三月姫
自分が初めてまともに描いた話です。短編ですけど。
ごゆるりと寛大な御心でご覧ください。
すこし歴史の話をしよう。
今から語るのは一世紀程昔の話。その時代ではアメリカ合衆国という、軍事国家が世界の実権を握っていた。ただしアメリカと言う国はその軍事力を振りかざしていた訳ではなく、ただただ世界で大きな権力と軍事力を持っていたに過ぎない。だからこそ当時世界は少しばかりの紛争やテロ行為はあったものの、須く平和であった。しかし、その軍事力によって保たれていた平和は、とある軍事力によって大きく崩される事になる。いや、それを軍事力と言って良いものかどうかは分からない。力では在ったものの軍事的ではなかった。軍でもなかったし、群でもなかった。ただの個体が存在しただけだった。そう、個体が十二体存在していた、だけだった。枢人形が十二体。ところで先程からアメリカと言う国などと曖昧な表現をしているのは、なるほど理由がある。簡単に言うと、現在アメリカ合衆国は存在していない。とはいえ、さすがに一世紀もしたら消える国の一つや二つくらいと思うだろう。だから、直線的に、直接的に、完膚なきまでに簡潔に言わせてもらおう。史実上、アメリカ合衆国は一世紀前に滅ぼされた。消されたと言ってもいい。惨劇だった。ただし、劇と呼ぶには悲劇も喜劇も惨劇すら相応しくないかもしれない。いうなれば、虐殺。抹殺。惨殺。塵殺。爆殺。何とでもいえるかもしれない。唯、只、徒、ただ惨いの一言に尽きる。その事件は、殺戮は世界人口を半数まで減らした。長いようで、短い。約三ヶ月に及ぶ殺戮だった。そして、その後人形たちは姿を消した。いまだに何が目的だったのかも分かっていないし、誰が指示したのかも分かっていない。少なくともその頃は世界中が混乱して、調べようが無かったのは事実で、致し方ないと思う。ただその当時しか調べようがなかったのも事実だが。
と、これで歴史の話は終了としよう。しかしながら、この話はあくまでも史実に基づいた話なだけであって、もしかしたらアメリカを滅ぼしたのは十二体の人形ではなかったかもしれないし、本当にそうであったかもしれない。ただし我々に調べる手立てはない。あくまで、過去なのだ。過去を調べる道具は人間が残すデータしか発明されていない今、不確かなデータがそのまま過去になる。今はソレで良いのかもしれない。重要なのは今現在。この話も現在進行の話なのだから。
笠原広志は、資料室で空ダンボールの下敷きになっていた。その数は一見ダンボールしか存在しないかのように思われる数だ。広志は頭を押さえながらダンボールの山から生還する。下山ならぬ脱山といったところだろう。脱山してきた彼の手には資料と思われるファイルが握られていた。
「ああ!これ片付けないと教授に殺されるな」
広志は目の前に広がっているダンボール富士を見て愕然とする。
「まあ、仕方ない。ささっと終わらせるか」
ここは国立烏賊王子大学(略してイカ大)。その第二資料室。名前の通り、日本のとある県に設立されているありきたりな大学。の特に使用されていない資料室である。そして、世界歴史文学科に所属している笠原広志大学二年生は教授に脅され…、もとい頼まれて遥々とこの寂れた(さび)資料室に訪れたのである。頼まれた資料の内容は詳しくは聞かされていない。
「笠原君。第二資料室の場所は分かるよね。そこの左から二番目の棚、下から五段目、奥から十五番目くらいにある資料があるから、すまないがそれを取ってきてくれないか。ちなみに中身は見ないようにね。いや、見てもいいんだけど。じゃあ、お願いね」
とチラチラと成績表を見せながら言われた。第二資料室の入った広志は言われた通りに資料をとった後、積み重ねられていたダンボールに当たってしまい、先程のようになったという訳だ。
「よし、終わった、終わった」
ダンボールの下敷きになってから数十分が経過し、ようやく資料室は元の状態に戻っていた。広志は袖で額に浮いた汗をぬぐう。そして、修復作業のため床においていたファイルを取ろうとした時、そのファイルの隣に雑にまとめられた年季の入ってそうな紙束を見つけた。見たこともないといえば当たり前になってしまうが、なんとなく気になったと言えばどうにでも成るその紙束を拾う。とそこで、チャイムが鳴る。腕時計を見ると短針が六を指していた。
「やばい、上根教授が帰る時間だ。えーと、この何だか気になる紙束は。…もって帰ってしまえ。どうせ、そろそろ論文の宿題出るし。役に立つかも知れないし」
そう呟くと紙束とファイルを同じ手に持ち替えて、走り出した。
結果から言うとファイルは教授に提出できた。ぎりぎりだったが。というよりも、
「どこに定時帰宅の教授がいるんだよ!」
すでに暗くなってしまった通りを歩きながら、珍しくもない悪態を吐いてみる。ちなみにだが、イカ大で定時帰宅をするのは上根しかいない。他の多くの教授はご苦労な事に夜分遅くまで熱心な研究を続けている。そんな中どうして上根だけこんな事ができるのかというと、それは彼が天才だからだ。天才も天才、秀才も秀才、それが上根だ。小学生の頃から飛び級の制度を利用して、外国の各大学を転々と卒業していき、十八で大学教授の席を手に入れ、そこからも数々の功績を残して、なぜか今現在イカ大こと烏賊王子大学の教授をしている。それも専門ではない世界歴史文学科。ほんとに何故こんな普通の大学にいるのかが不思議でたまらない。「ふう」とため息を吐く。ため息を吐くと幸せが逃げるとか何とか言うが、恐らく幸せなど残っていないだろうと広志は勝手に解釈をして再度大きくため息を吐いた。広志がイカ大を受験した理由は、そこが地元であったことと学力が相応だった事。そして、もう一つあるのだが
「――おいッ!何知らん顔してくれてんだよ!ああ、ネエチャンようッ!」
