親指
流血表現と、人によっては不快に思われるであろう表現がありますので、苦手な方はご注文ください。
無意識のうちに、また爪を噛んでいた。
我に帰って、慌てて口許から手を遠ざける。見ると、一昨日爪を切った時に綺麗に重ねた淡青色のマニキュアが少し、剥がれていた。
爪を噛むのは自傷行為の一種だと聞く。親の愛情不足などの、欲求不満から来るのだという。
思えば小さい頃からずっと、爪を噛む癖が治らない。たまに気まぐれで伸ばしてみても、結局は我慢できなくなって歯で剥ぎ取ってしまう。伸ばして手入れされた爪は美しいが、それよりも先端を毟り取られた爪の残骸の、傷ついた醜さが好きだった。
艶々とした爪をじっと見る。
自傷行為。愛情不足。欲求不満。
にぃ、と口許が歪む。ざまあみろ、と思った。
お前のためだ、と。
お前をここまで育ててやった、と。
お前を育てるのに金がかかった、と。
恩着せがましく、善人面した偽善者の――その、無能の証明がこの爪だ。あれが真実できた親なら、何故その子供が自傷行為に走るのか。
――ざまあみろ。
淡く輝く爪を口に含む。まずは左の中指から。
端のほうから歯を立てて、そのまま噛み切る。浮いた部分から指で毟り取った。指先には、半分ほどの大きさになった爪の残骸が残った。
同じ要領で他の指も剥いでいく。順番は適当だ。だが、親指は最後だ。
一番堅くて大きな爪。ここを剥がすのが一番愉しい。
他の指の爪を全て毟って、右の親指に歯をつける。前歯で挟み込んで、ぐいと引いた。
――べりん。
微かに微かに、厭な音を起てて。
酷く痛い。親指を見ると、爪が根元から剥がれていた。血が出ている。
どんどんどんどん血が溢れて、腕を伝って落ちていく。思わず悲鳴を上げた。
血が止まらない。着ていたセーターを押し付けても、やはり血はどんどんどんどん溢れてくる。酷く怖くなって、ぐいぐいと指の付け根を縛り上げ、手を頭の上に上げると、しばらくしてようやく止まった。
ふう、と安堵の息を吐いて、手当てをしようと立ち上がる。
――親不孝者。
声がした。
だが、辺りには誰も居ない。気のせいだろうか。
――親不孝者。親不孝者。親不孝者。
二、三歩前に出たところで、また声がした。今度は気のせいではないと確信した。
親指は放って、家の中を探し回る。しかし何処にも誰も居ない。
――親不孝者。
声はするのに。
――親不孝者。
諦めて親指の手当てをしようとリビングに戻りかけて、ふと傷ついた指を見た。そして思わず、なんだこれは、と声を上げる。
爪が在った場所。今はえぐれて赤く染まっている――はずの所に、ぽっかりと昏い穴が空いていた。
――親不孝者。
そこから声が聞こえる。気持ちが悪い。
――親不孝者。
親不孝者親不孝者親不孝者――。
穴の中からするりと白いものが伸びてきた。悲鳴を上げてのけ反る僅かの間に、それが腕であることを確認していた。
――親不孝者。
するりと穴をすり抜けて、白い腕が迫る。逃げだそうとしたが、自分の指から離れることなど出来はしない。
ぬたぬたと絡み付く腕に悲鳴を封じられ、昏い穴の中に引きずり込まれる。――自身の親指の中へ。
◆
無人のリビングに置かれたテーブルの上に、青く塗られた爪の破片が八、並んでいる。少し離れた所には、綺麗に形を留めた瓜型の爪が一枚落ちている。それらは窓から吹き込んだ風に飛ばされて床に転がった。
家にはもう、誰も居ない。
こんにちは。
最近マニキュアをよく買うのですが。
今日、自分の爪を見ていて思い付いたネタです。例によって例の如く、怖くないかもしれません。
誤解を招くと困りますので一応お断りしておきますと、「爪を噛むのは自傷行為」というのは全てではありません。ただの癖という方や、ストレスたまって噛んじゃうという人も居ると思いますので、くれぐれも真に受けないでくださいね。
今度は可能な限り人称代名詞を用いないようにして書きました。気持ち悪さが出ると良いなと(汗)
前回に引き続き、一応ホラーです。
ご意見お待ちしています。
ありがとうございました!