60.「君を愛することはない」と言いましたよね?前言撤回はナシです。
カインの後に付いて、王宮で用意された部屋に向かっていると突然背後から「ティア!」という懐かしい声がした。
振り向かなくても誰か分かる。ティアの目の奥が急に熱くなり視界がぼんやりとかすんだ。
(泣いちゃダメ!)
ティアは自分に言い聞かせる。
その場にいるのはカインだけじゃない。
視界の端に赤毛の侍女が廊下を歩いているのが見えた。
あれは確か王妃付きの侍女だ……サイラスを殺そうとして女に毒を渡した……。
絶対に自分の気持ちを出してはいけない。
ティアは涙が乾くのを待って、ゆっくりと振り返った。
そこに立っていたのはやはりサイラスだった。
たった数日会わないだけで彼の様子がすっかり変わってしまったのが分かる。
プラチナブロンドの髪は乱れ、顔は窶れて目の下の隈も酷い。
服もしわくちゃになっている。
胸の奥にどうしようもない愛おしさと苦しさが生じるが、絶対にそれを表に出さないように上品な笑顔を作った。
「サイラス様! ご無事で何よりです! お加減はいかがですか?」
明るく問いかけると、サイラスの顔が苦しそうに歪んだ。
「……っ、ティアっ、君は……」
サファイアのような透明で蒼い瞳から涙の粒がぽろぽろと溢れて頬を伝う。
ティアは彼の顔を見ていられなくなって、彼の頭の上に視線を移動させた。
「サイラス様、大変申し訳ございません。私はロバート王太子殿下と結婚することにいたしました。とても頭の良い優しい方です。国王陛下によるとアスター伯爵夫人は事故死したことにするそうです。ですから、どうか私のことはもうお忘れください」
「そんなことっ、できるわけないっ!」
絞り出すようにサイラスが叫んだ。
悲痛な叫びにティアの胸は張り裂けそうになった。
ごめんなさい、許して、どうかあなたが幸せになりますように、とティアは願う。
「サイラス様には心から感謝しております。私のような薄情者のことは忘れて、どうか素敵な方を奥方にお迎えください」
心が辛くて、切なくて、苦しくて悲鳴をあげていたけれど、ティアは笑顔で言い切った。
そして、自分の想いの深さを悟る。
(サイラスのことをずっと好きだった。本当の妻にして欲しかった)
「愛してるんだっ! ティア!」
振り絞るようにサイラスが叫んだ。
(……欲しかった言葉がこんな時に得られるなんて。私も……私も愛しています、心から)
しかし、口に出すわけにはいかない。
ティアは残酷な笑みを顔に浮かべた。
「『君を愛することはない』とおっしゃいましたよね? 前言撤回は受け付けません」
「うっ……」
サイラスが言葉に詰まったのが分かった。その隙にカインに目で合図をして足早に自分達の部屋に向かう。
急いで扉を開け、カインに笑顔で別れを告げた。
扉の鍵が閉まっているのを確認した後、寝台に飛び込んだ。
そのまま顔を枕に押しつけて声を殺して泣きじゃくった。
後から後から涙が溢れてくる。
愛おしいサイラスの声が今でも耳に残る。
あんなに必死で愛を告白してくれたのに……。
『愛してるんだっ! ティア!』
嬉しかった。とても。
「私も!」と叫びたかった。
それができないことは分かっている。
枕に顔を埋めて泣き続け、知らぬ間に眠ってしまっていたらしい。
目が覚めると寝台の脇の椅子にロバートが座っていた。
「お、目が覚めたか?」
「……えっと……」
口ごもるティアに、ロバートは優しく微笑んだ。
「起きなくていい。カインから聞いた。サイラス・アスター伯爵と会ったんだって?」
思い出したら再び涙が滲んできたので、掛布団を頭から被って蹲った。
「……ティア、大丈夫かい? どうする? 結婚を取りやめる?」
ロバートの声は遠慮がちで、ティアの希望次第で取りやめてもいいと伝えてくれている。
「いえ!」
ティアは跳ね起きた。
自分の我儘にロバートを付き合わせてしまっているのだ。
自分の覚悟の無さが情けない。
悲しいとか泣いている場合ではない。心の底から反省した。
「申し訳ありません。私は平気です」
「そんな泣き腫らして目で言われても」
苦笑するロバートにティアも泣き笑いの表情を浮かべた。
「…父上は納得してくれたらしい。多分、僕達の話を信じてくれた、と思う」
二人きりになるとアーサーは教会から魔法の専門家を呼び、ロバートがティアの魔法にかかっている状態ではないかどうか確認したらしい。
「僕が魔法にかかっていないことを確かめた後、父上から沢山の質問をされた」
主にティアの魔法に関することで、ロバートはその威力を大袈裟に吹聴したという。
「君の能力が貴重だと分かれば、命の危険が少なくなるし、君への待遇も良くなるだろう。ただ……」
ロバートの顔が深刻そうに曇った。
「父上は他国への侵略を考えているのかもしれない。元々小さい領土の我が国を拡大したいと望んでいる人だから……」
「えっ!?」
ティアの顔も青くなった。
「ティアの能力を使って、隣国の国王や要人を意のままに操りたいと思っているみたいなんだ」
「そ、そんなこと……」
自分の力が悪用されることを考えて、ティアは吐き気を覚えた。
「大丈夫だ。結婚してしばらくしたら、君が死んだことにして逃がしてあげるから。協力者もいる。任せておけ」
「協力者?」
「ああ。誰とは言えないんだが……信用できる人だ。正直、両親よりも信頼しているくらいだ」
ロバートがここまで言うのだから、きっと信用して大丈夫なのだろう。
「ロバート様、本当にありがとうございます。何と感謝していいか分かりません」
「いや、いいよ。それに父上が本当に侵略を企てているなら、止めなければ」
「そうですね。私もしっかりしないと。泣いている場合じゃないですね」
二人は視線を合わせて頷き合った。




