五
前日の夜、弘樹と一緒にレジャーランドへ持っていく荷物の整理をしていた。
明日は朝早くからパパの車に乗って出発する予定なので、準備は今日のうちに済ませておかなければならない。
小中と修学旅行や遠足に行ったことがあるので、準備はお手の物だ。まだまだ経験不足の弘樹の荷物も一緒に整理してやると、弘樹は照れくさそうに「ありがとう」と笑ってくれた。このくらいなら、何度でも手伝ってあげるさ。
お気に入りのシャツに絵柄が可愛いパーカー、ショートパンツ、それに黒地に白い模様のついたレギンスを用意してバッグの上に畳んでおく。夕食後に始めたはずなのに、一通りの準備が終わったときにはすでに夜の十時近くになっていた。
弘樹も真似するように洋服をリュックのとなりに置くと、こっちを見てニッと笑った。
「とうとう明日だね、お姉ちゃん」
「そうだね。なんだか、あっという間に来ちゃったって感じ。レジャーランドに行こうって言っていたときはまだ二週間近くあったのに、もう明日なんだから」
「僕ね、明日が来るのをずっとずっと、ずっとずっとずっと楽しみにしていたんだ。家族みんなでお出かけをするなんて本当に久しぶりだし、あそこのレジャーランドに行くのは初めてだから、夜なんかワクワクドキドキしちゃってさ」
「あー、分かる分かる」
「でもさ、正直な気持ちを言うと、今回のお出かけはワクワクとドキドキだけじゃないんだ。いつもだったらそれだけなんだけど、それと一緒にいろんなことを考えちゃって、……不安というか緊張というか、そのせいで寝付けないことも多かったんだよ」
健気な弘樹の気持ちが、私にも痛いほど分かった。
修学旅行に行くときは行くときで独特のワクワク感があるけど、今回のお出かけにも同じようなワクワクドキドキ感と同時に独特の緊張感があった。
家族みんなで出かけるのは私だって嬉しいし、調べれば調べるほどレジャーランドの面白いものや美味しいものばかりが出てくるので、とても楽しみ。だけど本当の目的は、このきっかけで家族の絆を取り戻すことなのだ。
なのに、ママもパパも依然として機嫌が悪いまま。
昨日なんて、お隣さんから苦情が来るほどの怒鳴り合い。いったいいくつのお皿が割れたのか数えるのにも飽きてしまい、私は怯えている弘樹の体をぎゅっと抱きしめてやりながら、そのうち意識が遠ざかり寝てしまったという始末。
あの鳴り止まない怒鳴り声を聞いていると、ほんと、家族みんなでレジャーランドへ行くことに納得してくれただけでも奇跡なのかもしれない。
「いろいろと心配になるのは分かるけど、私たちが不安になってもしかたないでしょ」
「うん、そうだよね」
「それに、せっかくのお出かけなのにママやパパのご機嫌ばかり窺っていたら、ママやパパのほうだって気を遣うかもしれないよ。私たちは私たちなりに楽しんで、その自然ななりゆきでママやパパを仲直りすることができればいいんじゃないかな」
「そうだよね、そうなってくれると嬉しいんだけど」
「あー、ほらほら、弱気にならないの。弘樹は男でしょうが。お願いだから、出かけるときはそんなしけた面をしないって約束してよね」
せっかくのお出かけだから、何事も楽しいことが一番だと思うし。
弘樹は椅子の上で体育座りをして、膝を抱えていた腕の中へ頭をすっぽりと入れていた。顔がうつむいているせいか、返ってくる声はどこかこもっていて元気がない。
「でも、ごめんね」
「なにが?」
「だって、本当はレジャーランドなんて行きたくなかったんじゃないの? 僕がママとパパの心配ばかりしているから、レジャーランドに行きたいって言ったときに賛同してくれたんでしょ? 本当は、お姉ちゃんも――」
「はいはい、そこまでにしとこうね。いい気分が台無しになっちゃうから」
「でも――」
「あのねえ、それは弘樹が気にすることでもないし、私もお出かけしたい気分だったからいいの。いろいろとストレスを感じていたから、明日はパァーッとはしゃいでストレスを発散してやろうと思っているくらいだし」
そのとき、ドカンと玄関のほうからドアの閉まる音が聞こえてきた。
どうやら、仕事からパパが帰ってきたらしい。
喧嘩をする前は夜の七時までには帰ってきたのに、最近は帰ってくるのが遅く、深夜に帰ってくることも多くなっていた。ママと顔を合わせるたびに喧嘩ばかりしているので、家に帰ってくるのがイヤなのかもしれない。
酔っぱらっているのか、かすかに聞こえるパパの声は呂律が回っていなかった。
「ちょっと、なんて格好をしているのよッ」
続いて聞こえてきたのは、ママの咎める声。ママの声は周波数が高いので、怒っていなくてもこちらまで声が届いてくるのだ。
なんとなーくいやな雰囲気が、密閉されたこの部屋まで伝わってくる。私は勉強机の上に置いたバッグを見つめながら、耳を澄ませて両親の会話を聞いていた。
「あなた、そんなに酔っぱらって明日は大丈夫なんでしょうねッ。ヒナミや弘樹が楽しみにしているのを知っているでしょッ。二日酔いとか言ったら許さないわよッ」
「うっせえなッ。そんな近くていわれなくたって分かってるッ」
「なによ、その言い方はッ。なんの連絡もなく酔っぱらって帰ってきて、よくそんな口を利けたものねッ」
「おめえにだけは言われたくねえよッ。それに、明日はてめえらとはどこにもいかねえぞッ」
そして、いつものママとパパの言い争いが聞こえてきた。
「ちょっと、どういうわけよッ」「どういうもこういうもない、俺は行かないって言ってんだよッ」「だって、初めは行くってッ」「用事ができた、それでいいだろうがッ」
いつもならベッドの上で布団を頭までかぶりながら、その言い争いを黙って聞いているのだが、今回ばかりはそういうわけにもいかず……。
パパの口から出た一言が、気になってしまった。
私は部屋を飛び出すと、リビングに向かって駆けだした。八畳ほどある淡いピンクのカーペットが敷かれたリビングでは、ママとパパが犬と猿みたいに睨み合っている。
ママがこちらを見て驚いた顔をしたが、私は無視してパパの前に立ちはだかった。
「ちょっとパパ、さっきのこと本気?」
「なんだ、さっきって?」
「明日はレジャーランドに行かないって言ったこと、本気かって聞いているのッ。嘘だよね、ねえ、嘘だって言ってよ。なんで前日になってそんなこと――」
「うるさいッ」
ママに向けられていた牙が、まさか子供である私にまで向けられるとは思ってもみなかった。
パパは酔いで顔が真っ赤に腫れていたが、我を失っているようすはなく、血走った目からは強い意志が感じられた。それは、家族に向けるものではなくて敵に向ける憤りだ。
「弘樹と二人きりならともかく、どうして俺が裏切り者のこいつと、人様の子供のためにレジャーランドへなんか行かなきゃならないんだよッ」
「人様って、私はパパの――」
「お前は他人なんだよッ。弘樹と違って、俺の子供じゃないんだよッ」
パパの言葉に驚いたのか、ママがとつぜん手を伸ばしてその口を封じ込めようとした。
「ちょっと、あなた、やめてッ――」
「黙れッ。いいか、この際だからきちんと教えておいてやるッ。お前はなあ、こいつが若い時に浮気をしていた相手とできた子供なんだッ。それを、俺はこれまでずっと知らずに育ててきたんだッ。お前のせいで、お前のせいで俺の家族はめちゃくちゃになったんだよッ」