤツがある。市場を荒らしちゃいけねえよ。」
慌ててアルスラの口をふさぐ。
……すいません、やりました。
一方そこで、ふと疑問を感じる。
「……尾行られていた。かなりの腕利きだ。気配に敏感な者でなければ、まず気付けないと思う。」
アルスラが、真剣な顔で述べる。
シンメイ氏が、しばしの空白。
彼は暫く考え込んでいたが、やがて口を開いた。
シンメイ氏は、周りに注意しながら言葉を発する。
「……何故? 私みたいな何の変哲も無い一介の冒険者に、何でわざわざお城が……??」
衝撃を覆い隠し、なるべく平静に言葉を作る。
「……はあーーー、何てこったい! 旦那気付いてなかったのかよ!」
シンメイ氏が大きくため息をついた。
動揺を出さないように、出来るだけ冷静なつもりで。
だがシンメイ氏は、いかにも呆れた顔。
流石に顔色が変わるのが自分でも感じられる。
「あのなあ、どこの世界に『最上級の治癒魔法使いこなす奴』が普通の冒険者だ、何て云えんだよ? 無茶にもほどがあるぜ!」
「……『最上級』じゃないよ。私だって全体治癒魔法系や全体蘇生魔法系は苦手だ。」
我ながら、ちょっと苦しい言い訳かなこれは。
「そんな『王宮魔導士』とか『アカデミーの教授』みたいな高レベルの話してんじゃねえよっ!」
案の定、シンメイ氏が声を強める。
「……とにかくだ。ギルドの『不文律』だから事情の詮索はしないとはいえ、あんたは『腕が良過ぎる』んだ、こんな場所に流れてくるには……。」
彼の眉間にしわが寄り、少し視線が鋭くなった。
「……俺も『上』のほうからだいぶ言われてたんだぜ、くれぐれも変な仕事は流すな……ってな。」
彼は肩を少しすくめる。
「……ギルドとしちゃあ腕の良い奴は確かに歓迎だ。ただ、あんたのレベルまで『腕が良過ぎる』ってのは、ちっとばかし扱いに困るんだ。」
「ギルドとしても確かに売りにはなる。だが、だからこそ『危ない事』やらせて死なせでもしたらえらい損害になるんでな。」
シンメイ氏の吐いた息には、僅かに嘆息の気配があった。
「……こいつはナイショだが、街の評議会で直々に『お抱え』にしてはどうか、何て話もあってだな…………」
シンメイ氏が、ここで一旦息を付く。
「……それからスカー…じゃなかった『アルスラの姐さん』、奇縁とはいえアンタほどの手練れが旦那の守りをやってくれるのは、ギルドとしても有難い。これからもよろしく頼む。」
この前来たばかりのアルスラが『手練れ』というのは、やや唐突な印象を感じる。
だが、シンメイ氏は彼女の手際を見た上で、そういう判断をしているのだろう。
話はこのへんで切り上げよう、一旦自宅に帰ることにする。
帰り道、アルスラは妙に高揚した気分になっていた。
自分の仕える主人は周囲から望外に高く評価されている、そのことがアルスラの心を浮き立たせていた。
やはりこの主様に仕えて良かった、これからも心を込めて従おう、そう決意していた。
……アルスラは、気分が良かった。
だが、その気分も隣を歩く『主様』の顔を見たとき、急速に冷まされていくことになる。
その彼は、これまで見たことが無いほど、暗く、堅く、怖い表情をしていたからだ。
その後二人は、声も無く家路を急いだ。
* * *
家に帰ってテーブルに着き、明かりを灯す。
揺れる炎のもとでは、表情が読みづらい。
私は、話をそう切り出した。
「……私の故郷は『ブルーウッド領地』という……いや、"いった"だな。」
「今のアカデミーでは『禁忌』とされる、『死霊術』の研究だ。」
「だからアルスラも、『あのときの魔法』については、なるべく秘密にして欲しい……頼む。」
アルスラは、力強く答える。
「君には良く分からないかも知れないが、今のアカデミーは、禁忌や異端、そういう魔法を非道く弾圧している。関わる者全て、容赦無しに。」
それは、追憶と悔悟の記憶。
それは、後悔と後に残されたもの。
「私の故郷は、そんな禁忌の魔法に関わったために、アカデミーと王国に滅ぼされたんだ。」
重いものを吐き出すように、息を付く。
自分のことを話すのは、いつでも気分が重くなる。
ましてや、『過去』の話は特に。
「逃げてくれ」、と言おうとしたとき、彼女ははっきりと応えた。
アルスラには、もとより迷いなど無かった。
アルスラがこちらを真っ直ぐに見つめて来る。
彼女の真っ直ぐな瞳は、私の中の癒えることの無い古傷に突き刺さる。
止めてくれ止めてくれ俺にはそんな資格は無いんだ。
俺はただ逃げて逃げてここまで逃げて来た。
俺はあの人を守れなかったあんなにあんなに好きだったのに、
だってしょうがないじゃないかあの人は逃げろと言ったんだ。
アルスラ、君はどうして、こんな私の、
そばに居ると、言ってくれるんだ?