と物思いにふけっていたところで、喧騒が耳に入る。どうやら数メートル先の路地裏からのようだ。再々度ため息を吐く。嫌いなのだ。こういうのは。それにしても、もっと小さな声でおらんでくれないものか、とはいえ小さくおらぶというのは云い得て妙というやつだが。広志はやや早歩きで声の元へと向かう。そこでは想像していたのと同じ光景が広がっていた。一人の女性を数人の男が囲んでいる。
「てめぇ、昭二に手を出しやがってこの野郎」
「お怒りの意味が分かりません。私はこの男が先に攻撃行動に移ったので、軽度の対処行動をとったまでです」
女性の足元に一人男がのびている。どうやらこの女性が気絶させたようだ。最近の女性は強いというのは本当らしいと感慨を覚えつつ、女性の方をまじまじと見る。黒い長い髪を後ろで布の切れ端のような物で括っている。服装は着物。とはいえ少し普通のとは違い、袖が少々長い。顔立ちは整っていて、少し表情が読めないが十二分に美人といえるだろう。そこで、男たちの一人がようやく広志に気づく。
「ああん!何じろじろ見てんだよッ!」
と案の定ガンを飛ばして牽制してくる。
「見逃してやっから、どっか行きな」
手の平を下に向け、弾くように手を動かす。女性に注意を向けていた男も広志の方に向き直って、他と同じようにガンを飛ばしてくる。どうやら人気者のようだ。
「あーあー、マイテス。マイテス。よしっ!……あんたら、そんなところでナンパするのは良いが、少々声が大きすぎはしないか」
「ああ?何意味のわかんねえ事言ってんだよ。とっとと帰りやがれってんだよ!」
「はあ、また幸せが逃げたじゃないか。全く。じゃあ、面倒だから端的に、簡単に、修飾語抜きで言ってやるよ」
ため息を吐いた分息を吸い込む。
「お前らは気に入らない。消えろ」
ザワッと辺りが一瞬ざわめく。そして、その後は怒気の嵐が吹き荒れた。罵詈雑言が耳障りだ。「ぶっ殺す」とか「死ね」、「ふざけるな」とか言う言葉を口々に言う男たちの群れに広志はゆっくりと近づいていく。勿論、全員を倒そうなどとは思わない。というよりも正直無謀だ。だから、狙いは一人。女性に一番近い男だけ。と、一番前にいた男が真っ直ぐに殴りかかってくる。ソレを広志は難なく交わすと、更に前に足を進める。一人、また一人と攻撃を交わしては女性に近づいていく。難なく交わされたほうはあっけに取られていた。ちなみに女性に一番近い男を目標にしたのは、女性を助けやすくするわけではない。こういった場合、舞台の真ん中にいる奴が、一番強いのだ。今まで難なく交わしてきたのはブラフ。もしかしたらこいつ強いかもしれない、という印象を少しでも頭に植え付けるためだ。ようやく目標に近い男と向かい合う形になる。距離にして約二メートル。目の前には一人の男だけ。男はやはりというか、当然と言うか、殴りかかってきた。恐らく彼になんで殴ったのかと聞いたら『そこに人がいたから』と答えるような自然さだった。まあ、予想通り。広志は応戦する。ちなみに攻撃において最も威力が増す時。それは相手と自分の攻撃ベクトルが逆である時。つまり、カウンターだ。だからこそ、広志は相手が攻撃してきたのを見計らって、今度は避けるのではなく、拳を繰り出した。しっかりと重心の乗った前衛体勢の男の顔面、さらにその真ん中に体の回転を最大に利用した広志の拳が入る。あとは腕を振り切るだけ。男の体が宙に浮く。後方に飛びながら、だが。ガシャンと壁にぶつかった男はピクリともしなかった。ソレを見た仲間、もとい男たちは早々と退散していく。やがて、路地裏には広志と女性と、のびている男二人だけが残された。
女性の名前は弥生というらしい。助けた後にいろいろと会話があった。
「弥生さんはどうしてあんなところで絡まれていたんですか?」
路地裏を出て、とりあえず当たり障りのない言葉を選んで質問する。
「少し探している物がありまして。そんな中、丁度そこであの男たちに話しかけられたので少し尋ねてみたのですが全く相手にしてもらえず」
「で、あの状況になったと」
「はい。そういうことです」
どうやらこの町の人間ではないらしい。どうりで見かけない顔だと思った。この町にこんな美人はいないからな。などと考えていると、「あの」と弥生が少し畏まった様子で尋ねてきた。
「先程は助けていただきありがとうございます。もう少しでここには居られなくなるところでしたから。ところで助けてもらったばかりで申し訳ないのですが、幟丘研究所という場所をご存じないですか?」
幟丘研究所。先程の探し物の事だろう。広志は聞きなれない単語に頭を捻り、唸る。幟丘、ノボリオカ、のぼりおか、全く分からない。生まれてこの方、ずっとこの烏賊王子で暮らしているはずなのに欠片もぴんとこない。広志は弥生が場所を間違えているのかもと思い、逆に弥生に尋ねてみた。
「それはどこか違う場所だったりしないのか?」
「いいえ」
と弥生は断言した。
「間違いなくここのはずです」
「なるほど。じゃあ悪いが俺は力になれそうにない。わるいな」
「こちらこそ助けてもらったお礼にこんな事まで聞いてしまい申し訳ありませんでした」
律儀に頭を下げると「それでは」と言い残し、去っていく。ある程度見送って、立ち去ろうと広志が思った時だった。「あ」と弥生が声をあげた。そして、そこで立ち止まり、少し考えるような仕草を見せた後、すたすたと俺の方に戻ってきた。
「あのすみません」
そう言って申し訳無さそうにの広志の顔を見上げる。すこしドギマギする。
「ど、どうかしました、か?」
「非常に申し上げにくいのですが…」
そこで弥生が俯き、少しばかりの沈黙が流れる。意を決したように弥生が口を開く。
「しばらくご一緒に住まわせていただけませんか?」
……。
「え」「ええ」「えええ」
「何だってええぇええええええええええええええええええええええええぇええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!」
何やかんやで奇妙な同棲生活が始まった。
