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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

友達の様子がおかしい、眩しい、暑い夏の日

 傲慢な春風から逃げるようマックへ入ると、そこは丁度、かつて僕が通っていた高校の最寄り駅の店だった。懐かしさと同時に、少し色褪せたスーツを着た今の僕を訝しげに見つめる、子供時代の自分自身の視線を背中に感じ、少し居たたまれない気分になる。類型的で陳腐なようでいて、人々の情念と色とりどりの会話が安い油とともに壁一面にべったりと張り付いているこの店で、僕はてりやきマックバーガーを注文する。子供の頃からの好物だ。もう一つくらい余裕で食べられたけど、眠気を伴う午後の会議のことを考えると、学生の頃のように無邪気な注文をするわけにもいかなかった。昼のピークは過ぎて、隣の人の会話が丸聞こえになる程の窮屈さはなく、昔より随分と小さく見えるバーガーが中央に鎮座するトレイを持って端の席に座った。

 包装紙を剥がすと、窓から差す五月の日差しに照らされてソースがぬらりと光る。その光が妙に懐かしく、気の遠くなるような感じがする。バーガーに齧り付こうとして、ふと視線を上げると、並んだ二つの背中が目に入った。恐らく中学の制服であろう黒に身を包んだ男子ふたりが、引き寄せたふたつの椅子に並んで座り、ひとつのスマホの画面に見入っている。密着したふたつの肩は向かいの窓からの光も通さず、沈黙で会話をしている。

 それは僕にとって、どうしようもなく懐かしい光景だった。

 てりやきソースの反射する光に照射されて、明るい色のソファに落ちた影に引きずり込まれるように僕は、自分が過去へと引き戻されていくのを感じた。


 顔の近くで呼吸する晃弘の息からアクエリアスの匂いがする。部活帰りだったのかもしれない、経緯ははっきりと覚えていないが、ある夏の午後に、彼は僕の部屋に遊びに来ていた。一つしかないDSの小さな画面をふたりで覗き込んで、ドットで構成された悪魔城の攻略に挑む間ずっと、彼の成長期のしなやかな肩の骨が僕の左腕に刺さっていて、少し痛いけれど不快ではなかった。かたかたと音のする古いエアコンが吐き出す少し湿った風が、部屋の中の空気を緩慢に掻き混ぜている。夏の日差しを防ぐカーテンの傍らでは、どんな特別な日のために作られたのかもう覚えていない貧相なてるてる坊主が、捨てられないまま吊るされて、マジックペンで描かれたつぶらな瞳で僕らを見下ろしていた。

 僕らは中学のクラスメイトで、とはいえ別の部活に入っており、なかなか予定も合わないから家にまで来て遊んだのはその日が最初で最後だったように思う。だが晃弘は、日頃から頻繁に遊びに来ているような雰囲気で過ごしていた。なぜか彼は自分のDSを持ってきていなくて、僕のを代わりばんこで使っていたのだけれど、段々とこちらも熱中してきて、彼の番を飛ばすこともしばしばだった。たまにそのことに気づくけど、晃弘が何も言わないので気づいていないふりをしてDSを独占していた。

「お前、耳にホクロあるんだな」

 ゲームの攻略に夢中になっていると、不意に晃弘がそんなことを言った。

「そうなの?」

「知らなかった?」

「うん」

 あの時、晃弘にそう指摘されて以来、僕は時々鏡を覗いて、自分の耳たぶに小さなホクロがあるのを確かめる。本当だ、確かにあるね。当時言えなかったそんな台詞を、心の中で呟いてみる。

「ちょうどピアスの位置。ピアス開けるときに目印になりそうな位置にある」 

「ピアスねえ。ちょっと憧れるけど」

「穴、開けてやろうか」

 すると彼の指が僕の左耳に触れた。その少し硬い指の感触に驚き、画面の中にある平面の城が薄らぼやけた。

「駄目に決まってるじゃん。顧問に怒られろって言うのかよ」

 動揺を隠そうと、僕はちょっと怒りっぽく言った。

「そっか」

 指が離れた後も、僕の左半身の全部にこそばゆい感覚が残っていて、そこに意識を持っていかれているうちに、勇者が魔物にやられてしまった。

「あ、死んだ」

 そう吐き捨てる彼の口調に、僕の左耳の小さなホクロを見つけてしまうくらい退屈させてしまっているのき気づいて申し訳ない気持ちになり、何か別の遊びでも探そうかと立ち上がりかけたとき、彼の腕が僕の背中を抱え込んだ。

 僕は、仲の良い兎が笑ったときに口から鋭い犬歯が覗いたのを見た兎みたいな気分になって、唾を飲んだ。

「何」

「今の面クリアするまでやってよ」

「でも全然ゲーム見てないじゃん。飽きたんだろ?」

「お前のこと見てるから」

 かちり、と犬歯が鳴る。

「ゲームしてるお前のこと、見てるから」

 ああ、と僕は溜息をつきたくなった。平然とそう言い放つ晃弘にも、そんな彼の言葉に咄嗟に上手く茶化すこともできない不器用な自分にも、クーラーが太刀打ちできない夏の暑さにも、うんざりだった。


 流石の夏も日の長さに呆れ、太陽を地平線の向こうに押し込める時刻になって、晃弘は部屋の床に俯せに寝転びながら言った。

「帰りたくないな」

 その口ぶりはどこか痛切に響いた。それで、親しい友達とまだ一緒に居たいというよりは、帰りたくないというこの人の願望が叶えば良いのにという、どこか同情めいた気持ちから、僕はこう提案した。

