50. 誘拐
ティアの部屋まで来るとカーラがきょろきょろと辺りを見回した。
「あら? ティアの部屋の前にも護衛の騎士がいるはずなんだけど……」
「もしかしたら私が寄り道しちゃったから……心配して私を探しにいっているのかも? 行き違いになっちゃったかしら」
カーラは顎に指を当てて考え込んでいたが「そうかもしれませんね」と頷いた。
「リック団長のところで確認したら、またここの持ち場に戻るでしょうから、護衛が来るまで私もティアと一緒に待ってるわ」
「まさか、駄目よ。そんな訳にはいかないわ。カーラだって疲れているんだから!」
「いやでも」「大丈夫だから」というやり取りが何度か繰り返された後、カーラはふぅっと息を吐いて諦めた。
「ちょっとでもおかしなことがあったら大声あげるのよ?」
「分かったわ」
ティアはカーラの背中を見送った後、自室の扉を開けた。
長い夜だった。まだ空は暗いが明け方は近いような気がする。
(どうしよう……着替える前に体を洗いたいな)
寝室の奥にある浴室の扉に近づいた途端、何者かが背後からティアを抑え込んだ。
ティアはすっかり油断していたし、まったく何の気配もしなかった。
殺気もないので痣も反応できなかったのかもしれない。
「きゃ……」
悲鳴をあげようとしたティアの口に布のようなものを当てられた。強い薬品の匂いがして急速に意識が薄れていく。
遠のく意識の中でティアは必死に抵抗しようとするがどうしても体が動かない。
「……悪いね。俺も命令があるからさ」
微かにそんな声が聞こえたような気がした。
そして意識が完全に途切れた。
***
頭ががんがんする。
体も痛い。手が変な方向に捩じれている。
腕を動かそうとしても動かない。
ここはどこなのだろうと考えた瞬間に目が覚めた。
パッと目を開いても真っ暗だ。布のようなもので目隠しされている。
痛みと混乱で頭が回らない。椅子に縛りつけられている。腕は後ろに回され両手首を縄のようなもので縛られていた。
「ううっ」
思わず呻くとすぐ近くで誰かの声がした。
「……ようやく目が覚めたか」
聞き覚えのある声に血の気が引いた。
「国王陛下であらせられますか?」
間があいて「そうだ」と返事がある。
ティアは絶望した。
国王が何をたくらんでいるのか分からないが、絶対にティアにとって良くないことだろう。
「いまいましい。そんな小娘、すぐに殺してしまえばいいのに」
冷たい女の声も聞こえた。
「おいおい、キャス。そう簡単に言うな」
キャスというのはカッサンドラの愛称だ。母のふりをしている王妃に違いないとティアは確信した。母の名を使うなと怒りも同時に湧いてくる。
「……今夜もせっかく近衛部隊を送って夫婦揃って天国に送ってやろうと思ったのに。おめおめと失敗して戻ってくるなんて……」
王妃が悔しそうに言った。
ということは今夜サイラスに毒を飲ませ、フィッツロイ公爵家の屋敷を襲撃させたのは王妃のイヴということか⁉
あまりの怒りにティアの体の血は逆流するようだった。死人だって出ているのだ。
「……何故そんなことを?」
震える声でティアが尋ねる。
「何故って、決まってるじゃない。私はカッサンドラが大嫌いなの。いつもいい子ぶって、自分が正しいっていう態度が気に入らなかったわ。だから、あの女もあの女の夫も私が殺してやったのよ」
あまりの衝撃にティアの体は硬直した。
父と母を殺したのはイヴだった⁉
「俺は今の今までキャス……ややこしいな、イヴが教会から契約魔法の書を盗み、カッサンドラやリヴァイまで殺していたなんてまったく知らなかった。先日、アスターの城を襲撃させたのもイヴだったそうだ」
言い訳がましくアーサーが語る。
アスター城に三人の侵入者を送りこんだのも王妃なのか……思い出すだけであの時の恐怖が蘇る。
「カッサンドラやリヴァイに手を出さないという契約を結んだのは俺だ。だから、俺の知らないところでイヴが彼らを殺しても契約違反にはならなかったようだ。ただ、今ではイヴが君を狙っていることを知ってしまった。だから、君に危害が及ぶのを傍観していたら、契約違反で俺も死んでしまう気がしてね」
だからティアに危害を加えてはならないとイヴに説くと、彼女は不満そうに抗弁した。
「そんな……陛下。陛下に知らせずに私が手をくだせば問題ないはずですわ。これまでのように……」
(この人がお父さまとお母さまを殺した! そしてお母さまのふりをしてのうのうと王妃として暮らしている。……許せない!)
怒りで爆発しそうになるが、かなりきつく縛られているのでまったく動くことができない。
目隠しされているので魔法を使うこともできない。無力さにティアは泣きたくなった。
「カッサンドラのあの澄ました顔! 反吐が出るわ。あのお綺麗な顔が苦しみに歪むのが見たかったのにっ」
吐き捨てるように叫ぶイヴをアーサーは宥めようとした。
「まぁまぁ、君が学校で冷たくされていた時に助けたのはカッサンドラだったじゃないか? 俺たちの仲間に君が入れるようにしたのもカッサンドラだ」
目はふさがれて見えないが、イヴの声に激しい怒りが混じるが分かった。
きぃーっという甲高い悲鳴のような叫びが耳に入る。
「あんな女に憐れまれるのはごめんよ! お父さまが若い頃に先代のフィッツロイ公爵夫妻を殺したとか何とか……酷い言いがかりで虐められていたところを、聖女のようにお優しいカッサンドラ姫が庇ってくれて、アーサー王太子殿下の人気者集団に私を入れてくれたのよね~。あの偽善者がっ!」
イヴの言葉の一つ一つに醜い毒が宿る。
ティアは聞いているのが苦痛で堪らなくなった。
「分かった分かった。君がカッサンドラを恨んでいるのは知っていたが……まぁ、でも俺の知らないところで彼女とリヴァイを片付けてくれて助かったよ。俺は危害を加えることができなかったからな。脅威は少なければ少ないほどいい」
アーサーの言葉にティアは耳を疑った。
「……幼馴染の元婚約者と実の弟を妻が殺したと知って、他に言うことはないのですか⁉」
ティアが叫ぶとアーサーの嘲るような笑い声が聞こえてきた。
「ああ、アリスティア嬢、君はカッサンドラに性格もそっくりだ。清廉すぎる。俺には合わなかったな。俺の好みは邪魔な人間を躊躇せずに排除できる女性だ。それくらいでないと王妃は務まらない。その点、イヴは適任だ」
こんな人たちのせいで父と母は殺された、と思うだけで胃の中がひっくり返りそうなくらい気持ち悪い。
「……それよりも、君の左の頬にある傷痕の方が気になるね」
彼の視線が自分に向けられたのを感じて鳥肌が立った。
「夕べは近衛部隊が不審な動きをしていたので俺の密偵につけさせたんだ。部隊は王都の旧フィッツロイ邸に行くらしいって報告があったからね。様子を見て必要があったら君を捕まえてこいって命令した。あ、もちろん手荒な真似はするなって言っておいたから怪我なんてしてないだろう?」
アーサーの軽い口調が恐ろしい。
国王夫妻は二人とも異常だと確信したが、今は何もできない。
ティアは絶望で泣きたくなった。