同棲する事になった理由。それは、決して弥生が広志に一目惚れしたなどと言った甘酸っぱいロマンティックな話であるわけがない。というかそんなこと漫画の世界でもゲームの世界でも見たことも聞いたこともない。だが、このようなとってもラッキーな状況になるのに正直理由なんか語る必要性がないとは思うが、一様語っておいた方が良いのだろう。
叫んだ後。
「いや、その、迷惑なら結構ですので」
「いやいやいや。叫んでしまって、申し訳ない。だが、とりあえず理由を聞かせてくれないか」
広志は話しつつ息を整える。
「先程の話なのですが、とりあえず探し物を見つけないといけないので。しかし、すぐ見つかると思って何も用意していなかったんです。だから、せめて目的を果たすまででよいので、衣食住の住だけでよいので、お願いできないものかと」
なるほど、相槌を打つ。そこまで長い間では無いし、金銭的にもへそくりがあるのでそれくらいの期間なら問題は無いだろう。そして、最も
「このシュチュエーションを逃さない手は無い!」
「!ど、どうかしましたか?」
「おっと」と広志は無意識で出ていたガッツポーズを収める。興奮と混乱でどうやら自分を制御できなくなってしまっているらしい。ここで一つ深呼吸。そして、改めて弥生に向き直る。
「ええと、少し狭い家だけど、というかアパートだけど良いかな」
「はい。ありがとうございます」
などというやり取りがあって、現在に至る。場所はアパートの広志の部屋である。と言う事で広志と弥生が一つ屋根の下。まあ一つ屋根の下と言ったところでアパートでは住人全員が一つ屋根の下ということになるのだが、それは戯言。そんなことを考えたところで広志の何とも言えない緊張感は消える事がないのは明白であるが。そして、今現在弥生が入浴中であることが緊張感もとい動悸をさらに大きくしていた。生まれてこの方広志は女性を部屋に招いた事はない。故に同棲などはもっての他だ。かと言って交際をしたことがないわけではないが、皆、家に招くという段階に至るまでに別れてしまうのだ。さて、と広志は考える。さて、どうしようかと。まあ、どうするもこうするも、何をして良いのか分からず、緊張で頭も回らない。とそこで、風呂場から換気の音が聞こえ始める。換気の音に混じって弥生の声が聞こえた。
「お先に頂きました」
はっと広志は今になって気づく。弥生に寝巻きの服を用意していなかった。とすでに弥生は風呂場からこちらに来ようとしている。ちらっと弥生が見えた。胸の上からバスタオルを巻いているのだがさすがに刺激が強い。
「ごめんなさい!すいません、寝巻きを用意するのを忘れてた。すぐに持って行くからもう少し風呂場にいてくれないか。男物しかないけど勘弁してくれ」
広志は一気に言うと、慌てて自分の部屋に行き、寝巻きセットを用意する。そして、目を隠しながら弥生に寝巻きセットを手渡すと土下座しながら後退するという荒業を見せた。この時広志はこう思った。……明日弥生の身の回りの物を買いに行こう。と。
翌日、二人は烏賊王子町の隣町である凧王妃町の大型デパートに来ていた。もちろん大学はサボりだ。弥生は広志のTシャツとジーパンを適当に合わせた服装だったのだが、やはり美人。全く違和感が無い。というよりも寧ろ着こなしている。広志は広志でストレートのパンツに白いシャツを合わせ、その上からジージャンを羽織っていた。ちなみにだが、広志はなかなかそこそこの美少年ならぬ美青年とまではいかないが、それなりに整った顔立ちをしている。そういうわけで今二人は美男美女カップルと言う目で周りから熱い視線を送られていた。しかし、そんな視線に気づかないまま、二人は目的の場所に向かう。婦人服売り場だ。こういった場所に慣れていない広志は正直緊張していた。どうも空気が慣れない。慣れているほうがおかしいのだが。と広志が隣を見ると弥生もどうやら緊張しているようだった。こちらは慣れていないほうがおかしい。広志は笑いそうになるのを堪えながら、弥生に言う。
「俺は通路で待ってるから、良いのがあったら呼んでくれ」
「えっ?一緒に見てくれないんですか」
「いやいや、女性物のコーナーの空気はどうも苦手でね」
広志は後ろを向いて、通路に出ようとする。
「待ってください。こんな所に一人置いていかないで下さい」
「こんな所に、って。ここは女性のコーナーだろう」
広志がそう言うと、弥生は、そうですが、と困ったような仕草を見せた。
「でも、こういうところに来たのは初めてなんです」
その言葉に広志は驚きの声を上げる。
「驚くのも無理はないと思いますが、しかし、本当なのです。妹たちは何かと行っていたみたいですが、私は幾分そういうのに興味が無かったものですから」
「妹さん方はどんな服装をしていたんだ?それを参考にすればいいんじゃないか?」
広志がそう言うと、さらに弥生は困ったような表情になり、呟くように説明する。
「あの娘たちは、趣味が…。いえ、私に合うような服装の趣味をしていなかったもので。
…水無月はメイド服ですし、文月はひらひらしすぎで某幸子さんみたいでしたし、葉月にいたっては破廉恥極まり無かったですし。だからこの際、あなたに手伝ってもらおうと思っていたのですが」
すがるような目つきで見てくる。広志は諦めて。
「……。わかった。手伝うよ。そこまで頼み込まれたら断れない」
そう言うと、弥生はほっとした表情になる。喜んでくれて何よりだ。ちなみに、世界歴史文学科の俺ですら名前しか知らない元有名歌手の某幸子さん。何故弥生が服装を知っているのかは不思議ではあるが気にしないでおこう。
それからは弥生のファッションショーだった。
「どうですか?似合いますか」
「うん、とっても」
「「いえーーーー!」」
