愛されたくて、嬉しくて
今週は掃除当番だった。ぼくは教室の掃除を終えると班の人たちに挨拶をせずに下校する。徒歩で15分くらいだからと自転車ではなく徒歩で登下校している。登校時は最短の道を選び、下校時は少しだけ回り道をする。こうやって最短の道から5分だけでもかけて道をそらすと、この20分すべてが自由な時間であると感じられた。
「ただいま」
挨拶はかかさない。家ではね。
「おかえりー」
母がいつものように返す。今日は仕事じゃないみたい。母は週4日でリモートワークをしている。ぼくは母がなんの仕事をしているのかは知らないけれど、仕事をしているときは2階の仕事部屋にいる。仕事中はぼくのただいまの言葉に、なにかが返ってくることはない。
「なんかお菓子ない?」
今日は疲れた。掃除当番なんてよくわからないものをやらされると疲労が体の奥底に沈殿する。ただでさえ授業でも疲れているのだから、なんてひどい仕打ちなんだと心底思う。 奥底にたまった沈殿物を甘めのチョコレートで溶かす。家にはチョコレートが常備されているのだろう。ぼくの目の届かないところに隠しているのか、自分で見つけられたことはない。お菓子を欲すると、母はいつも「じゃあ部屋で待っていてね」と言い、5分後くらいにチョコレートとお茶を持ってくる。チョコレートはいろんな種類があるらしく、今まで同じチョコレートが与えられたことはない。お茶はいつも同じお茶だと思う。よくわからないけれど。
この時間でいつも煙草を吸う。親から与えられるこの至福の時間を大切にしつつ、台無しにしたかった。台無しになったその残骸を眺めながらぼくはもう一本煙草を吸う。笑いが止まらない。ぼくの口からでる煙と笑い声の振動が混ざり合って見たことのない形に変わる。変わったあとすぐに窓の外へ消えていった。
その晩、父は帰ってくるのが早かった。
「5時に帰ってくるなんてどうしたの?」
父は真剣な顔で「夜ごはんの時に話すよ」とだけいって自室に戻る。いつもは母よりも優しい父のあんなに恐い表情を見たのは初めてだった。真剣だと恐い。そういうものなのだなと思った。
「実はな、おまえは俺たちの本当の子供じゃないんだ」
父の言葉は、ぼくと父を断絶するように置かれているお茶の入った透明なピッチャーを通り過ぎ、目の前のサラダを超えてぼくに衝突する。ぼくは口からそれを受け入れてそのまま笑い声にかえる。
「いいね、それ」
気づいたらそう口にしていた。そして咀嚼する。サラダも一緒に食べると、ドレッシングをかけ忘れていて味がしなかった。両親は黙っている。ぼくはちゃんと言葉を返したのだから彼らの番だと思うのだが。
数秒の沈黙のあと、父が口を開ける。
「おまえが煙草を吸っているのは知っていたよ。俺はおまえを怒るかどうか迷った。俺も20になる前から吸っていたからな。でもきっと実の息子なら怒ったような気がするんだ。自分の過去なんて棚に上げて怒る。おまえにはそうやって自分のことを棚に上げて怒ることが憚られる感覚があった。それで向き合うことにしたんだ」
最高のシチュエーションじゃあないか。彼らはきっとぼくを愛してくれている。血のつながっていない家族になれる。愛の結晶ではない愛の形。目で見ることができないだけで、それは何億年もかけてできたダイヤモンドよりも綺麗にみえた。涙があふれた。
「ごめんな」
父が言う。
違うんだ。彼は勘違いしている。ぼくはうれしくて涙を流しているんだ。うれしくてうれしくて、嬉しくて。
涙がしつこいくらいに流れると、やっと言葉をしゃべれるようになる。
「い、いままで、あ、ありがとう。これからも、よ、よろしくね」
心からの言葉だった。口から出たその言葉をみてみるとあまりにチープでありきたりな言葉だったなとまた笑ってしまう。
父も、母も、涙を頬につたわせた。彼らが何に涙を流したのかはわからない。ぼくの言葉か、笑顔か、あるいはこの空気か。
今度はちゃんとドレッシングをつけてサラダを口に入れる。シャキシャキとレタスが口の中で音を立ててコンパクトになっていく。シャキと音を立てる度に、まるでレタスの中からドレッシングがあふれ出てくるように感じた。もうレタスが音を発しなくなったところで飲み込む。胃に入ったものはもう味がしない。胃では味わえない。ただ血となり、肉となる。それがぼくを支えるに違いない。目の前のピッチャーを右手で持ち上げて空のコップにお茶を注ぐ。元の位置にもどすと、それは水になっていた。