52.密偵カイン
静かな部屋で、ティアの悲痛な泣き声が響く。
もう二度とサイラスや城のみんなとは暮らせないのかと考えただけで胸が痛くて苦しい。
大切な両親を殺した犯人たちの言うなりになるしかない自分に腹が立って仕方がなかった。
「大丈夫かい?」
男性の声がして手首の縄が緩められるのを感じた。自分を攫った人間だと声で確信する。
この人を操って逃げ出すことはできないだろうか?
ティアの考えを察したかのように男は言った。
「俺を操ろうとしても無駄だよ。国王陛下は君が思っているよりもずっと悪賢い。君の魔法は直接目を見なければ効果がない。俺の両目には特殊な植物の分泌物で作った透明な膜が入っている。それで魔法は封じられるだろうと仰っていた」
ビクッと肩を揺らすティアに男は言葉を続ける。
「当然国王陛下や王族を警護する近衛騎士たちも同じような膜をつけている。だから、君が魔法で逃げようと思っても無駄だ」
容赦ない男の言葉にティアの絶望は深まった。
もう何もできることはないのかと自分に問いかけるが答えは見つからない。
「ま、とりあえず君の面倒はしばらく俺がみることになった。俺の名はカイン。よろしくな」
縄を解いたカインは目隠しをしたままのティアを荷物のように右肩に担ぎ上げた。
***
抵抗しようにも魔法を使えないティアはちょっと丈夫なただの女性である。
大人しくカインに担がれたまま様子を見ることにした。
ティアが連れてこられたのは、かび臭くて湿った地下室のようなところだった。
ようやく目隠しを外されてほっと息を吐く。周囲をきょろきょろと見回した。
小さなテーブルと椅子が二脚。それから古い寝台が置いてあるだけの部屋だ。窓すらない。
「ここは……?」
自分を連れてきた男に視線を移動させる。
カインは大体三十代後半くらいだろう。赤髪に緑色の瞳の妙な色気のある男性で若い頃はきっと女性を泣かせたに違いない。
「王宮の地下だ。国王陛下の方針が固まるまではここで過ごしてもらう……あまり居心地は良くないが」
カインは申し訳なさそうな顔をするが、ティアはあまり気にしない。
「大丈夫です。床で寝ていた頃に比べたら寝台があるだけずっとましです。リネンも新しいのをカインさんが揃えてくださったんですよね? ありがとうございます」
ティアがお辞儀をすると、カインはぎょっとした顔で「床……?」と呟いた。
「まぁ、文句を言わない女は好きだ。食べ物は俺が持ってくる。内側から鍵をかけろ。俺以外の人間が来ても絶対に開けるな。王妃様はいまだに君の命を狙っているからね」
先程のイヴの剣幕を思い出して、背中がぞっとした。
「でも国王陛下は私を殺させないと……」
カインは苦笑いを浮かべる。
「あの女が素直に言うことを聞くと思うか? ありゃ、相当だ」
何となく納得しながらティアは黙って頷いた。
「風呂は奥の扉だ。タオルや着替えも一応置いてある。寸法は適当だが、なんとかやってくれ」
カインが出ていった後、ティアはしばらく呆然と椅子に座り続けた。
あまりに多くのことが起こり過ぎて、脳の処理が追いつかない。
サイラスは無事に目を覚ましただろうか?
起きて私がいなかったらさぞかし心配するだろう。
……優しい人だから。
一緒に月を眺めた夜を思い出す。
彼の優しい瞳、照れた顔、焦った顔、困った顔、色んな表情が次々と脳裏に浮かんで胸が苦しくなった。
サイラス、城のみんな、フィッツロイ邸の騎士たち……。
死ぬほど心配しているだろう。
あんなに大切にしてもらったことは、サンドラが死んでから初めてだった。
寂しくて不安で怖い。みんなのいるところに帰りたい。
しっかりしなくちゃと自分を鼓舞するが、どうしても心が言うことをきかない。
取りあえず体を洗ってスッキリさせようと浴室の扉を開けた。
思っていたよりも綺麗に掃除されている。
タオルもふかふかで柔らかいし、着替えも質の良い夜着と普段着が違う寸法で複数用意されている。
カインは国王の手先だが根っから悪い人間ではないのかもしれない。
体を洗うとさっぱりして少し気持ちが落ち着いた。
とんとんとん
扉のノックの音と共に「俺だ。カインだ」という声が聞こえた。
確かにカインの声だったのでティアが扉を開けると「もっと警戒しろ」と叱られる。
「だって、どうやって?」
不満そうに口を尖らせるとカインがふっと微笑んだ。
「質問を決めようか。君の好物はなんだ?」
「好物……? 舞茸、かな?」
初めてサイラスと一緒に食べた時の料理で、彼が最初に口をつけたのが舞茸だった。美味しいと言ってもらってすごく嬉しかった。
「舞茸? なんだそりゃ、ま、いいか。じゃ、これから扉の向こうで『好物はなんだ?』と質問しろ。舞茸と答えたら俺だって分かるだろう」
「なるほど。分かりました」
「それで、食事を持ってきた。揚げたてだから美味いぞ」
ぐいと押しつけられた茶色い紙袋を開けるとふわっと熱気を顔に感じた。食欲をそそる匂いが部屋中に充満する。
「鶏肉のクリームシチューをパン生地で包んで揚げたんだ。下町でよく売ってる食いもんだからお上品な貴族様の口に合うか分からないが、俺のお勧めだ」
「あ、ありがとうございます! すっごいいい匂い。とても美味しそうです」
言い終わるか終わらない内にティアは思いっきりパンにかじりついていた。
熱々のシチューと味付けされた鶏肉の風味が口の中に溢れる。揚げたパンはサクサクで中はふっくらもちもちしている。シチューの濃い味とパンの組み合わせが信じられないくらい美味しかった。
目を潤ませてがつがつ頬張るティアを、カインは微笑ましそうに見守っている。