弥生が次から次へと服を着替えていく。ちなみに今のが二十着目。すでにこの試着室の周りは大勢の野次馬どもで賑わっていた。何度も繰り返すようだが、弥生は美人だ。その弥生が何度も何度も着替えて、服装を披露というファッションショーまがいが行われているわけで、それはもう噂が広まりまくりの、野次馬来まくりだ。店員さんも何だか興奮しているようで、それも手伝い、今や既に軽いアイドルのライブみたいになっている。時間にして約一時間。それは永遠と続いた。そのおかげかは知らないが、広志が弥生の気に入った服をかごに入れてレジに持っていくと店員さんがかなり値段を負けてくれて助かった。決して安くは無かったが、弥生が喜んでくれているので良しとしたい。それからはデパート内で昼食を取ったり、適当に物色したりと時間を潰した。
「今日はありがとうございました。とても楽しかったです」
帰り道、既に日が暮れて、辺りは暗くなっていた。広志と弥生の手には、かなりの荷物が携えられていた。
「それは何よりだ」
すでに人気は無く、電灯のはじけるような音だけが、響いていた。二人は談笑しながら歩いている。
「何かいい感じの服は見つかったか?」
「はい!初めて自分の物品を買ったような気がします。それと…、男の人と二人きりなんてことも在りませんでしたから」
そう呟くと、弥生は空を見上げる。
「こんな自由な時間も。本当だったらもう無かったんだな…。…と」
「えっ」
「あっ、いえ、その忘れてください」
弥生が慌てて首を振るので、広志は、ああ、と驚いて頷く。そのまましばらく無言で歩く。数分くらい歩いた所で、弥生が思いついたように声を上げた。
「あっ!そういえば」
「どうしたんだ、弥生」
「あなたは私のことを弥生と呼びますよね」
広志はあっけに取られる。そういえばいつの間にかさん付けするのを忘れていた事を思い出した。
「悪い。気分を害していたか?」
「いえ。だから…」
「だから?」
「あなたの事を広志と呼んでも良いですか?」
弥生はそう言って薄く微笑む。あ、ヤバイ。すげえ可愛い、と広志は弥生の笑顔に見惚れる。
「え、だめですか?」
「……はッ。いや、そんなことは無いよ」
「ありがとうございます!…広志」
広志は頭が熱を帯びるのを感じる。だが、熱を帯びている頭に夜風が心地よかった。
それから一ヶ月が過ぎたある日、広志は大学で上根教授に呼び出された。恐らくは先日のファイルの事だろう、と推測できた。そして、予想通り上根教授からの話は先日のファイルについてだった。世界歴史文学科の授業教室へと赴いた広志は、そこで上根教授からファイルを手渡される。どうやらファイルについての調査及び研究が終わったようだった。相変わらず行動が速い教授だな、と広志は思う。
「笠原、すまないがこれを元あった場所に戻しておいてくれ」
上根教授は気だるそうな顔をしている。どうやら思ったような情報は無かったらしい。
「何か面白い情報はありましたか?」
ととりあえず広志は尋ねる。すると上根教授はため息を軽く吐きながら答えた。
「いいや。何も無かったよ」
まあ予想通りだ。
「……幟丘のことについては何も触れてなかったしな」
「えッ?」
幟丘、のぼりおか。どこかで聞いたような。すると上根教授は広志が反応したのが意外だったのか、のめりこむように訊いてきた。
「笠原!幟丘について知っているのか?」
「いや、最近聞いた言葉だったもので。詳しくは知りませんが」
そう、名前を知っているだけで、詳しくは知らない。あの時弥生は確か…
「…幟丘研究所」
「…ッ!」
そう呟いた瞬間、上根教授は血相を変えた。そして、広志の方を見ると、周りに聞こえないように小さな声で耳打ちしてくる。
「…笠原。その事をいつどこで聞いたかは知らないが、この事は黙っておくんだ」
それを言い終えると上根教授は去っていこうとした。しかし、広志は去っていく上根教授を引き止める。
「待ってくれ。一つだけ訊きたい。幟丘研究所なんて物があるんですか?この町に」
「過去形だ」
そう呟くと、上根教授は何も言わずに去っていった。
広志はファイルを戻すとすぐに自分のかばんが置いてある教室へと向かった。
「そういえば」
とかばんの中に入っている古びた紙束のことを思い出したのだ。あの時はなんだかごたごたしていて、見てもなかったが、もしかしたら万が一、あの事に触れているかもしれない。幟丘研究所。その事について。教室の戻るとすぐにかばんから紙束を取り出して、誰にも見られない様にトイレの中に閉じこもる。そして、内容を確認する。紙はかなり古いらしく文字が消えかかっていたが、目を凝らせばどうにか見られる程度の物だった。
『望月計画 機比存空』
表紙にそう書かれていた。広志は次の紙をめくる。その内容はまるで日記を書いているような書き方だった。小さく声に出して呼んでみる。
「『○月×日 ついにこの計画を始動させる。この計画は月希を蘇らせる。これが絶対条件だ』」
「『○月×日 始動から数ヶ月経過。計画の進行は順調。一つ目の枢が完成した。一体目だから睦月と名づけよう。これでどうにか生命を保持できる』」
「『○月×日 しばらくぶりにこの記録を残す。月希を蘇生させるには大量の血液が必要だとわかった。だから、そのための枢を創っていた。そして、ようやく完成したのだ。二機の戦闘用枢。これらはほぼ人間と同じように創っている。人間と同じように血液を循環させる事により生命を保っている。すなわち人造人間のようなものだ。しかし、それでも人間は作ることは出来なかった。枢人形には血液は作ることはできない。だから、これらの二つの枢にはとある機能を追加しておいた。『吸血機能』だ。さらにこれにより月希の為の血液を採取し、与える事も可能になった。計画実行の日は近い。そうだ、この枢には私と月希の生まれた月の名前を与えよう。一体は葉月。そしてもう一体は…』」
とそこまで読んで、広志は絶句した。枢の名前は、
「『弥生』」
