七
ドン、となにやらとてつもない衝撃が体に響きわたり、私は思わず耳から手を放した。口から、ぐふっと肺に残っていた空気を吐きだすと、ほんの少しだけ体中を麻痺させる痛みが引いた気がした。ほんとにちょっとだけど。
首をひねると、背中のところにだれかがちょこんと乗っかっている。見覚えのあるサラサラの髪、見覚えのあるパジャマ、見覚えのある中性的な顔つき――。
「あ、お姉ちゃん、ごめんなさい。大丈夫?」
「イタタ、……って弘樹? なんでこんな場所にいるのよッ」
あまりのことに、頭の中がパニくった。
見上げると、もうどこにあるのか確かめるだけでも大変なほどの小さい光。弘樹のいるべき場所はあそこのはずなのに、どうしてこの地獄行きの通路にいるの?
「なんでって、お姉ちゃんが空けた穴から落ちてきたんだけど」
「こ、この穴の中を?」
「そうだよ。だって、お姉ちゃんったらいつまで経っても出てきてくれないんだもん」
弘樹はすっと私の体に手を回して抱きついてきた。弘樹が泣きそうになると私が抱きしめてあやしたのに、まさか弘樹のほうから抱きしめられることがあるなんて。
「ひどいよ、お姉ちゃん。ひとりでどっかいっちゃうなんて」
「ごめん、弘樹。でも、私はもうあの場所にいるわけにはいかないの。私がいたら弘樹だって不幸な目に遭っちゃうし、これ以上は――」
「うん、分かっているよ。パパの声って大きいから、あっちの部屋まで聞こえてたんだ」
「……そっか」
私は口もとをつり上げた。上手く笑えていないのは鏡を見なくたって分かる。
きっと弘樹は私がママの浮気相手の子供であることや、それがママとパパの喧嘩の原因となっていることを知っているのだろう。弘樹の大好きなママとパパが離れ離れになる原因なのだから、もしかすると私のことを恨んでいるのだろうか。
そう思うだけで、寂しくて憂鬱で悲しい気分になる。
「知っているんだったら、弘樹にも私の気持ちが分かるでしょ。私はこのまま、だれもいないところまで沈んでいきたいの。だから、邪魔をしないでくれるかな」
「やだ」
「やだって、……なに言っているか分かってんの? 私がいたら弘樹の大好きな家族だってバラバラになっちゃうかもしれないんだよ。いやでしょ、そんなの。だったら――」
「だから、いやだ。絶対に、絶対に離れ離れになんてなりたくないから」
「どうして? だって、弘樹の家族には浮気相手の子供なんていらないんじゃ――」
「ううん、違うよ。違うんだって。たしかに、お姉ちゃんはパパとは血が繋がっていないかもしれない。だけど、僕とは血が繋がっているんだよ。僕は、お姉ちゃんの家族なんだ。だから僕は、辛そうな顔をしているお姉ちゃんを残していくことはできないよ」
「弘樹……」
「お姉ちゃんがこのまま沈んでいくなら、僕だって沈んでいく。べつに、そんなこと怖くないんだ。だって、僕にとってお姉ちゃんは大好きな存在だから。お姉ちゃんと一緒だったら、どこでだってやっていけると思っているし」
「……バカ、泣いちゃうじゃんか」
いつの間に私は、こんなにも涙もろくなったのだろうか。
ゆっくりと、……ゆっくりと心の中にあったしこりが小さくなっていく。弘樹のぬくもりを、忘れていた家族のぬくもりを感じて、私の悲しみや怒りや虚しさといった感情がポロポロと欠けていっているのだ。血、というのはすごい。
そして負の感情という重りがなくなり、胸の中にじんわりと広がっていく温かさに包まれた私の体は、ゆっくりと地上へ向かって浮かんでいった。
「もどろっか、弘樹。みんな心配しているから」
「……うん」
これから先、困難なことはたくさんあるだろう。
ママとパパが離婚したら環境だって変わるだろうし、家族がひとり欠けるというのは思っているよりも大変なことなのかもしれない。もしかしたらイヤになって、ストレスが溜まってイライラすることや泣くことも多くなるかもしれない。
それでも、だ。
それでも、私は弘樹と一緒に生きていきたいと思うんだ。
こんな私でも家族だと慕ってくれる人がいる世界で、生きていきたいと思うんだ。
弘樹にぎゅっと抱きつかれて、胸の中にじんわりと広がっていく不思議な気持ちに恥ずかしさを感じながら、私は消え入りそうなかすかな光をもとめてゆっくりと上がっていった。