アルスラは何も言わず、いつの間にか私を抱きしめてくれていた。
いつの間にか、頬に熱いものが流れる感覚があった。
今はただ、目を閉じて、彼女のやさしさに甘えてしまおう……。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
同じベッド、隣にいる彼女が尋ねてくる。
「……とりあえず、何か仕事をしないと。またどこかに逃げるにしても、お金が必要になるからね。」
日常は、いつだってやって来る。
進むことも、逃げることも、全ては己の意思しだい。
でも、今の私たちにはパンが要る。
今日の糧を、明日への希望に繋げるのだ。
心が、やっと軽くなれた、そんな気がしていた。
* * *
白山亭に行ってみると、さらに意外な人物が待ち構えていた。
なんと、先日の虎人の女がそこに居たのだ。
一瞬でアルスラが戦闘態勢になった。
髪が逆立ち、腕の筋肉は張りつめ、全身に殺気が充満した。
そして相手の前に立ちはだかる。一分の隙も逃さないつもりだ。
シンメイ氏も慌てる。
私は一瞬、躊躇して、
それでも話ぐらいは聞こうかという気になる。
やがてアルスラが、ようやく肩の力を抜いた。
虎人の女はこちらを向いて、自己紹介を始める。
ややゆっくりとした動作、敢えてくだけた口調。
軽めの印象で、警戒を解かせようとしていた。
私とアルスラは、反応に困ったのでとりあえず無言でいる。
「……昨日は名乗りもせずに済まなかったね。あれも『上』からのお沙汰でね。探りを入れてたのさ。」
「で、許可がようやく下りたから、『顔つなぎ』の挨拶に来たというわけだ。とりあえずよろしく頼むよ。」
彼女、ゼフィは軽く会釈をする。
私は、ゼフィ自身には特に裏は無いような印象は受けた。あくでも勘だが。
ただ、私は昨日の『あの嫌な感情』がふと思い出されて、黒い気分がくすぶる。
少し、釘を差しておこうか……
このとき魔力を感じられる人間がここにいれば、私の体から立ち上る『それ』に気付いただろう。
そしてそれが、とても『危険で不吉』であることにも。
イメージを想起せよ。
暗闇、破壊、滅亡、暗い感情。
わたしはにげだしたあのときのきもちにジコケンオする。
全て壊してそのまま地獄に堕ちてもいいのかなと思えてくる。
私は、黒を纏った。
溢れる負の感情は、全てをコロしてうばうモノ……
……いけない、今の自分にこれは『危険過ぎる』、使うな!!