そこから先は計画を実行したところまでしか書かれていなかった。結局幟丘研究所については触れていなかったが、恐らくだがこの機比存空の研究所というのが、幟丘研究所なのだろう。だが、しかし何故こんな所にこんな物が残っているのだろう、と広志は首をかしげて考える仕草をする。しかしながら問題は弥生の事だ。彼女が本当に枢人形なのか。在り得るはずが無い。そう思いたかった。第一に人と区別がつかないほどの人形を造れるわけがない。それに、弥生は吸血なんかしていなかった。それに、それに、といろいろと反例を挙げてみる広志だが、心のどこかでそうではないか、と思う心は消せなかった。何だかもやもやする。直接聞いてみるのが早いのだろう。しかし、人形でなかった場合は良しとして、そうでなければどうする。一ヶ月間暮らしていたのが枢人形。もとい殺人人形だ。どう接すればいい。だけど、と広志は頭を捻っている。ずいぶんと悩んだ後に広志は覚悟した。
「分からないなら聞けばいい」
そう割り切ったのだった。それから、大学からの道のりを広志は何を言おうか考えながら歩いていたら、家に着いてしまった。正直何を言おうかは決まっていない。玄関の扉を開ける。つまりは出たとこ勝負だ。
「ただいま」
扉を開けると、ほのかに美味しそうな匂いがした。
「おかえりなさい」
と弥生がエプロン姿で出てくる。弥生が料理を作っていたのだ。
「もう少しかかりそうなので、ちょっと待っていていただけますか」
「ああ。ありがとう」
そう言って、広志は机の前に座る。料理をしている弥生を見て、広志は初めて弥生が料理を作るといった時の事を思い出す。原型をとどめない卵焼き、なぜか真っ黒なご飯。あの時は大変だった、等と思い出していた広志はハッとしたように首を振る。こんな思い出に浸っている場合じゃない。今聞かなければいけないことは。そこで弥生が料理を運んでくる。広志も運ぶのを手伝う。一通り運び終えた所で広志は勇気を振り絞る。
「あのさ…」
「なんですか?」
「機比存空って知ってるか?」
その名前を出した途端、弥生の表情が固まる。そして、ゆっくりと口を開いた。
「ええ、知っています」
広志は目の前が真っ黒になる感覚を味わう。
「じゃあ、弥生は…」
「はい、百年前に機比存空に造られた戦闘用枢、弥生です」
驚くほど冷淡に言い放った。先程までの空気はもうない。
「現在は既に使命は無く、故にここに訪れました」
「じゃあ、機比存空も月希って子も…」
「はい。お二人とも死去しております」
弥生は静かにそう言うと続けた。
「そこまで知っているなら、私がかつて人間を殺戮した事も知っているのでしょう。私は月希様の為に世界を壊しました」
かつて、世界が壊された謎の事件。それこそが広志がイカ大に入学した最後の理由だった。このことに少しでも近づきたくて日本で唯一の世界歴史文学科を専攻した。動機も謎で犯人も謎。全てが謎に包まれた最も残酷で残虐な殺戮事件。だが、広志は全てを知っていた。知ってしまった。それは機比存空の製作した彼女等による、たった一人の少女を守るための殺戮。一殺千生ならぬ千殺一生。いや、ただの千殺無生。それが彼女等だった。
「その代償により望月計画は成功しました。無事、月希様の症状は回復し…」
そこで、弥生は一拍おいて
「自殺しました」
そう言った。それから少し悲しそうな顔をして
「……広志。私が怖いですか?」
弥生は広志にそう尋ねた。それは何かを諦めたような、そんな顔だった。そこで、いや、その場面だからこそ広志は笑った。弥生はあっけに取られている。ある程度、笑った後に広志は弥生の質問に答えた。
「怖い?そんなわけ無いじゃないか」
弥生は、えっ、と声を上げる。
「でも私は」
「過去?そんなのどうでもいいだろ。俺が知っているのは俺が知っている弥生だけだ。って、ちょいとくさ過ぎたか。まあ良い。へんなこと聞いて悪かったな。飯食べようぜ。早速作ってくれたのに冷めたらもったいない」
広志がそう言って笑うと
「はいッ!」
と弥生も笑って、机に前に座った。いただきます、と二人で言って料理に手をつける。今の弥生の料理は美味かった。
さてはて、終わりというものはどこにでも転がっている物であり、例えるなら公園のベンチの上にだって転がっていたりする。とりわけ、人生の終わりは突拍子も無いくらいに唐突であり、どこかの物語の如く、きちんと待ってくれているわけが無い。もう、こんな解説などは不要に近いのだろう。だから、物語は続かないし、終わらないし、始まってすらいない。これもまた同じ。ひたすらに、限りなく、同類。では、戯言の幕引きと行こう。
「弥生はここに何をしに来たんだ?」
と広志は尋ねる。あれから数日後の事だった。正直弥生の正体が分かってしまったら、態度も変わってしまうのではないかと畏怖していたが、そうでもなかった。広志の元の性格も手伝って、何事もなく暮らしている。ところで、何故こんな質問をしたのかというと、弥生が何をしに来たのかが結局分かっていない事に気づいたからだ。弥生が幟丘研究所を探しに来たのは分かっている。だが、それは目的であって目的でない。研究所で何をするのかが目的なのだ。広志の問いに対し、弥生は
「桜を見に来ました」
と答えた。その答えに広志は驚く。それは広志が予想していたのはもっとこう『資料集め』だとか『証拠隠滅』とかそう言った物だったからだ。あまりに簡易すぎる。というよりもそれならいちいちここにくる必要すらないのではないかと思った。驚いた様子の広志を見ながら弥生はクスリと笑う。
「ふふ、案外普通で驚きましたか。私は研究所の近くにある桜がとても好きだったもので見ておこうと思ったんです」
桜か、と広志は上を見上げる。要するに弥生は思い出に浸りたいのだろう。懐かしい昔の事、目的のあったときの自分。ふと、広志は大学内に綺麗な桜が咲いている事を思い出す。弥生が来てから一ヶ月経っているが、そろそろあの桜は満開になる頃だろう。あの桜は普通よりも一ヶ月ほど開花が早いのだ。だったら、一緒に花見をしよう、広志はそう思った。
「なあ、弥生。俺の大学の中に綺麗な桜があるんだが、今度見に行かないか?」
と誘うと、弥生は嬉しそうな顔をした。
