王子殿下は今日も『離縁条件三つ』に追い詰められている。
「殿下、あの女とは早急に離縁を」
低く押し殺した声が、重厚な書斎に落ちた。
机を囲む老臣たちが、代わる代わる同じ言葉を繰り返す。
「国庫を食い潰す浪費家にございます」
「あのような悪女を次期王妃に据えるなど、国の恥」
「民の血で宝石を買い漁るとは、言語道断でございます」
王子は露骨に不快を滲ませながら、息を吐いた。ここ数ヶ月、このやり取りは何度目かも分からない。しかしながら、重臣達の言葉は間違っていない。
ローズマリーは、躊躇なく金を使う女だ。身の回りの物は、王都でも指折りの一流品を躊躇なく取り寄せ、その額も無視できるものではない。
(それだけなら、どれほど楽だったか)
こめかみを押さえながら、王子は思う。ローズマリーはただの浪費家ではない。むしろその逆だ。
宝石を買い集めてはより高値で流し、得た金を貧民街へと注ぎ込む。誰にも知られぬように。いや、隠す気があるのかどうかすら分からない形で。
派手に金を使いながら、肝心なところは何も語らない。問いただせば、ただ微笑むだけ。その笑みが、どうしようもなく腹立たしい。
「殿下、決断の時かと」
宰相が一歩進み出る。その静かな声には、この場の総意が乗っていた。
王子は一度、目を閉じる。脳裏に浮かぶのは、あの夜の光景だった。
政略で決まった婚姻。形だけの夫婦になるはずだった初夜。ローズマリーは、妙に落ち着いた様子で告げた。
『約束を三つ、よろしいですか』
淡い灯りの中で浮かぶ微笑みは、逃げ場など最初からないと知りながら、なお選択を委ねるような顔をしていた。
『一つ、私が民にあぐらをかいたその時、即座に王子妃の座を退きます』
静かな声だった。だが、不思議と逆らえなかった。
『二つ、私の行動に理由を求めないでください』
理解不能な条件だった。それでも、なぜか拒めなかった。
『最後の一つですが』
一歩だけ近づいた彼女から、甘い香りがかすかに漂う。
『殿下が私を信じられなくなった時、その場で離縁を』
その目は、微笑んでいなかった。ただ真っ直ぐに、こちらを射抜いていた。
(随分と面倒な女だ)
そう思うはずなのに、気づけば離縁する理由ではなく、離縁しない理由を探している自分がいる。
「殿下」
呼びかけに、王子は目を開けた。老臣たちの視線が一斉に突き刺さる。期待と確信、そして苛立ち。
彼らには分からない。あの女が何をしているのか、何を考えているのか、そしてどれほど危うい存在なのか。
「証拠を持ってこい。彼女が国を害しているという、明確な証拠を」
静かだが、拒絶の余地はなかった。老臣たちは言葉を失う。
当然だ。表面だけならいくらでも非難できるが、実態を掴めている者は一人もいない。
——俺ですら、掴めていないのだから。
「⋯では、その証拠とやらが出るまで、我々は何もせず見過ごせと?」
宰相が食い下がる。
「民はすでに困窮しております。物価は揺れ、流通は乱れ始めております」
「原因が妃殿下にある可能性がある以上、手を打つべきかと」
正論だった。だからこそ重く、王子が答えず視線を落としたその瞬間。
「それでは」
静かな声が、扉の方から差し込んだ。振り向いた先に立っていたのは、ローズマリーだった。場違いなほど整った装いのまま、穏やかに微笑んでいる。
「お聞きいたします。宰相閣下」
彼女はゆっくりと歩み寄る。
「先ほどのご提案、流通の監査および規制強化。極めて妥当なものと存じます」
あっさりと認める言葉に、場がわずかに揺れた。
「ただし、本件を政策として採用なさるのであれば、責任の所在を先に定めていただく必要があります」
「⋯責任、ですか?」
「規制により発生する供給停滞、価格高騰、並びに局所的欠乏。そのすべてを、どの部署が引き受けるのか」
