10. 城の塗り替え
「ティア様! おはようございます! 今日もよろしくお願いします!」
城の塗り替え作業に来た若者たちが次々と大きな声でティアに挨拶をしてから、持ち場に向かっていく。
笑顔で挨拶を返していると、城の周囲に人だかりができていることに嫌でも気がついた。
「キャーッ、ティア様よ~! 可愛い~!」
「こっち向いて~!」
(どうして私、みんなからこんなにいい笑顔を向けられているんだろう?)
塗料の容器を運びながらティアは首をひねった。
城の塗り直しのために大規模に足場を組み、地元の若者を雇用した。
重い塗料の缶を持ち運び、高いところで塗り直しをするのは大変な作業だ。
余裕を持って三ヶ月で内側と外側のすべてを塗り直す予定である。
「一日の労働に銅貨十枚でどうか?」と応募してきた若者に尋ねたところ、彼らは飛び上がって喜んだ。
この世界では銅貨百枚が銀貨一枚、銀貨百枚が金貨一枚の価値がある。
調べたところ、平均的な賃金は一日の労働で銅貨二~三枚だ。しかし、短期の仕事だし危険な肉体労働になる可能性がある。
ティアが相場の二倍以上の銅貨十枚を提案した時にセドリックは複雑な表情を見せたが、最終的には彼女の判断に従った。
「以前は城で労働に駆り出される時は無償が当たり前だったんで! 銅貨十枚ももらえるなんて信じられない。最高っす!」
先代とは違い、一年間無税にしてくれた新しい城主とその夫人は領民を大切にしてくれるという噂があっという間に地元で広まったらしい。
ティアは顔の傷痕もあるし目立つのは苦手だ。
しかし、若者たちがせっせと足場を組んでいる城の周囲に見物に来る人たちを止めるわけにもいかない。
城には警備の人間がいないので、基本誰でも入りたい放題の状態が続いているのである。
相変わらずお仕着せ姿のティアは、甲斐甲斐しく立ち働く質素で堅実な城主夫人だと映っているらしい。
領民たちの間でティアの人気はあっという間に高まった。
おかげで働く若者たちも意気軒高、塗り直し作業は驚くほどの速さではかどっていく。
一方、近隣の町や村からも多くの領民が足場に囲まれた城を見学しにやってきている。
ちょっとしたお祭り騒ぎだ。
城の敷地を関係者以外立ち入り禁止にすべきか、庭でセドリックとティアが話し合っている時に「わ~ん」という男の子の泣き声が聞こえた。
ティアはセドリックと顔を見合わせると泣き声の方に駆けだした。
城の庭の隅にある菜園のところで小さな男の子が泣いている。
母親らしき女性が困った顔で何か言い聞かせていた。
「どうしました?」
ティアが尋ねると女性は深々と頭を下げて詫びた。
「大変申し訳ございません。素晴らしい野菜や果物を見つけて、息子がその……食べたいと泣きだしてしまって」
男の子の視線の先には赤く実ったイチゴがあった。
ティアは屈みこんで特に大きなイチゴを二粒とるとハンカチで丁寧に拭いてから男の子に差し出した。
「「えっ……」」
母子が同時にティアを見つめて立ちすくむ。
「どうぞ」
「……いいの?」
ティアが笑顔で頷くと男の子はおずおずとイチゴに手を伸ばした。
みずみずしいイチゴを口一杯に頬張ると少年の顔が輝いた。
「あま~い! 美味しい!」
母親が申し訳なさそうに頭を下げる。
「本当に申し訳ありません。ご領主の奥様にこんな厚かましいことをお願いしてしまい……」
「どうして領主夫人でいらっしゃるとお分かりに?」
防犯上ティアをあまり表に出したくないセドリックは眉を顰めるが、母親は明るく「奥様は有名人でいらっしゃるから!」と笑う。
「ああ、この顔の傷は目立ちますしね」
自分の頬を指さしながら屈託なく言うと母親は慌てて首を振った。
「い、いえ、そうではなくて、珍しい黒い瞳に黒髪の奥様だと噂が広まっておりますわ」
母親のサンドラと同じだったので、それが珍しいという認識がなかったティアは驚いた。
「黒髪に黒い目って珍しいんですか?」
「まぁ、少ない方かもしれません。王都だとたまに見かけるそうですが、この辺りだと非常に珍しいかもしれませんね」
どことなく気まずそうにセドリックが説明する。
顔の傷よりも髪や目の方が噂になっているというのは新鮮だとティアは思った。
