断罪の夜と廃都への左遷 #003
灰色の夜が明け切らぬうちに、馬車は谷底の濃霧へ沈んだ。
エリシアは幌を跳ね上げ、外気を吸い込む。湿った冷気が喉を絞め、微かな腐臭が肺へすべり込んだ。風は南東から流れ、その度に気温が二、三度上下する。地熱孔の吐息が不規則に行き交う証拠だ。
霧の奥に石造門が姿を見せる。片側は崩れ、尖塔は半分で折れていた。門扉の鉄は赤錆をまとい、蝶番が風に泣いている。
馬車がくぐると、路面が柔らかく沈む。石畳の下が空洞になり、靴底が水を吸った音が鈍く響く。
エリシアはしゃがみこみ、指で土をすくった。粒は細かく、湿りは深い。
「バランスがいい。堤防素材として申し分ないわね」
独白を吐き出すと同時に HUD が淡青の計測窓を開き、含水比と養生時間をはじき出す。
《含水率42% 推定締固め回数12》
数字はいつだって味方だ。
霧が薄くなると、遠くで無数の屋根が焦げ茶の影を並べた。瓦の途切れた部分から、白い蒸気が細く立ち昇る。地下で地熱が漏れている証左。
「……街じゅうが大きな蒸籠ね」
自嘲気味のつぶやきが霧へ揺れた。
この領の三本川の内、二本は干上がり、残る一本も流量が不足している。霧の向こうに見える石橋の残骸が、かつての栄華と現在の荒廃の狭間にぽつりと浮かんだ。
「これも使える。無駄なものは一つもない」
エリシアのHUDは再点灯し、橋脚の強度推定値を算出する。
《残存石材強度87% 再利用可能》
すべては数値化され、都市の血管となる。
●
同時刻、瓦礫と広場の境に立ち尽くす若い石工マーカス・ラドクリフは、霧を裂いて進む馬車を睨みつける。
黒い外套に泥の斑点。指には薄い石灰がこびりつき、爪は白く欠けている。膝に当たるポケットには石工の槌が重く沈む。父の形見だ。
「新しいお飾り貴族か。追放令嬢ってのは珍味だな」
隣で老婆が咳き込みながら答える。
「三日ともたんよ。前任の代官は二日で泣き返した」
「賭けようか、婆さん。俺は一日と見た」
苦笑を交わす間にも、馬車が停まり、赤いドレスの令嬢が霧を踏んだ。
エリシアは浅い礼を取る。
「領民代表の方は?」
マーカスが腕を組み、肩を張る。
「俺だ。マーカス。歓迎はしないが案内くらいはしてやる」
「案内はいらないわ。あなたの時間を買いたいの。三か月後、領の帳簿を黒字にする。その賭けに乗る?」
広場にざわめきが走る。
「黒字だと?」
「……三か月で?」
「でたらめだ!」
粗い手の農夫が声を張り上げる。
「十年前から税収は底を打ったままだぞ」
「けど何もしなけりゃ死ぬだけさ」
店の前掛けを巻いた肉屋の親父が拳を振る。「賭けに乗ってみようぜ」
「母さん、黒字って何?」
少女の細い声に、母親は黙って肩を抱いた。
マーカスは鼻で笑い、手を突き出した。
「賭け金は?」
「あなたの命と、この街の未来」
掌が空を裂くほど勢いよく閉じ、摩擦で鳴った音が霧にこだました。
「いいぜ。負けたら俺の命くれてやる。勝ったら?」
「一緒に街を創ろう。それで十分よ」
(貴族が「一緒に」なんて言葉を口にする日が来るとはな。どうせ嘘だろうが……)
マーカスの思考が揺れる間に、背後で老婆の咳が止まり、群衆の息が潜る。霧が風に切り裂かれ、瓦礫の町並みが朝焼けに薄紫の輪郭をあらわした。
●
旧総督府の廊下は、湿気で膨れた木床が軋むたび埃を吐き出す。天井からは古い雨漏りが茶色く筋を引き、壁の角では緑黒い苔が膝高まで這い上がっていた。
足元を小さな甲虫が横切り、腐った床材の隙間に消えていく。潮の香りと杉の腐臭が混じった匂いは、この建物自体が朽ちていく証だった。
エリシアは壁一面の帳簿棚を調べ、背表紙の革を剥がしながら数字の川を泳ぐ。指先で追う計算式には欠落があり、補筆痕もちぐはぐだ。下級貴族の私費流用と、王都への賄賂。書類が捏造を物語っていた。
金貨、銀貨、銅貨。歳入の列は断続的に欠け、出費の列だけが太く濃い。
「これが十五年分の出納? 最期は墨までケチったのね」
薄笑いがこぼれる。
修繕費と称して王都へ流れた金額は、公式記録の四倍。小役人が私腹を肥やし、街を餓えさせた痕跡が赤錆のようにべっとり貼りついていた。
背後で床が鳴る。マーカスが肩越しに覗き込み、無遠慮にページを弄る。
「横領の山か。驚きはしない。貴族ってのは腹黒い生き物だろ」
「なら貴族の腹を利用するまで」
エリシアは帳簿を閉じ、付箋を三枚差し込む。本棚に戻すと、乾いた木の轟音と共に書架の一角が傾き、砕けた板材が床に散った。
「明日の正午、広場で臨時評議を開くわ。治安、財務、農工ギルドを集めて」
「人を動かすカードは?」
「減税と、仕事と、未来」
冷たい声に、マーカスの眉が僅かに揺れた。
エリシアはその揺れを見逃さず、一歩踏み込む。
「あなたの父親が作りかけた南川の石橋、再開するわ」
マーカスは息を呑んだ。拳に残る石灰がこぼれ、床板に白い雪を落とす。
窓の向こうで蒸気孔から湯煙が弾け、白い柱が空へ伸びた。熱と腐臭を抱えた街が、かすかな鼓動で生きている。雨漏りの水溜まりに反射した光が、帳簿棚に虹色の影を描いた。
エリシアは手帳に一行走らせる。
『失敗よ、どうか輝け』