一
「お姉ちゃん、またママとパパが喧嘩している」
二段ベッドの下段から、弘樹の怯えた声がした。リビングから聞こえてくる声のせいで寝付けないのか、布団がもぞもぞと動く音ばかりする。
「そんなこと、分かってるよ」
二段ベッドの上段で寝転がりながら漫画を読んでいた私は、ゆっくりと首を曲げた。
「おい、聞こえているのかッ」「うるさいわね、そんな大声で叫ばないでよ」「怒鳴らないでやっていけるかってんだ。なにをやったのか分かっているのか」「ちょっと、ぶたないでよッ」
ドアからは依然として罵詈雑言の嵐。もう夜の十時、それもまだ子供たちが起きていると分かっているはずなのに怒鳴り声は止みそうにない。近所迷惑だと思うけど、まだ中学生の私には止めるすべもなく黙って聞いていた。
夕食に大好きなハンバーグが出ていい気分だったのに、たった数時間でがっくりと気分が沈んでしまった。くそう、泣きたい。こんな毎日がここんところずっと続いているから、生きているのがイヤになる。
漫画を読んだらぐっすり眠ろうと思ったのに、こんな気分じゃ眠れそうになく。
手に持った漫画を枕のとなりに投げ捨てると、これ以上不快な気分にならないよう両手で耳を塞いでみた。けれども、パパとママの言い争いの声は防げない。これもそれも、時間が経つにつれてだんだんと声が大きくなっているからだ。
「お姉ちゃん、怖い」
気付いたら、弘樹がハシゴをのぼってこちらを見つめていた。
艶やかな髪の毛にくるりと丸い目、小さな鼻は男性というよりは女性よりの顔つき。まゆげのところで切りそろえた髪の毛が似合っていて、とても可愛らしかった。まだ小学五年生ということもあってか、男性とも女性ともつかない中性的な姿をしている。
ドアの向こうから聞こえてくるナイフのような鋭い罵詈に耐えきれなかったらしい。その瞳には涙が溜まっており、目の縁は痛々しいほど赤くなっていた。
「ごめん。ほら、おいで」
ベッドの端っこによってやり、弘樹が入れるだけのスペースを確保してやる。
弘樹はベッドにもぐりこむと、その小さな手で私の体に抱きついてきた。ぎゅっと握られたパジャマが細かく振動しているのは、弘樹が震えているからだろう。
「お姉ちゃん、大丈夫かな」
私の肩に顔をうずめながら、弘樹が小さな声で訊ねてくる。
「なにが?」
「ママとパパ、いなくなったりしないよね。どっちかがいなくなることなんてないよね。これからもママとパパとお姉ちゃんと、みんなで一緒に暮らしていけるよね」
弘樹のすがるような目つきに耐えきれなくなって、私は目を逸らした。
「あのね、……僕の友達がこのあいだ引っ越したんだ」
「へえ、そうだったんだ。私も弘樹くらいの歳のころに引っ越した子が――」
「先生は一身上の都合だって言っていたけど、僕はその子と仲がよかったから本当のことを聞いたんだ。そしたら、ママとパパが離婚してママに引きとられることになったんだって。それで、ママの実家へ帰ることになったらしい」
「そう、なんだ」
「僕、その話しを聞いてからママとパパのことが不安なんだ。もしかしたら、その子みたいにママとパパが離婚したりしないよねって、……考えると怖くなって怖くなって」
私にも、弘樹の気持ちがよく分かる。
ニュースで離婚率が三割超えたとか聞いても、他人事だと思って相手にしなかった。
でも、いまこうして当事者になるかもしれないと思うと、その言葉の重みが痛みを伴ってやってきた。パパとママが離れ離れになるかもしれないと考えるたびに、この先どうしたらいいんだろうと悩んでは眠れない日々が続いている。
このごろは、ストレスのせいか髪の毛が抜けやすくなっていた。
「……たぶん、大丈夫だよ」
私は弘樹の小さな頭に、そっと手を伸ばした。なんの保証もない言葉だが、いまは少しでも弘樹の負担を減らしてやりたい。
「そのうち、ママもパパも仲良くなるって。いつもみたいに日曜日になったらどっかへ食べにいったりすることができるから。だから、その日がくるまで待っていよう」
「でも。でも、一ヶ月も続いているんだよ」
「それでも、きっとよくなるって」
優しく頭を撫でてやると、弘樹の体の震えも少しだけ収まってくれた。このまま弘樹がゆっくりと眠りについてくれるのを待とうと思ったら――。
ドシン、となにか重たいものが倒れる音がした。
実際に地面が揺れたかどうかは分からないが、それでも私にはベッドが揺れた気がした。びくん、と反応した弘樹の体をぐっと抱きしめてやる。小学五年生にいまのママとパパの喧嘩を見せるのはあまりにも酷だと思っていた。
それから、もう一度ドシンというもの音。ガラスの割れる音。
口論で決着がつかなくなるとこうしてモノに当たるのが、最近のママとパパの喧嘩の傾向となっていた。こちらとしては、口論よりもこっちの音のほうが心臓に響いてしまう。特にテレビのボクシングも見られない私にとっては、この生々しい音は嫌いだ。
どうしてママもパパも、私と弘樹を無視して喧嘩ばかりするんだろうか。
たとえ小さくても家族の一員であることには変わらないんだから、なにか問題があったなら相談してくれてもいいのに。弘樹はともかく、少なくとも私は中学二年生なのだ。
それともママもパパも、私たちのことなんてどうでもよくなってしまったのかな。
あーあ。みるみる気分が沈んでいき、けだるさからか体が重たくなっていく。その心の叫びに呼応するように、ベッドがミシミシと悲鳴を上げていた。
「お姉ちゃん、ベッドがミシミシいってる」
「ああ、ごめん」
憂鬱の水に浸りこんでしまった私は、その声で我に返った。
これ以上暗いことばかり考えていたら、私は現実から少しでも逃れるために、地球の中心へ向かって沈んでいかなくてはならなくなる。
「もしかして、お姉ちゃんも眠れないの?」
「いや、そういう意味じゃないよ。寝るよ、寝る寝る。どうせ起きていたって、いいことなんてありゃしないしね。……ママとパパの喧嘩も収まりそうにないし、今日は一緒のベッドで布団をかぶりながら寝てやろっか」
ママとパパの怒鳴り合いから逃げるために、自分の沈んでいく気持ちから逃げるために。二人一緒に布団の中へすっぽりと入ると、思考という思考をすべて遮断したのだった。