プロローグ「夢からの目覚め」
眩しい……。
せっかく親睦を深めあった勇者と悪の女王を倒せそうだったのに……。
微細な隙間からでも容赦なく入ってくる陽ざしは、いつも決まっていいタイミングで夢を終わらせにくる。
「起きたか?」
朧気な夢の無音の声とは違い随分と聞きなれた声で語りかけてくるのは、僕の大好きな人参ポタージュをゆっくり混ぜてくれている兄さんだ。
「………ん」
「ここ、置いてるからな」
「……んぁりがぉ……」
どうやら久しぶりによだれが大量に生成されていたようだ。夢を見た後、ほとんどの確率でそれがこぼれ出てしまうが、いつも忘れてしまう。次こそはちゃんと対処しよう。
まあそんなことはさておき今日もいい匂いだ。僕は毎朝嗅ぐこの匂いなしではやっぱり生きていけないだろう。
「ぃだあきあす」
唾を飲み、未だ視界がぼけながらも匙を取った。
ふと隣の部屋に行った兄を見ると何やら荷支度をしているらしい。
街に行くのだろうか。
買い出しか。
それともあの娘か……。
「兄はぁん、どっあ行くぉ?」
口に熱々のポタージュを含んでいたが、それはお構いなしで兄さんに尋ねた。
「買い出しと野暮用で少し街へ出かけてくる。世話はレスタさんに任せているから、ちゃんと礼を言っとけよ。日が暮れるころには帰るからな」
「はぁーい」
買い出しと“野暮用”……。
聞きたいことがもちろんあったが、それはあえて聞かないであげようと心の中で呟きながら軽い返事をした。
「何か欲しいものあるか?」
「ん~……特にないかな」
「そうか、じゃあ行ってくる」
この僕の返答に兄さんは、どこかもどかしさを隠しているような隠していないような表情を浮かべ、そう言って街へ出ていった。
その原因は以前の同じ問いかけに、魔術書が欲しいと返事をしてしまったことだろう。
家からあまり出られず、天井の木目の座標までを覚えてしまっていた僕は過ぎ行く日々がとにかく退屈だった。兄さんは村の仕事や街への買い出しでたまにしか遊べないし、レスタのおばさんも家畜の世話や育児で大変そうだった。
物心も芽生え、なんとなく遠慮という言葉を知ったそんな僕に例のあの娘はとあるブツを見せてきた。
“本”だ。持っていたものは何やら難しい内容であったらしく、彼女はその中の“魔術起源論について”を僕に読み聞かせてくれた。
僕は魔術についてある程度知識もあるし、兄さんが行使しているのを時々見たことはあったが、彼女の言っていることはさっぱりわからなかった。
しかし、その不可解さ故にこの胸はときめいたのだ。
そして、あの問いにそれまで答えていた“大きな人参”を差し置いて魔術書が欲しいと返事をしてしまったのだ。
初めて違う答えを聞いた兄さんはわかったと頷いてくれたが、持って帰ってきた手土産はいつもの大きな人参だった。
そう、魔術書は高級品だったのだ。
確かにあの娘から見せてもらうまでは村の人たちがそんなものを持っているのを見たことがなかった。
その当時の無垢な僕は、買えなかったと素直に謝る兄さんに子供のように文句を言ってしまった。
なんで買えなかったのか?
本当に街に行ってみてきたのか?
何のために街に行ったのか?
僕のことはどうでもいいのか?
僕はみんなみたいに動けないから毎日退屈なんだ
買えなかったならあの娘からもらえばいいじゃないか
そんなものなんかいらない
こんなことを言った僕に兄さんは口を閉じてそこに立っているだけだった。ただ最後僕に謝った。
兄さんが部屋を出ていった後、全身を何かから隠すように毛布にくるまって涙を流した。涙を流して、流して、流して、流し切って僕もごめんなさいと誰かに謝った。
少し腫れた目をこすりながら起きた次の日もやっぱり兄さんは優しかった。
足が思い通りに動かなくなった僕の面倒を見てくれたし、僕が用を足したくなった時も文句ひとつ言わずに運んでくれた。僕が窓にくっついた虫を見ていたら、捕まえてきて近くで見せてくれて、村の人たちにもたくさん合わせてくれた。
そんなことを思い出して、気が付けばずっと玄関の扉を見つめていた。
「いつか一緒に街に行きたいな…」
そう呟いて僕はまた寝台で横になった。
朝の陽ざしは改めて照らされると心地よい。
これはもうひと眠りできそうだ。
「…」
「……」
「…………」
「………………」
「………………」
「………………」
「……ために………」
「…………う……し…て…?」
「……………」
「…………」
「……………」
「……………」
「我………を………捧げ………」
「……………」
「……………」
「……………」
「……………」
「………ん」
_______この匂い、何だ?
「あ!やっと起きた!」
天真爛漫な笑みを浮かべ、やけに甲高い声で話しかけてきたのは、名も顔も知らない一人の少女であった。