「!! あ、あああすまない、すまない! 本当に悪気は無かったんだ!」
不敵なはずのゼフィが、がたがたと震えていた。
動じないアルスラが、取り乱す。
シンメイ氏すら、悪寒と怖気に叫びだす。
気が付くと、三人とも蒼白な表情になってしまっていた。
『恐怖』の魔力が、既に漏れ出してしまっていたようだ。
私は緊張を解く、息を吐き出す。
危ないところだった、本当に、危ないところだった……。
『恐怖』の魔法と云うものを知っているだろうか。
その効力は、元来は『相手に恐怖を与えて身を竦ませ動きを止める』というものだ。
しかし、これは術者の精神状態が悪いと暴走し、最悪の結果をもたらすことがある。
それが、『混沌溢れる死』だ。
伝承に記述のみが残る、恐怖の『魔法災害』である。
最低でもこの店にいた人間全部を、生きながら腐らせ、そして殺していただろう。
話には聞いていたが、少し甘く見ていたようだ。
……本当に、危ないところだったのだ。
シンメイ氏は、しみじみ呟く。
「……ふむ、だがこれで確信した。アイン殿、貴殿はやはり、とてつもない実力の魔法使いのようだ。」
ゼフィはまだ少し震えが止まらないが、それでも気丈に言う。
「今までの失礼はお詫びする、どうか許して欲しい。このとおりだ。」
ゼフィは今度こそ深く頭を下げて来た。
「私がここに来たのは、いずれ貴殿に仕事を頼むことになるかもしれないからだ。『お城』からの使者だと思ってもらっていい。」
「もちろんギルドは通す。筋は通すようにするから、安心して欲しい。」
ようやく空気が柔らいだ。
実に、すまない気持ちにさせられる。
やがてゼフィはにんまりとして、
「そういうわけだ! 今日はあたしのおごりで良いから、何でも頼んでくれ。酒でも食い物でも……!」
彼女は敢えて口調を砕けたものにして、場を和ませようとしている。
「旦那はいつものやつでいいんだよな? あれが一番お気に入りだ、って言ってたし。」
気を使ったのか、二人がすぐに答える。
私も、しばしのゆとりの時間を。
その場はたらふく飲んで食って、楽しい時間を過ごせた。
ひととき、浮世の憂さを忘れよう。
* * *
時間が経つと、適当に出来上がって来たようだ。
アルスラとゼフィは、意外なほど意気投合している。
会話が弾んだところで、ゼフィがふと切り出した。
ゼフィがこちらを見てくる、アルスラも。
その瞳には、微妙に期待に満ちた色。
「酔ってるんじゃないのか二人とも? ちょっと賛成しかねるな。」
「これくらいなら、どうということは無い。もちろん真剣じゃなくて木剣を使うよ。それで、どうだろうか?」
ゼフィはどうしても勝負がしたいらしい。
よく見るとアルスラもその気になっているようだ、目が既に高揚している。
「……はあ、しょうがないな、許そう。アルスラがそれでいいなら。」
そして二人は立ち上がり、戦仕度をする。
木剣と木槍が直ぐに用意された。
この『冒険者の宿』には、何故かそんなものも準備されているのだ。
何事かと見ていた他の客も、勝負とあっては次第に興が乗ってくる。
客たちの間から喚声が上がる。
二人が対峙する。
アルスラは木槍を構え、ゼフィは木剣を。
だが、ゼフィは剣一本のみを構えている。
彼女は二刀流だと思ったが……
先手必勝とばかりに、ゼフィが飛び込んで来る。
勝負が、始まった。
アルスラがカウンター気味に突きで返す。ゼフィがかわす。
攻撃する、かわす。
攻撃する、受け流す。
勝負は互角に進んでいる、いや、槍は振り回せる分アルスラが有利なのか。
剣で攻撃を流した隙に、槍の柄が大きく払い込まれる。
ゼフィは大きく後ろに跳んで、いったん距離を取った。
ゼフィが改めて二本の剣を構え直す。
怒涛の攻撃が来た。
片方の剣で流し、もう一方が攻める、突く、振り下ろす。
流石にアルスラも押し返される。
激しい応酬は続く。
苛烈な応酬は火花を散らす。
二人がしばし距離を取って、呼吸を整えた。
次の動きは、どちらからなのか。
アルスラが仕掛けた、一瞬にして距離が縮まったように、高速の飛び込み。
槍が突き込まれると同時に!
アルスラは、ゼフィの服を掴んで、無理やり体勢を崩させていた。
この隙に槍が振り下ろされ……!
アルスラの槍は、ゼフィの肩の直前で止まっていた。
ゼフィの剣は、アルスラの腹の直ぐ近くで止まっていた。
とりあえず、これでお開きのようだ。
店内が一瞬静まり、やがてざわざわと喧騒が戻る。
客達は口々に、あれやこれやと勝手な論評。
それでも何人かは、こちらを興味深そうに眺めて来るのであった。
帰り際、ゼフィが小声で話しかけてくる。
「……さっきのは『私の負け』、だな。一撃は与えたが、こっちは腕一本飛ばされていた。多分次で殺られていた。」
アルスラは、何も言わない。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
そして家に帰り着くと、アルスラはすぐ服を脱ぎ捨て、迫ってきた。
アルスラの息が荒い。
アルスラの肌が上気している。
あとはただ、乱暴で、むさぼるように、交わる。
夜は、アルスラに精気を吸い取られた。何度も何度も、何度も何度も。
…………翌朝の太陽は、とても黄色かった。