19.母の肖像
「こいつめ! 生意気な! 使用人をたぶらかしやがって!」
兄のイアンが鞭を持ってティアの背中を打っている。
離れに住んでいるティアには人との交流がない。
食べ物ももらえない状況で憐れに思った使用人が、柵越しにティアに話しかけているところを見つかってしまった。
外部との接触は固く禁じられている。
言いつけを破ったために、使用人とティアは見せしめとして兄のイアンに鞭打たれていた。
鞭打ちが終わると、使用人の方は仲間が運んでいったがティアはそのまま放置される。手当てをしようとするとまた鞭打たれてしまうので、誰も手を出せない。
ティアは這うようにして離れの建物の中に戻り、固い床の上で横になった。
母の形見の茶トラの猫のおもちゃを胸に抱くと痛みが和らぐ気がする。
しばらく休んだ後に母から教えてもらった薬草を塗ろう。
背中だと塗りにくいんだよな、と思っていたらそのまま眠ってしまった。
寝台もない家だから、好きなところで眠ることができる……固いけど。
でも、寝台で眠るのってすごく気持ちいいのよね……
やっぱり床は固くて寝づらいな……
*****
ハッと目を覚ますと、周囲が明るくなっている。
実家に戻っていたのは夢だったのか、と安堵の息をつくと、不意に昨夜の出来事を思い出して、慌てて部屋の中を見回した。
大きな窓から入る太陽の光が燦燦と部屋の中を照らす。
なんて美しい部屋だろう。古風で品のある調度品に囲まれた豪華な部屋だ。
壁に肖像画が沢山飾られているが、どの絵にも同じ女性が描かれていた。
漆黒の髪に黒曜石の瞳の美しい女性。
ティアは絵画の近くに寄って、まじまじと絵の中の女性を観察した。
(あれ……? どこかで見たことのある……わたし? というより……お母さま!?)
子供時代から恐らく十代、二十代頃まで。年齢は異なるが、すべて母サンドラの肖像画に間違いない。
(?????????どうして、お母さまの肖像画がこんなにたくさん……?)
脳内は疑問符だらけだが、懐かしい母の面影に涙がじわっと滲んできた。
一方でここは立ち入り禁止の区域だと思い出す。
ここが先代のウィリアム・アスター伯爵の居室だったのだろうか?
(先代の旦那様とお母さまって知り合いだったの? いや、こんなに肖像画があるんだもの、もっと親しかったのかも……平民のお母さまと伯爵なんてどこに接点があったのかしら?)
今回のティアとサイラスの結婚もそこに原因があるのか?
疑問ばかりが脳内をぐるぐると巡っている。
(でも、追われて夢中だったからとはいえ、立ち入り禁止区域に入ってしまった。セドリックたちに謝らないと……)
ティアは出ていくための扉を探したが、一見したところ扉は見当たらない。
昨晩、扉らしきものが半開きになっていて、おかげで中に入れて助かった。
だから、出入り口はそこにあるはずなのに、この部屋は四方を壁で囲まれているだけだ。扉は一つも見えない。
夕べ眠っていた地点の近くの壁を叩いたり探ってみたりしても、どう見てもただの壁にしか見えない。
(えっと……これは、閉じ込められてしまった!?)
どうしようと考えていると部屋の外から人の足音と話し声が聞こえてきた。
「旦那様、ここに逃げ込んだとあの男は言っていましたが……どこにも隠れる場所なんてありません」
「……ティア! ティア! いるか!? ティア!」
リチャードとサイラスの声がした。
(え? サイラス様は王都に戻られたはずなのに……)
戸惑いつつもティアは大声で返事をした。
「サイラス様! リチャード! 私はここよ! ここよ! 扉がないの!」
壁の向こうから「どこに入口が……?」というリチャードの声がした後、ガチャンガチャンと何かを探る音がして壁が突然開いた。隠し扉になっていたようだ。
扉の向こうには真っ青な顔をしたサイラスとリチャードが立っている。
「あ、あの、申し訳ございませんでした!」
ティアは深々と頭を下げた。
なぜサイラスがここにいるのか?
強盗はどうなったのか?
色々な疑問はあるが、今は立ち入り禁止の部屋に入り込んでしまったことを謝らないといけない。
「「は!?」」
男二人が口をあんぐりと開けてティアを見つめた。
「なんでティアが謝るんだよ。旦那様、またティアに何か言ったんじゃないでしょうね?」
疑り深そうにサイラスを睨みつけるリチャードに、サイラスは降参するかのように慌てて両手を挙げた。
「何も言ってない! それより、お前は彼女に馴れ馴れしすぎる! なんで呼び捨てなんだ!」
「そんなの今は関係ないでしょう。暴漢に襲われた彼女がどうして謝っているのか気になりませんか?」
「そりゃなるさ!」
サイラスが真剣な眼差しでティアの両肩に手を置いた。
「君が何も謝る必要はない。無事か?」
「は、はい。でも、ここは立ち入り禁止で……」
ティアが部屋中に飾られている肖像画を見回すと、サイラスは「ああ、そうか」と言ってリチャードに振り返った。
「リチャード、彼女が見つかったとみんなに伝えてくれ。ちょっと二人で話がしたい。しばらくしたら戻るから」
「分かりました。でも、彼女を怖がらせるようなことを言ったら……」
「言わない! 大丈夫だ。絶対にもう酷いことはしない」
それでも心配そうにティアに目配せするとリチャードは部屋から出ていった。
階段を降りていく軽快な足音が消えると、サイラスはティアの手を取って部屋の隅にあるソファに座らせた。
自分も隣に腰をおろすとサイラスはティアに向かって質問した。
「君は自分が何者か、まったく何も知らされていないんだな?」
「え!? わたし、ですか? あの、ティアですけど。えっと、テイラー男爵家の継娘だった?」
きょとんとする彼女を見てサイラスは苦笑する。
「君の母君は喜ばないかもしれない。でも、君に君が誰なのかを説明するよ」
大きな手でティアの頬に触れると、形の良いサイラスの目が優しい光を帯びた。