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前世の終わり、悪役の始まり



 青木葵(あおきあおい)はコーヒーカップを空にし、目を細めてホログラム画面をにらむ。壁際から床まで一面に広がる立体都市モデルが宙に浮かび、無数の数式とグリッドラインが網目のように揺れている。


「あと三パーセント……少し、もう少しだけ」


 掠れた声で呟き、彼女は薬指でグラスパネルを弾いた。表示が切り替わり、巨大なカウントダウンタイマーが目を刺す。


《実証実験開始まで残り47:22:15》


「スマート・リジェネレーション」


 崩壊しつつあるインフラと人口減少に直面した日本政府が最後の望みを賭けた、次世代都市再生プロジェクト。その中核AIアーキテクトとして、葵は三年間ほぼ休みなく働き詰めだった。


 東京大学都市工学科から米国MITのデジタル・アーバニズム専攻へ。博士号取得後、彼女は「ネオ・バンコク復興計画」で国際設計賞を受賞し、南米大地震後の三都市再建にも携わった。わずか28歳で、すでに第一級の都市計画士として名を馳せていたのだ。


 彼女のスマート・リジェネレーションは単なる建物配置ではない。人の流れ、水と電力の流通、文化的交流点まで有機的に設計できるAI都市システム。このプロジェクトの成否は、日本全土の未来を左右する。


 葵は乾いた唇を舐め、モデルの細部を確認する。左胸に鈍い痛みが走ったが、無視した。一時的な筋肉痛だろう。


 AIが自動修正した配管図を拡大し、蛍光色のエラー部分を手動補正する。地下水路と高圧電線の交差部は、人の手で最終調整が必要だった。


「失敗は肥やしだから……どうか輝け」


 口癖のように唱えながら、コンソールに打ち込む指先に力を込める。


 通知音が響き、メッセージウィンドウが浮かんだ。


《青木、もう休め。過労死しても責任とれんぞ》


 同僚の山下だ。葵は軽く微笑み、返事はせずにウィンドウを閉じる。


 そのとき、左胸の痛みが急に強まった。突き抜けるような激痛に、彼女はキーボードに手をついた。呼吸が浅くなり、視界が灰色に染まる。モニターのカウントダウンが重なったかと思うと、数字が二重、三重に揺らめき始めた。


「あと、少しだったのに……」


 モニターから顔を上げようとする瞬間、心臓が悲鳴を上げた。暗闇が彼女を飲み込み、手が滑るように宙を舞う。コーヒーカップが床に落ちる音と、自分の体が椅子から転がり落ちる感覚が遠のいていった。



 時間と空間の概念が失われた虚無に浮かぶ感覚。


 青い光と暗闇が入り混じる奇妙な領域で、意識だけが漂う。過去の記憶が断片的に流れる。幼い頃に父と見た東京の夜景。大学で初めて設計した模型都市。就職祝いの花束。そして、最後までデバッグできなかったAIの顔。


 記憶の流れは予想外の方向へ向かう。疲労が極限に達した休憩時間に逃避のように没頭していたVR乙女ゲーム『ローゼン・コロナリア』。そこでβテスターとして攻略していた悪役令嬢の姿が、異様に鮮明に浮かび上がる。


「ああ、エリシア・フォン・アークライト」


 傲慢だが才気あふれる公爵令嬢。婚約者を聖女リリィに奪われ、嫉妬から悪行を重ねるバッドエンドルートの主人公。最終的には断罪された後、辺境領で孤独死するという結末。


 葵の強すぎる願いが光の粒子となって凝縮し始めた。


 「未完の作品を残して死ねない……。あのシステムもエリシアも、終わらせなきゃ。理想都市をこの手で」


 その執念が奇妙な渦を形成し、意識が吸い込まれていく。一瞬の閃光と共に、青木葵の存在は異世界へと引き寄せられた。



 朝日が高級なレースのカーテンを通り抜け、顔を優しく照らす。


 天蓋付きの豪華なベッドに横たわりながら、彼女は混乱した様子で天井を見つめる。


「私は……誰?」


 呟いた声は耳慣れない少女のもの。脳裏に二種類の記憶が渦巻く。一方には都市設計者・青木葵の二十八年分の人生。もう一方には金髪碧眼の貴族令嬢・エリシア・フォン・アークライトとして生きた十二歳までの記憶。


 頭の中で二つの人格がぶつかり合う。青木葵の冷静で分析的な思考回路と、エリシアの傲慢さと気位の高さ。前者は常に最適解を求め、後者は権威と美を重んじる。相反するはずの二つの性質が、不思議と矛盾なく融合していく。


「いいえ、私は青木葵でありエリシアでもある」


 激しい頭痛が走るが、二つの記憶が少しずつ同期していくのを彼女は感じた。それはまるで、新しいデータベースを構築するプロセスに似ていた。


 彼女はゆっくりと上体を起こし、部屋を見回した。絹のドレープ、大理石の暖炉、壁には紋章入りの盾――折れたコンパスと芽吹く蔓のデザイン。青木葵は知らないはず。でも前世の建築感覚からすると、洗練された美しさがある。