一拍置き、淡々と続ける。
「当然、欠乏による死者が万が一出た場合、宰相閣下のご責任でよろしいのですね?」
「それはあまりに極論です妃殿下!」
「いいえ、政策は意図ではなく、結果で全て評価されます」
静かに断言する声が、逃げ道を塞ぐ。
「そして規制は、必ず遅れを生みます。その遅れの間に零れる命がある。それを、誰が引き受けるのかと申し上げております」
宰相は何も答えないまま、老練な表情にわずかな綻びが走る。
王子は理解する。これは議論ではない。決断そのものを突きつけている。
「なお、本件に関してはすでに調整済みです」
視線が宰相を射抜く。
「同等以上の成果を遅延なく担保できるのであれば、そちらの案を容認いたします」
「⋯⋯現行のままで、問題ありません」
絞り出すように宰相が呟いた。敗北を認めたわけではない。ただ、それ以上何も言えなかった。
王子は椅子の背に体を預け、浅く息を吐く。勝敗は明白だ。ローズマリーの完勝だった。
だが、本当にこれで良かったのか?
理屈は通っている。結果も出ている。それでも、胸の奥に引っ掛かるものが消えない。
視線を上げると、ローズマリーは変わらず微笑んでいた。
「ローズマリー」
「はい」
「先程の話だが、お前の言う調整済みとは一体何だ?」
王子は逃げ道を断つように、真正面から問いを突きつけた。言葉の余地も、曖昧さも残さない踏み込みだった。
だがローズマリーは、その圧を受け止めるでも弾くでもなく、ただほんのわずかに首を傾げる。まるで意味を測りかねているかのような、あるいは最初から答える気などないかのような、曖昧な仕草だった。
「殿下、二つ目の約束を、お忘れですか?」
「ああ、覚えている」
「ならばこれ以上の戯言は必要ないではありませんか」
「では別の話だ。お前の支出について、国庫に影響を与える規模で動いている。それを俺は看過できん」
「それは、一つ目の約束を私が守っていないことになるのでしょうか?」
「違う。これは統治の問題だ。お前が何をしていようと構わない。だが、見えない形で国を動かすことは許さない」
言葉が落ちたあと、室内にはすぐに音が戻らなかった。
誰もが次の言葉を探しながら、それでも誰一人として口を開けない。視線だけがわずかに揺れ、沈黙は重さを増していく。
しばしの沈黙の後、その空白を埋めるように、ローズマリーは一歩だけ距離を詰めた。
「殿下は結果を与えれば満足していただけますか?」
「どこまでの結果だ?」
「殿下が許容できる範囲でございます」
「ならばその結果で判断する。ただし、それが国として許容できないものであれば、分かっているな?」
「重々、承知しております」
静かな頷き。そして、ほんのわずかな笑み。その笑みが妙に引っかかった。
勝者の余裕でも、安堵でもない。
(知っていたのか)
最初から、この流れを。いや、それだけではない。
喉の奥に、苦いものが残った。選んだはずなのに、選ばされたような感覚だけが残る。
「⋯ローズマリー。お前は、俺が離縁を切り出すと思っていたのか?」
「いいえ。なさらないと分かっておりました」
迷いのない即答だった。
あまりに躊躇のない声に、王子は一瞬だけ言葉を失う。やがて小さく息を吐き、口元を歪めた。
「やはりお前は面倒な女だな」
「ええ、よく言われますわ」
沈黙が落ちる。だが、先ほどまでの重さはもうない。
理解はできない。それでも、目が離せない。その事実だけが、静かにそこへ残っていた。
こうして王子は今日も、妻との三つの約束に縛られている。
それは離縁の理由ではなく、離縁できない理由として。
そして、その約束の本当の意味を彼が知るのは——まだ、ほんの少し先の話である。
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