「では、ご一緒させて下さい」
こうして、二人は花見をする事になった。
花見に当日。広志は弥生を連れて、大学の中へと侵入した。とは言っても、一回家に帰ってから。さらに広志はこの日の授業を昼で切り上げているので、まだ人もいるだろうし、そこまで遅いわけではない。
「大学ってとても静かなんですね」
それは、大学内をしばらく歩いてから、弥生が言った言葉だった。辺りはシンとして、静寂に包まれている。自然の音だけが耳に入ってくるくらいだ。おかしい。広志はそう思った。やけに静か過ぎる。基本大学の授業は選択式で自分の受ける講義が自分で選べるようになっており、人によって時間帯が変わってくる。故に小中高校みたいに全員が同じ時間に授業を受けるなんてことはありえないのだ。だからこそ、この状況はありえない。広志は嫌な予感を感じる。
「弥生、少し校舎内を回ってみても良いか?何だかおかしい」
「そうですね。確かにここ周辺だけ常軌を逸している雰囲気はあります」
そうして、二人は校舎の中に足を踏み入れた
校内に充満しているのは、血の匂いだった。鉄臭い匂いがどこからとも無く流れてくる。自然と二人は足を速めた。やばい雰囲気が漂っている。
「これは」
「ええ」
大体の予想はできる。こんな短時間で、大学内にいる全ての人間を抹殺できるのはもうソレしかいない。校舎のあちこちにはおびただしい数の銃痕が残っている。
「…葉月の仕業ですね」
葉月。それは弥生と同時期に造られた枢人形で、戦闘用枢。
「なぜ、あの娘がここに」
二人はおそらく葉月がいるであろう所に向かう。場所は大体分かっている。人が一番多く集まる場所。それは、この時間なら大講義室だ。見事に予想は的中した。大講義室に葉月と呼ばれる人形はいた。それにしても、と広志は口を押さえて吐き気を堪える。広志の目の前には凄惨な光景が広がっていた。目の前に広がる、真っ白な…
抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻抜け殻。
抜け殻、の山だった。
その抜け殻の山の上に上根教授も積まれていた。一人残らず血という血を、命という命を吸い尽くされている。無残で凄惨な、地獄絵図というのは正にこの事だろうと広志は思う。
「ああ」
広志は小さく呻き声をあげた。この状況で最も驚いていたのは、上根教授の死。彼は殺しても死なないような人間だと思っていたのに。驚くほどに現実は簡単に無慈悲に世界を壊す。同級生も下級生も上級生も教授も助教授も、皆死んだ。殺された。
「本当に救いようの無い」
そう言って広志は葉月であろう人形を見据える。白髪のツインテールで、地肌の上にそのまま来ている革ジャン、腕からだけの小袖をつけ、膝上数センチのジーパンを着ている全身血まみれの少女を見据える。
「あれ、弥生姉!探したんだよ」
ようやく葉月は溌溂とした様子でこちらを向く。顔は、吸血の所為であろう。口元までぐっしょりと血にまみれていた。
「弥生姉がいなくなって大変だったんだから。極月は神無月ともめて、両方死んじゃったし、それで唯一の残ってた文月も『某幸子さんに会ってくる!』とか言って死んじゃうし。残ったのはあたしと弥生姉だけになっちゃったんだよ」
笑いながら、そんなことを言う葉月を見て、広志は少し気分が悪くなる。そうか、こいつは殺す事が当たり前なのか、と。そう考えるだけで堪えたはずの吐き気が戻ってくる。なのに、葉月は溌溂と笑う。
「だから、弥生姉。あたしと一緒に生きよう。あたしはもういっぱい食べたから。後は弥生姉のでいいよ」
そんな葉月を
「断ります」
弥生は否定した。
「何で?もう弥生姉の中の血はほとんど残っていないんでしょう。死んじゃうじゃん!あたし、そんなの嫌だよ。だから、ここまで呼びに来たのに」
葉月は予想外といって様子で、食いついてくる。しかし、弥生はそんな葉月に表情を変えることない。
「心配は要りません。私はここに……、死にに来たのですから」
葉月は驚きの表情を隠せないでいた。しかし、それは広志も同じ。
「死にに来た?どういうことだ、弥生」
広志が弥生に対して声を荒げる。すると、葉月が広志を睨み付けた。そして、ふーんと呟くと、再び弥生の方に振り返る。ただし表情は不機嫌そうだ。
「なるほどね、なるほど」
そう言いながら、葉月は広志と弥生を交互に見る。
「弥生姉はこの男が好きなんだ」
「――ッ?」
「ち、ちがいます!」
その二人の反応を見た葉月は驚くほど残酷な表情を見せた。今までに無いくらいに冷酷で無慈悲な、そんな表情で、口を三日月のように引きつらせて笑った。
「じゃあさ、じゃあさ!その男が死ねば、弥生姉も一緒に来てくれるよね」
えげつない表情で葉月は広志を再び睨み付ける。広志はその場から動けない。心は逃げようとしているのに、体が言う事を聞かない。発狂寸前だというのに声も出ない。蛇に睨まれた蛙だ。その時、
「そんな事はさせません」
室内に弥生の凛とした声が響いた。広志はその言葉で一気に体を押さえつけていた塊が消えるのを感じた。しかし、葉月は腹が立ったのか、逆上して声を荒げる。
「ああ!むかっ腹だよ!どうしても、死ぬ気なんだね。だったら、この弥生姉を愛してやまないあたしが直々に――、殺してあげる」
そう言った葉月の両腕から無数の銃器が姿を現した。
その姿はまるで玩具をひけらかした子供のようだった。ただし、
「ダダダダッダッダダッダダアアアアッ!」
全部本物。広志は机を盾にして、しゃがみ込むように回避する。目の前では、黒板が、教卓が、椅子が、まるで映画のワンシーンのように削られていく。しかし、弥生はその銃弾の雨と呼ぶには生易しい、嵐の中を突き進んでいった。スッと一本の刀を体の中から出す。弥生は教室の中を跳ねるように弾丸をかわしているが、この弾幕で葉月に近づくことが出来ないでいた。所謂均衡状態だ。どんなに避けても、どんなに逃げても、止まない嵐。その上、ここには傘すらない。しばらくこの状態が続いた後、とうとう痺れを切らした葉月が、ガシャリと音を立てる。
