25.手紙
「毒……? それに手紙って……?」
サイラスの話に聞き入っていたティアは彼の顔を見上げた。
深い湖のような蒼い瞳が悲しそうにティアの目を覗き込む。
あまりに大きい事柄で自分の身近で起こった話だという実感が湧かない。
手足の震えが止まらない。足元から恐怖が湧きあがってくる。
母サンドラが亡くなった時のことを思い出した。
食事の席で突然血を吐いて倒れたのは覚えている。泣き喚きながら母親にすがりついたが、すぐに引き離されて自分の部屋に閉じ込められた。
その後、サンドラは亡くなったと聞かされ、ティアは呆然と残酷な現実を受け入れるしかなかった。
死因は突然の病死と聞かされていた。
原因がどうであれ最愛の母を失った事実を変えることはできない。
棺を閉じたまま葬儀が行われ、ちゃんとしたお別れもできなかったと悔しい記憶が甦る。
倒れた時、サンドラの顔は膨れあがっていなかった。亡くなった後の浮腫に時間がかかる遅効性の毒もある。
サンドラは毒や解毒についても詳しかった。彼女の教えを受けたティアも様々な毒物と解毒剤を作り出すことができる。
そんなサンドラが毒を盛られて死んだ?
誰に?
悔しい、悲しい、寂しい、何よりも怒りの感情が胸の内で渦巻いているが、不思議と涙は出てこない。あまりに残酷な現実に瞳も感情も干からびてしまったように乾いている。
サイラスは心配そうにティアの顔を覗き込んだ。
「大丈夫か?」
ティアは黙って頷いた。膝の上の拳を固く握りしめる。
サイラスは話を続けた。
「カッサンドラ様の手紙には、君が十七歳になったら俺と結婚してテイラー家から連れ出して欲しいと書かれていた。この領地の城で暮らし、ほとぼりが冷めたころに平民として自由にしてやってくれ、と」
ティアの目がまん丸く見開かれた。
サンドラの望みは、ティアが何も知らず平民として平和に暮らしていくことだった。
契約魔法のおかげでアーサーから命を狙われることはないかもしれないが、それでもフィッツロイ一族の血筋というのは狙われやすい。
「この国で正式に結婚ができるのは十七歳だ。父ウィリアムは君が十七歳になるのを待った。そしてすべてを俺に告白して死んでいった」
ティアの顔が青褪める。
「ウィリアム様は契約を破って秘密を伝えたから亡くなった、と……?」
「そうかもしれない……ただ、父上は病で余命は短かった。だからこそ俺に秘密を打ち明けて死んでも構わないと思ったんだろう」
ウィリアムもサンドラもティアの将来を気にかけてくれていた。
ようやく温かい血液が体の中を巡り始めたような気がする。瞳の表面に涙の膜が張り、涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
自分は何も知らずウィリアムのことを悪く思っていた。
「っ……ごめんなさい……わたし……」
なんて酷い人間だろう。罪悪感で胸が苦しい。
「君がそんな顔をする必要はない。俺も事情を知らなかった頃は父のことを深く恨んでいた。今でも……好きだった、とは言えない。ただ、晩年の父はリヴァイ殿下のために作ったこの部屋で、カッサンドラ様の肖像画を眺め、彼女からの手紙を繰り返し読みながら過ごしていた。そして最後まで君の幸せを望んでいたよ」
サイラスがハンカチを取り出して優しくティアの涙を拭く。
サファイアの瞳が柔らかい優しさを帯びた。
「君のことは俺が守る。契約魔法で危害を加えられないとはいえ、アーサー王にとって君が脅威であることに変わりはない。さっきも言ったろう。王族とフィッツロイ一族の血を引く君は、伝統と法律に基づくとこの国の正当な王位継承者なんだ」
あらためて言われると、その言葉の重みにつぶされそうになる。ティアは敢えてそこから目を逸らそうとした。
「お金のためではなく、母の願いがあったからサイラス様に結婚して頂けたのですね。意に沿わぬ結婚を押しつけて申し訳ありません。ありがとうございます」
深々と頭を下げると、サイラスは何故か赤くなった。
「い、いや、確かに最初は戸惑っていた。君には城でしばらく過ごした後、自由になってもらう予定だった。事故死とか病死とか、もっともらしい理由をつけて、君を解放してやってくれ、と父は言っていた。もちろん出来る限りの支援はするが、カッサンドラ様の手紙によると君は一人でも生きていけるだけの知恵と能力があるそうだから」
「あ、それにはちょっと自信があります!」
ぽんと拳で胸を叩くとサイラスはくすっと笑った。普段は気難しい顔が少し幼く見える。
「でも……私が目立つことをしちゃったから、王宮で問題になってしまったのですね。……ごめんなさい」
事情を知ると自分の行動のせいで予定が大幅に狂ってしまったことがわかる。目立ってはいけなかったのだ。アーサー国王に自分が脅威だと思わせてはならない。
サイラスに対して申し訳ない気持ちが湧いてくる。