「お嬢様、おはようございます」


 ドアが開き、茶色の制服を着た侍女が入ってくる。


 視界の隅に不思議な文字が浮かんだ。ディスプレイスクリーンのような透明な青色の文字盤。


 《対象:ミラ・ハーウッド/親密度47%/忠誠度83%/健康状態96%》


 思わず手を伸ばすが、文字はさっと消える。集中すると再び浮かび上がる。そして侍女の後ろの壁にも数値が表示された。


 《構造強度89%/素材:白亜石灰岩/築年数217年/耐震係数C+》


「Neuro-Display Version 3.8.α」


 葵が開発していたUI設計と酷似している。しかし情報量は比較にならない。彼女の視覚野に直接データが投影されているようだ。


「お嬢様? どうかなさいましたか?」


 侍女の声に我に返り、エリシアはゆっくりとベッドから立ち上がった。鏡台へ向かうと、そこには知らない少女の姿。金色の巻き毛と碧眼の整った顔立ち。これが今の自分だ。


 彼女は思考で命令を送る。


 「スキャン・ディープ」すると、鏡に映る自分の骨格まで透けて見えた。「メジャー・ハイト」で身長数値が浮かぶ。「クイック・アナリシス」で健康状態が詳細に表示される。


 彼女は窓へ駆け寄り、外の景色を見た。アルシオン王国の首都・ベルフォードの全景が広がっている。肌で感じる重力、空気の匂い、光の角度――全てが現実だった。


 瞬間、都市全体に無数の青いラインが走り、数値とグリッドが覆いかぶさる。彼女は思わず叫んだ。


「素晴らしい……!」


 驚いて駆け寄る侍女を背に、エリシアは興奮を抑えられなかった。今まで触れたこともないほど詳細な都市データが視界に広がる。区画ごとの人口密度、建物の耐久性、水路の流量、そして――致命的な欠陥箇所。


「これが私のチートなのね」


 転生者としての自覚が芽生えた瞬間、前世のゲーム知識が鮮明に蘇る。この世界で自分は悪役令嬢。六年後の舞踏会で、聖女リリィに婚約者を奪われ、王太子から断罪され追放される運命だ。


 それは原作ゲームでは悪役令嬢の崩壊ルートだった。彼女の記憶では、エリシアは断罪後、辺境領リバーサイドで失意のまま病死するエンディングだ。エリシアの性格は横柄で冷酷。そして自身の才能を認めない社会への怒りで駆動するタイプだった。


「なるほど。だから私がこの役に選ばれたのか」


 前世の自分も、既存の都市計画に不満を持ち、理想を追求していた。エリシアの情熱と青木葵の技術が融合すれば――。


 「悪役令嬢」という立場は、むしろ絶好のチャンスになる。追放されるという"運命"を前提に、その先に理想都市を構築する。前世で果たせなかった夢を、この世界で実現できる。


「お嬢様? 本当に大丈夫ですか?」


 侍女の心配そうな声にエリシアは優雅に微笑んだ。


 「ええ、ミラ。いつになく素晴らしい朝よ。今日から少し勉強を増やしていただきたいの」


 そう言って彼女は、かつてないほど優雅に微笑んだ。



 エリシアは書斎に籠もって能力開発に励んでいた。


 壁一面の本棚から取り出した古地図と建築書を広げ、彼女は王都の構造データをせっせと記録していく。王宮、河港区、商業街、裏路地に至るまで、全てがHUDを通して数値化され、分析できる。


「こんな能力、前世でも欲しかったわ」


 しかし長時間の使用には代償があった。HUDを三時間以上連続で稼働させると、脳に熱が篭り、前世の記憶が少しずつ霞んでいく。


 最初に消えるのは些細な記憶。子供の頃の遊び、学生時代の友人の顔、フレンチレストランの味……。だが彼女にとって最も重要な都市設計の知識だけは、必死に守り続けていた。


「取捨選択が必要ね」


 鉛筆を手に小さく計算し、彼女は決断する。HUDの使用は一日三時間まで。それ以上は前世の記憶を犠牲にしかねない。失いたくない記憶を優先順位付け。母の顔、父の声、そして都市設計の専門知識。


エリシアは高価な羊皮紙の手帳を開き、新たな信条を記す。


 『失敗よ、どうか輝け』


 彼女は計画を立てた。


 既に「悪役令嬢」というレッテルは回避不能だ。むしろその役割を逆手に取る。断罪は受け入れる。辺境追放も歓迎する。むしろ、そこが理想の実験場になる。


「貴族社会では嫌われても、都市が好きになってくれれば十分」


 彼女はそう宣言し、計画の第一歩を踏み出した。入手できる限りの資料と土木技術書を収集し、前世の知識を活かした魔導工学の研究。リバーサイド領の資源・地形・人口動態の予備調査。さらには追放後に必要となる協力者のリスト作成。


 運命に抗うのではなく、運命の後に自分の道を拓く――それが彼女の戦略だった。


 月日は流れ、エリシアは十五歳になり、十六歳になり、そしてついに十八歳となった。貴族社会では才媛として名を馳せつつも、「傲慢」という評価は覆すことなく、むしろ「天才の横柄さ」という評判が定着していた。


 そして運命の王宮舞踏会の日。彼女は真紅のドレスを身にまとい、手帳に最後の言葉を記した。


 「リバーサイドで待っている。必ず辿りつくわ」


 エリシアは鏡に映る自分を見つめ、微笑んだ。


 「さあ、本番よ」


 断罪式の予行演習は何度も頭の中で済ませてあった。彼女は荘厳な足取りで部屋を後にし、舞踏会場へ向かう。今夜、彼女は悪役令嬢として断罪される。それは彼女にとって、真の物語の始まりに過ぎない。

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