「ダダダッ、と。もうめんどくさいなあ」
葉月はロケットランチャーを取り出す。他の銃で牽制しながら弾を装填した。弥生は弾幕の嵐により、逃げる事もできない状況に陥っていた。
「じゃあ、ドッカーン!」
「まずいッ!」
広志は飛び出した。そして、弥生を捕まえると、空中で抱きかかえるような体勢になる。広志が弥生に飛びついた故にロケットランチャーの弾は二人のかなり横を通過し、爆発した。しかし、広志と弥生はその爆風に巻き込まれて、吹っ飛ばされる。だが、教室の中というのが手伝って、二人はそう遠くまで飛ばされる事は無かったのが、不幸中の幸だった。煙は収まる気配が見られない。爆破された講義室。そこには教室だったという面影が微塵も残っていなかった。もはや、ただの残骸の集合体に成り下がっている。広志は抱きかかえている弥生を見る。二人ともさすがに無傷とは言えない。弥生は、ところどころから出血し、特に左腕は使い物にならないと思うくらいに、壊れていた。広志に至っては背中の感覚が残っていない。
「――ぅう。広志?」
弥生が目を開ける。ただし今までに無いくらい虚ろだ。
「大丈夫か?」
「ええ」
声に気力を感じられない。恐らくは、血液不足。貧血というやつだろう。弥生は吸血人形。ゆえに人の血液を吸わないと生きていけない。弥生も葉月もだが、彼女等にとって血液は食事であり、栄養分である。しかし、弥生は少なくとも一ヶ月、もしかしたらそれ以上の時間、血液を吸収していないのかもしれない。だから、
「俺の血を吸え」
広志は自分の腕を差し出した。しかし、それを弥生は頑なに拒否する。
「血を吸わないと死ぬんだろ!全部はやれないけど、30パーセントくらいは――」
「……広志。月希様は自殺したんです」
「それはこの前聞いた!そんな事より―」
「嫌になったんです、生きる事が」
………。
「月希様は嫌になったんです。多くの犠牲の上に自分が成り立っている事が」
広志は何もいえない。ただただ弥生の話を聞き入ってしまっている。弥生は淡々と続けた。
「私にはソレが何故か分かりませんでした。生きてさえいればそれで良いじゃないかと」
でも、それは違いました。
「私たちは月希様の為に造られた存在。しかし、月希様が死んで、生きている意味の無くなった私の姉妹は次々に自殺していきました。私も皆と同じに死のうと思いました。しかし、どうも死ぬことができずに、長々と生きてしまいました。そこで、あの桜を見たら、どうにか死ねるだろうと思ってここに来たのです」
そこで、あなたと出会いました。
「余計に死ねなくなりました。とても楽しかったから。何気ない日常が。生きているだけでない日常が…」
広志。あなたが、
「あなたを好きになってしまったから。人形なのに、人間じゃあないのに。それでも、あなたの事が好きになってしまった」
でも、今私は死のうとしている。葉月と共に。
「恐らくこのままでは私は死ぬでしょう。葉月と共に」
死ぬでしょう。だけど、だけど、
「だけど私は…死ぬのが怖い。広志に会えなくなってしまうのが怖い」
私はアレだけ多くの人間を殺してきた。今、私が感じているのと同じ事を感じていた人間たちを容赦なく。一寸の感情もこめずに。ただただ義務的に、仕事として、殺戮を繰り返した。でも、こんな私にも、望んでいいのなら。願っていいのなら、
「…広志。あなたを愛しています。――だから、最後は隣で…」
隣で逝かせてください。広志はそう聞こえた。やれやれ、全く。長々と台詞を取りやがって。好きな女性にここまで言わせてしまうとは。告白する時は自分から、と決めていたのに。広志は破顔一笑した。
「本当に、まったく。俺が好きな女性を一人にさせると思うか?」
広志は少しキザだったか、と思いつつ、弥生に顔を近づけると
「―――一緒に心中してやんよ」
そう言って、弥生にキスをした。
「キスの味は大体フルーツと聞いたことがあるのですが…」
「ああ、血の味なんてロマンティックの欠片もありゃしない」
既に煙は収まり、葉月と弥生は戦闘体勢になっている。ちなみにだが広志もスタンバイしている。先程、煙が辺りを覆っていた頃、広志と弥生は作戦を練っていた。
「とりあえずだが、奴の弱点をいくらか挙げておく。まず第一に奴は『同じ音の武器』しか同時に使えない。さっきバズーカを撃つときに、銃撃が止まっていたからな。次に奴の武器は両手に集中しすぎている。寧ろ腕にしかないと考えてもいい。それ以外にもしあるとしたら、腹だな。まあ、後は力でねじ伏せろ」
そうして、いま弥生と葉月がにらみ合うような形になっている。
「さすが弥生姉、生きてたんだ。さっきのバズーカで殺せたと思ったんだけどな」
そう言って葉月は銃器の束を弥生に向ける。弥生も弥生でキッチリと刃を向けている。圧倒的に戦力差が違う。だが、それは今この時点での話。弥生は刀の柄の部分を自分の背中に押込む。
「『豪華剣乱真剣菖蒲』」
弥生がそう呟くと、背中から剣の花が咲く。それはまるで扇のように広がっていき、腕からは様々な凶器が出てくる。これが戦闘用枢『弥生』の本懐。遠距離専用の葉月に対して、接近戦を専用とする弥生の性能。いうならば彼女自体が一本の刀なのだから。
「え!今は血が足りないから、その姿になれないんじゃあ」
葉月は慌てる。それはそうだ。弥生が血液不足だからここまで余裕の表情を見せていたのだ。狭い空間の戦いだと圧倒的に弥生が強い。それを知っていた上で。だが、状況は一変した。先の爆発で広志の口は大いに切れていたのだ。口の中の血はなかなか止まりにくい。そして、弥生はその血を飲んでいる。微量だが、多少はあの状態を継続できるはずだ。
「いきますよ、葉月」
