3.アスター伯爵領
アスター伯爵の領地に向かう馬車に揺られて、ティアはぼーっと景色を眺めていた。
月並みな言い方だけど、世界は美しい。
黄金色に輝く麦の穂が一面に広がる光景に息をのむ。七年もの間、狭い離れに閉じ込められていたティアにとっては全てのものが珍しく綺麗に見えた。
王都のアスター伯爵家を出発した時、荷物が小さな鞄一つだけと知って、アルマが何度も「本当にこれだけですか?」と確認していた。
普段着が一着と夜着が一揃い。薬草や野菜の種子に酵母。それから幼い頃に母サンドラが作ってくれたおもちゃくらいしか入っていない。
鞄を開けて色あせた漆喰の塊を取り出してまじまじと見つめる。おもちゃは贅沢品だ。買ってもらえるはずもなかったので、サンドラが漆喰を固めて器用に猫の形にしてくれた。一緒に茶トラの模様に色を塗ったっけ。
父と兄たちならきっとガラクタと呼ぶだろうが、彼女にとっては大切な母との思い出の品である。
初夜の翌朝、目を覚ました時にはサイラスは既に王宮に出仕していて、それ以来顔を合わせていない。彼女の出発にも見送りにくることはなかった。
アスター領についてはアルマもよく知らないそうだが、分かる範囲で教えてもらった。
領地の城には住み込みの使用人が五人ほどいるらしい。
もちろん、五人というのは少ないが財政難のため多くの使用人を解雇せざるを得なかったのだという。
財政難の理由の一つはサイラスが爵位を継いだ時に、一年間は領地全てを無税すると発表したからで、税収なしで領地経営をしなくてはならない状況なのだそうだ。
先代の伯爵が重すぎる税負担を領民に強いていたため、民衆の生活は相当苦しかったらしい。
領民の生活が少しでも楽になるように無税にしたサイラスは良い人なのかもしれない、とティアは見直した。
少なくとも父フランクなら絶対にしないだろう。
それに別居婚を提案してくれるなんて最高の旦那様だ。
これで一生会うことがなければ理想的なんだけどな、とティアは遠くの山々に視線を遣りながら考えていた。
***
アスター領の城は想像よりも大きく、とても古びていた。侘しいというか寂れた雰囲気が城全体を覆っている。
馬車が到着した時に正面の入口には二人の男女が立っていた。
一人は白髪まじりの銀髪で眼鏡をかけた穏やかそうな男性。もう一人は真っ白なお仕着せ姿のふっくらした中年女性だ。二人ともとても姿勢が良い。
鞄をしっかりと握りしめて馬車を降りると、揃って深々とお辞儀をしてくれた。
「ティア様、ようこそお越しくださいました」
丁寧な扱いに慣れていないティアは頭を下げながら「あ、あの、よろ、よろしくお願いいたします」と口ごもる。
二人はティアの頬の傷をみて痛ましそうな表情を浮かべた。なんだか悪いことをしているような申し訳ない気持ちになる。
「あの、お世話になります。申し訳ありません」
泣きそうな声で言うと女性が慌てたようにティアに駆け寄り、手を握った。
「ティア様、何を謝ることがあるのです? 私はタマラといいます。侍女長を務めております。こちらは家令のセドリック。ようこそアスター城にお越しくださいました」
温かい手の感触と明るい笑顔になんだか目の奥が熱くなった。こんな風に優しく接してもらえたのはいつ以来だろう?
「あ、ありがとうございます」
自分の声が涙でくぐもる。タマラはそっとハンカチを手渡してくれた。
その後は素知らぬ風にティアを部屋に案内してくれる。気遣いのできる親切な人たちだ。
「こちらがティア様のお部屋でございます」
案内された部屋はちょっと古めかしいが、清潔で明るい光がいっぱいに入る。中央に置かれた大きな寝台には皺一つない真っ白なシーツが敷かれていた。
部屋の隅には年季の入った鏡台と机が置かれているが、どちらも念入りに磨き上げられている。座り心地の良さそうなソファには多分刺繍したばかりの新しいクッションが二つ並んでいた。
自分なんかのためにこんな準備をしてくれたんだと思ったらまたじわっと涙が出そうになる。慌てて手の甲で目を擦り、タマラとセドリックに深々とお辞儀をした。
「こんなっ、素敵なお部屋を用意してくださって、本当にありがとうございました。とても、とても嬉しいです! 大切に使いますっ」
ティアの剣幕に二人とも驚いた様子だったが、温和な笑みを浮かべて口々に気にしないでと言ってくれる。
今まで住んでいた実家の離れが地獄だとしたら、まさに天国に来たのだと思った。
ここで役に立つ人間になりたいとティアは拳を握りしめて二人ににじり寄った。
「どうか私もここで働かせてくださいっ! 精一杯頑張りますっ!」
タマラの目尻に柔らかい皺が現れる。
「ティア様、ありがとうございます。女主人として働いて頂けたら有難いですわ。でも、まずはゆっくり休んでこの城での生活に慣れてから、のお話ですわね」
自分の意気込みが空回りしているのを感じて頬が熱くなったが、タマラとセドリックの温かい微笑みにちょっと安心した。
その日の夜もティアはぐっすりと眠ることができた。