「泊まっていけば」

 ぱっと顔を上げた晃弘の目が僕を射った。僕は時間ごと部屋に張り付けられて、その口から次の言葉が出るまでの間、身動きが取れなかった。

 ちょっと親に電話してくる、と言って晃弘は部屋の外に出た。扉越しに聴こえる声の色は、僕と話すときと比べて少し暗い。

 僕らを現実に隔てているその扉を見つめながら、彼の心と世界の間にある、「扉」と喩えられるところのものに対して、自分自身が一体、どういった位置関係にあるのだろうかと僕は考えていた。彼の胸に恒星があるのなら、僕が見ているのはその光だけど、もしそうでないのなら、僕が見ているのは人感センサー付ポーチライトの光だ。できることなら前者であることを願うが、その場合、僕は光に引き寄せられる蛾みたく彼に近づくことで、脆い羽根も細い触覚も焼き切れてしまうだろう。

 扉が開き、晃弘が言った。

「泊まっていいって」

 彼のその目の輝きに、僕は心の中で自分の目を塞いだ。


 親の帰宅が遅い日だったので、冷凍庫をひっくり返して出てきたコロッケやら唐揚げやらをレンジで温め、大盛りの白米と一緒に腹に詰め込んだ。冷凍だってわかっているのに美味いとしきりに言う晃弘が健気だった。彼が風呂を出て部屋に入ってきたとき、自分の家のシャンプーの匂いをさせているのが妙で思わず笑ってしまった。なんで笑っているのか聞かれたが、最後まではぐらかして答えなかった。

 またゲームをして、テレビを観て、学校の話なんかしていたら、もうだいぶいい時間になってしまった。次の日は土曜日で、僕は部活も休みだったが晃弘は近くの学校との練習試合があるということだったので、あまり遅くまで起こしておくわけにもいかなかった。パジャマも布団も、数年前に結婚して家を出た兄のものを貸した。

 ベッドに入り、電気を消して「おやすみ」と言うと、晃弘は返事をしなかった。それでちょっと拗ねて、彼に背を向けて眠りに就こうとすると、晃弘が言った。

「お前、好きな子とかいるの」

 それはあまりにも使い古された質問で、中学校の修学旅行のときですら気恥ずかしくて誰も口にしなかったそれを、大真面目な声色で言ってきたのにまず驚いた。

 その時、僕は同じクラスに好きな女の子がいた。笑うときに顔の前で手を拝む仕草が可愛らしい子だった。だが、その子の名前を晃弘に言うのにはどうしてか抵抗があった。僕が口にした彼女の名前が、晃弘の耳に入ることを想像すると、えも言われぬ吐き気が起こった。この二人は、自分の心の中の別々の空間に置いておきたい。何かそんな風に思っていた。

「言いたくない」

 僕はそう答えたが、晃弘は食い下がってきた。

「その言い方、絶対いるじゃん。言えよ」

「だから言いたくないって」

 冗談めいたトーンで誤魔化しもせずにしつこく聞いてくる晃弘に、少し鬱陶しさを感じ始めた頃、背後から、足音と気配と体温が近づいてくるのを感じた。断る間もなく、僕の背中側のスプリングが少し沈んだ。

「お前がどうしても言わないなら」

 晃弘はその続きを口にしなかった。昼間には左耳を摘まんだ晃弘の手が僕の頬に触れた。さっきよりも温度は高く感じた。部屋は暗くて、壁とカーテンの境界すらも曖昧な闇の中で、どうして僕の頬の位置がすぐにわかっただろうと不思議に思っていると、その硬い指が顔の中心に向かって滑り、唇の位置を確かめた。

 僕は驚いて体の向きを変え、仰向けになって彼の顔を見ようとした。すると、その二つの目だけが暗闇の中で、猫の瞳のように光っていた。

 その光で僕は知った。彼にとっては、僕こそが光なのだ。僕の知らないその光を、彼は自分の内に吸い込んで、瞳の奥で反射して、僕に眩しく見せている。それに気づいたとき、何だか涙が出そうになった。

 その光が、少しずつ大きくなってくるのをぼんやりと眺めているうちに、僕の唇に彼の体温が直に触れた。

 繋がった僕らの柔らかい裂け目を通して、彼の内側で渦巻いている暗い欲望が僕の中へと注がれる。彼が僕に覆い被さると、唇同士で触れている部分以上に、布団越しに感じる彼の体温が熱く僕の皮膚に染みてくる。深く沈んだベッドの底に、自分の身体が落っこちてしまいそうになる。暗闇が僕を吸い込んでいく。その感覚に戦慄し、異なる温度の混ざり合った唾液を飲み込んだ。

 すると、唇がぱっと離れ、晃弘は立ち上がり僕から離れた。そして布の擦れる音がした。布団に戻ったのだな、と思った。

「おやすみ」

 さっき僕がそう言って無視したのに、何事もなかったかのように今更そう挨拶を返してきた。そして僕らはそれ以上何も会話を交わさず眠りに就いた。


 翌朝、目を覚ますと晃弘はもう起きて布団を畳み、自分の服に着替えて荷物の準備をしていた。

「朝飯は?」

 ベッドに寝たままそう聞くと、彼はこちらを振り向かずに「部活行く途中にコンビニ寄って買うわ」と言った。

 部屋の時計に目を遣ると、休日に起きるにはまだ少し早い時間だった。また目を瞑り、意識と無意識の狭間を漂っていると、晃弘が扉を開けて、部屋を出ていく音がした。

 僕は体を起こし、傍らにあるカーテンを開けて晃弘を見送った。

 夏の日差しが照りつける、真っ白な坂道をのぼっていく。離れていくごとにその姿が小さくなっていく。長い坂の頂上に至ったとき、彼は光の粒になって消えた。

この作品は別サイトにて2024年5月6日に投稿したものです。

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