「いや、いいんだ。俺も誤解していた。……なんというか、君がまったく事情を知らないって信じられなかったんだ。だから、領主夫人として目立つ行動をとり、魔法のような野菜を領民に配ったという噂を聞いて、国王陛下への反抗みたいなことをたくらんでいるんじゃないかって疑ってしまった。巻き込まれたらアスター伯爵家も領民もただではすまない。だから……色々疑ってしまった。本当に申し訳なかった」
「いえ、そんな」
二人で交互にお辞儀を繰り返していると何だかおかしくなってしまう。タイミングよくお互いの視線が出会った時に、ふふっと笑い合った。
「それにしても、魔法のような野菜……ってなんですか?」
「宰相のウィルソン公爵が国王陛下に提出した報告書にそう書かれていた。貧しい領民たちに異常に成長が早い野菜の苗を提供し広めたとか……」
そういえば、城の塗り替え作業の時に男の子と母親にイチゴや野菜の苗をあげたことを思い出して、ティアの顔は青褪めた。
あれはサンドラから受け継いだ種子なので、普通の植物とは成長速度も繁殖具合も桁違いだが……
「っ……もしかして、それは大きな問題ですか!?」
動揺するティアにサイラスは重々しく頷いた。
「あっという間に実る野菜や果物の噂は既に王都まで届いている。不思議な植物や野菜はフィッツロイ一族の十八番だ。国王陛下がどう思われるか心配になってな……」
想像以上に深刻な事態になっているとティアは焦る。
「そ、それでサイラス様はわざわざ領地にいらしたのですね!本当に申し訳ありません」
「いや、気にするな。国王陛下は俺と結婚したティア・テイラー男爵令嬢が実はアリスティア・フィッツロイ嬢であることも把握している……と聞いている。野菜が出回ってしまったのは偶然で、フィッツロイ家の存在を主張する意図はないと分かってもらえれば……」
サイラスはそう言いながらも頭を掻きむしった。
「ああ~! でも国王陛下は猜疑心が強い方なんだよな~! 王妃様の秘密が暴露されるのを懸念されているのは分かるけど、すごく神経質だから……陛下が君に何かするんじゃないかと心配だ!」
ティアは首を傾げた。
「で、でも、契約魔法で……私たちは安全なんじゃないですか?」
サイラスは眉間にしわを寄せて腕を組んだ。
「父は……カッサンドラ様を毒殺したのはアーサー王の手下だったのではないかと最後まで疑っていた。『アーサー・ノーフォークは危害を加えない』という三項に『危害を加えさせない』という文言も加えれば良かったと何度も繰り返していたんだ」
「えっと、つまり国王陛下自身が危害を加えなければ大丈夫ってこと、ですか? 誰かに命じて危害を加えさせることは契約に引っかからないと?」
「父上はそう疑っていた。もしかしたら、リヴァイ殿下も国王陛下に暗殺されたのではないかと……」
全身がゾッとして鳥肌が立った。自分の体を抱きしめるように腕を回す。
(国王陛下の命令でお母さまが毒殺されたかもしれない……!? もしかしたらお父さまも? ……恐ろしいわ)
「あ、あの、父……いえ、フランク・テイラー男爵がお母さまを毒殺した可能性はありませんか? ホリーは今もテイラー男爵家で侍女長として働いています。ウィリアム様が秘密を暴露しようとしていると彼女が密告したのでは……? テイラー家の令嬢が王妃のふりをしていることが露見したらまずいことになりますよね?」
それにフランクが毒を仕込むのに一番やりやすい立場にいたことは間違いない。
サイラスは複雑な表情だった。
「確かに動機も機会もある。君を虐待してきたのも許せないし、信用できない人物だと思うが……。ただ、カッサンドラ様を殺したとしたら、何故彼女の手紙を素直に父上に渡したんだろう?」
「そう、ですね……」
密かに埋葬して、手紙を握りつぶすのが自然だろう。
わざわざ膨れ上がった死体まで見せて、毒殺を示唆する理由はなんだ?
「考えられるとしたら脅し……かな? 秘密を漏らしたらお前もこうなるぞ、とか……?」
サイラスの言葉を聞いて、背筋がゾッとして鳥肌が立った。
「ごめん……怖がらせた」
サイラスが躊躇いがちにティアの頭に大きな手をのせてぽんぽんと撫でてくれる。
すまなそうな表情と気遣うような瞳にティアの心が少し落ち着いた。
「あの……私とサイラス様の結婚に関して、お父さま……フランク・テイラー男爵は何と仰っていました?」
サイラスは言いにくそうだったが、ティアが「正直にお願いします」と顔を近づけると渋々といった表情で話してくれた。
「まぁ、ようやく厄介払いできて助かる、みたいなことは言っていた、かな?」
「大丈夫ですわ。そんなことはとっくに知っています。傷つくこともありませんからご心配なく。七年後に私を厄介払いできると分かったから、手紙を渡したのかしら?」
「……本当に厄介払いしたかったら君は今頃生きていないような気がするけどね」
サイラスは小さく呟いて息を吐いた。