子供の頃から周囲の人間に醜い傷痕を憐れむか蔑むかのように見られてきたから、それ以外に注目する特徴があることは意外だった。
「とても美味しかった、です! もう二日も何も食べていなかったんだ。ありがとうございます!」
元気よく少年がお辞儀をする。二日も食べていないと聞いてティアは慌てた。
「この辺りの食糧事情は良くないのですか?」
恥ずかしそうに、母子二人の生活の上に最近失業してしまったので、ろくに食べ物がないと説明する母親にティアは何かしてあげたくなった。
野菜や果物がたわわに実る菜園に入ると、幾つかの苗を小さな鉢に植え替えて母親に渡す。
「余計なことかもしれませんが、これをおうちの庭に植えてください。できるだけ日当たりの良いところで土を柔らかく掘り起こして水を沢山あげるんです。特殊な苗なのですぐに実がなると思います。イチゴとジャガイモとカボチャです」
「常識では考えられないくらい丈夫で早く実る野菜なんで」
背後から声がして振り返ると不機嫌そうに眉間にしわを寄せたジェイクが立っている。
「ジェイク! あ、あの、彼は城の庭師です!」
ティアがジェイクを紹介する。
「この素晴らしい菜園を作られた優秀な庭師さんですね」
母親と少年が目を輝かせる。
「俺は何もしてないっす。全部彼女がやったんで」
ぶっきらぼうに言いながらも母親が苗の鉢を持ちやすいように麻袋に入れてぐいっと手渡した。
「あ、ありがとうございます」
「菜園も薬草園もハーブ園も全部、領主夫人が一人で作ったものなんで」
ジェイクの言葉にティアは慌てた。
「ジェイク、そんなことないわ。あなたの助けがなかったら何もできなかったし……」
しかし、母親がぱちんと手を叩いて明るく言う。
「まぁ、さすが、領主夫人は評判通りの素晴らしい方なんですね」
母親はニコニコしているし、子供も瞳を輝かせている。
ティアはどうしたらいいか分からなくなって俯いた。
代わりにジェイクが声をかける。
「あと、その苗を植えて収穫した後、種を取っておいて他に食べ物に困っている人がいたら分けてやってくれ」
「わかった! 僕も頑張って世話をするよ……します!」
「おう、頑張れ」
ジェイクが男の子の頭を撫でながら笑みを浮かべた。
貴重なジェイクの笑顔だ、とティアも思わず微笑むと、ジェイクと男の子の頬が赤く染まる。
母子は何度も御礼を言いながら大きく手を振って帰っていった。
黙って見守っていたセドリックは「苗を差し上げて良かったんですか?」と不安そうに尋ねた。
「大丈夫じゃないかしら? 食べ物に困っている人たちの役に立てば嬉しいし」
菜園ですくすく育っている野菜や果物は異常なほどに成長が早く、あっという間に収穫することができる。
最初は懐疑的だったジェイクも実際に体験して脱帽するしかなかった。
菜園の隣にある家畜小屋では、ナタリーとメアリの他にもヤギを数頭、鶏も何羽か飼い始めたので、リチャードは鶏卵や羊乳を楽しそうに料理に活用している。
最終的に自給自足できるようになるのがティアの目標だ。
タマラたちはティアのドレス購入を訴えているが、ティアにとってドレスの優先順位は低い。
城に必要な経費を差し引いて余ったらドレスを作るという約束で、相変わらずお仕着せを着てカーラと一緒に掃除や料理に邁進している。
ティアが城に来てくれて良かったと言われる度に嬉しくて、ますます張り切ってしまうのだ。
無愛想なジェイクでさえも最近はティアを見る目が優しくなった、らしい。そうカーラに言われて胸が弾んだ。
***
城の塗り替えが終わった時は、作業員だけでなく見物に来ていた領民全員も歓声をあげた。
青空を背景に真っ白に明るく生まれかわった城がそびえたつ。
「ロング・リヴ・ザ・ロード・サイラス! ロング・リヴ・ザ・レイディ・ティア!」
何故だかみんなが「領主と領主夫人万歳!」と高らかに叫んでいる。
どうやらサイラスとティアは新しい領主夫妻として大歓迎されているらしい。
「旦那様にも早くお見せしたい」
セドリックの瞳が潤んだように光った。
(二度と顔を合わせることがない夫婦だけどね)
若干の罪悪感を抱きつつティアは見違えるように美しくなった城に足を踏み入れた。