そして、戦いは再び始まる。今度は弥生が防戦一方などということは無い。大量の刃で弾幕の嵐を捌ききっている。ここから先は広志が入る隙など微塵も無い。それほどに戦いは壮烈で熾烈を極めた。弾かれる銃弾と、折れて弾ける刃。だが、今度は少しずつだが、弥生が距離を詰めていった。銃撃と剣戟の戦いはまるで映画を見ているようで、自然と広志は黙る。ついに弥生が葉月の目の前まで近づき、片腕を切り落とした。葉月は呻いたが、すぐにもう一方の腕で軌道を修正し、弥生の持っていた刀の一本を銃弾でへし折る。弥生は折れた刀を捨て、今度は二本の刀を取り出して、葉月に切りかかる。しかし、それは残っていた腕の銃器を盾にすることによって軌道を変えられる。銃器は切裂いたものの、葉月本体には当たることなく、地面に突き刺さる。しかし、葉月に武器はもう残っていない。弥生が刀を引き抜き、再び切りかかる。…いや、後一つ。
「終わりです」
「終わらないよ!」
そう言って、葉月から出てきたのは、大きな、まるで大砲とでも言うような大きな銃。取り出した瞬間、辺りが閃光に包まれた。爆音と共に熱がここまで伝わってくる。離れていた広志も目も開けれないまま吹き飛ばされる。少しして目を開けると、葉月の前が放射状に消えていた。更地、というのも申し訳ないほどに何も残っていない。葉月は勝ち誇ったかのように高らかに笑う。
「ふふ、あははははは!さようなら、弥生姉。怨まないでね」
と
「怨みませんよ」
空から声が降ってきた。その声は紛れも無く弥生。弥生は空中から葉月から伸びた大砲みたいな銃を串刺しにする。そのまま弥生は葉月から距離を置き、大きな銃は爆発した。 葉月が吹き飛ぶ。そして、壁に打ち付けられた葉月はかはっと呻き、顔を俯ける。静かに弥生は、葉月に近づいていく。辺りに散乱した銃弾と刃を踏みつけながら、近づいていく。ペキリ。ペキリ、と進んでいく。チェックメイトだ。王手とも言っていい。決着をつけようとする彼女等に、広志は近づいていく。先程のバズーカで負った傷の所為でゆっくりとしか近づけないが。弥生が立ち止まる。それは最後の攻撃。この惨劇に終止符を打つ、彼女等の最後の攻撃。二人の様子を横から見ている広志には分かる。これで終わる。いや、これで終わらせる、と。
「葉月、何か言い残す事はありませんか?」
弥生が肘を引くように刀を構え、突撃の構えを取る。さっき弥生は言っていた。彼女等人形には胸に核ともいえるモノが埋まっている。そこに傷を負えば、生きていられないと。広志は葉月の落とした拳銃を拾った。何の変哲も無いただの銃。そして、また歩き出す。
「俺には何も出来る事は無い。だからこそ…」
彼女等の最後の一撃。弥生は刀を突き出し……、葉月も落ちていた刀を突き出す。
「っはははは!一緒に死のうよ。弥生姉!」
――――ザクリッ
辺りに凄惨な音が響く。
「あああああああああ」
それは紛れも無く弥生の悲鳴。それぞれの二本の刀が体を貫いている。
「――ッ!広志!」
そう、広志の体を。
「――や、弥生。気をつけろよ。こんなに武器が落ちてるんだ。利用しない手は無い」
ゴフッ、と広志は口から血を吐き出す。見てみれば、いや見なくても体を二つの刀が突き刺している事が分かる。広志には葉月が密かに手元の刀を拾っているのを知っていた。だが、大きな声は出せそうにもないし、ましてやそれを奪い取る事も出来やしない。だから、だからこそ―
――広志は二人の攻撃を体で受けた
弥生を殺させない為に。そして、
「姉妹で殺しあうのは見てられないんだよ」
広志は弥生を見て、微笑む。弥生は今にも泣きそうな顔をしていた。
「おいおい、なんつー顔してんだよ」
「だって…、だって!」
広志は軽く頭を撫でてやる。すると、その時、涙が頬を伝って落ちた。弥生の涙。それを見て、広志はまた笑う。何だか安心した。
「おいおい、人形が泣いててどうするよ」
「…っく、泣いてなんか、いませ…ん、っく。そ、そんなき…機能な…んてぇ、っく、はいって、ません」
可愛いな、ちくしょう!広志はそう言おうとするのを必死に飲みこんだ。
「泣ける人形なんていないからな、お前は立派な人間だ」
そう言って、広志は葉月に向き直る。
「よう、妹!」
「馴れ馴れしく妹なんて呼ばないでくれる」
「いや、いいだろ。お前は弥生の妹なんだ。だから、俺の妹」
「このたらし!殺るならとっとと殺りなさいよ」
葉月は両手を上げて、もう抵抗しないという意志を見せる。そして、広志は先程拾った銃を葉月に向けて構える。
「ここからなら流石に外さないさ」
ハンマーを上げる。
「ごめんな。出来る事ならお前も救ってやりやかった。俺もあとでそっちに逝くから勘弁してくれ」
「ふん、死にぞこないの癖に。おこがましいわよ、…この、ばあかッ」
引き金を引く。ぱあんと弾けるような音がした後に葉月は行動を停止した。だが、しかし、葉月は最後笑っていたような気がする。勘違いだったら、非常に申し訳がないが。広志は葉月の刺されたほうの刀を抜く。すでに痛みの感覚はない。弥生も刀を抜いてくれた。血が大量に出ていて、感覚がないというのは非常にリアリティがない。広志が弥生の方に振り向く。すると、弥生は満面の笑みでこう言った。
「――桜、見に行きましょうか」
辺り一面に淡い桃色が広がっている。弥生は木にすがる様に座り、広志も弥生の肩にもたれるようにして、座っている。
「きれいですね」
「ああ」
弥生の言葉に広志は曖昧な返事を返す。というのも、既に広志にはほとんど何も見えていなかった。見えるのは、ほんの少しの青と桃色と、そして弥生。
「ああ、でも」
「…?広志、何ですか?」
「…幸せだな。って」
広志は手を伸ばす。その手の上にひらひらと桜の花が落ちた。それ、見ながら、広志は思い出した。まだ、大事な事を伝えていない。
「なあ、弥生」
隣を見ると、弥生は目を閉じていた。広志は桜の花を持った手で弥生の手をしっかりと握り締める。もう少し、もう少し待ってくれ。
「……弥生」。
ああ、幸せだ。本当に。本当にお前と出会えてよかった。弥生、弥生!
―――愛してる
――桜が咲くには少し早い三月、弥生の物語。