第八話 ダイスケ
ニアはダイスケを、ポカポカと殴った。唸り声をあげながら何度も何度も殴った。ハルカの分も、お腹の赤ちゃんの分も殴ってやりたかった。
(よくもニアの前に顔を出せたにゃんね! 許さない!)
ダイスケはニアの小さなこぶしを、黙って全部受け止めた。その静かな様子が憎らしくて、腕に思い切り噛みついた。
(ダイスケのバカ! 人でなし!)
震えるほど強く噛みついたのに、ダイスケは痛がりもせず、腕から血が出ることもない。
ダイスケはニアが、両手を振り回して暴れている間もずっと、首の後ろを撫でていた。ニアがまだ普通の猫だった頃と、少しも変わらない撫で方だった。
ニアはくっきりと歯型のついたダイスケの腕を、今は人間の姿であることも忘れて、ペロペロと舐めた。
胸に耳をつけても、心臓の音は聞こえない。
(やっぱりダイスケはもう……)
ダイスケの腕の中は、懐かしい匂いがした。その匂いは、ニアに大切なことを、思い出させてくれた。
(にゃーはダイスケのことも、とても好きだったにゃん……)
ダイスケが座りこみ、落ちていた小枝を拾って、地面にガリガリと文字を書く。
『ニア、辛い想いをさせて、本当にすまなかった。でも、ニアがいてくれて良かった。ハルカを支えてくれてありがとう』
ダイスケの書く文字から、気持ちが流れて来る。ニアはそれだけでもう、充分だった。
わかってくれる人がいる。同じようにハルカを大切に想うダイスケが、ニアの頑張りを認めてくれた。
(にゃー、ダイスケの真似をしたにゃんよ。ハルカはそれを望んでいたにゃん。にゃーではダメだと言われているようで、どんどん苦しくなったにゃん……)
傷口に棘が生えて来てしまったようだった。ハルカがニアをダイスケと呼ぶたびに、痛みが走り血が吹き出す気がした。
『そうか……。でもニアのことも、ハルカはとても大切に想っていた。俺の真似なんてする必要はない。ニアはニアのまま、ハルカのそばにいてくれ』
たったひとりで頑張った。精一杯頑張った。でも、もうひとりじゃない。ダイスケはハルカのために狐火の市に来たのだ。ニアと同じだ。
あまりに唐突に心が軽くなって、自分でも呆れてしまう。
(ちょっとにゃーは単純過ぎるにゃんね!)
少し照れ臭くて、ニアはニャハハと声を出さずに笑った。
(ダイスケは、成仏しないにゃんか?)
『思い残すことがあり過ぎてな。それどころじゃない』
(ハルカと……赤ちゃんにゃんね?)
『ああ、最後にハルカと話したい。赤ん坊の顔も、ひと目だけでも見たい』
ダイスケが言うには、死んだ者は赤ん坊や妊婦に近づけないらしい。命のはじまりと終わりは、相入れない。
(ニアの身体を使うといいにゃん! あとは人間に化ける道具さえ手に入れれば……! ダイスケ、何か持ってるにゃんか?)
『コレを使おう』
ダイスケが差し出したのは、傷だらけでひしゃげてしまった結婚指輪だった。ダイスケは交通事故で死んでしまったらしい。
(こんな大切なもの……良いにゃんか?)
『ハルカより大切なものなんかない』
(そうにゃんね! この指輪でダメなら、にゃーの目玉を使うにゃん!)
お互いに覚悟は決まった。ダイスケとニアは頷き合って立ち上がった。
こうしている間に、もしかしてハルカが産気づいているかも知れない。さっさと取り引きを成立させて、ハルカの元へと戻ろう。
(まずは交渉してみるにゃん!)
二人が顔を上げると、静まり帰った広場のほとんど全ての者が、こちらに注目して鼻水を啜っていた。中には面をずらして涙を拭いている物もいる。
ニアとダイスケのやり取りは、すっかり妖たちの関心を集めてしまったようだ。
(ありゃー! 高位の妖には、隠し事も出来ないにゃー。筒抜けだったかにゃ?)
ダイスケが額に手を当て、ゴシゴシと擦る。照れた時、困った時の癖だ。こちらの持ち札がバレてしまった以上、交渉も何もない。
ダイスケが胸やズボンのポケットに手を入れ、他に何かないか探していると、狐面をつけた婆さまが、ゆっくりとこちらに歩いて来た。
恐ろしいほど高位の妖だ。ニアはピシリと固まって動けなくなった。
婆さまは、半分目を回して動けないニアに近づくと、いきなり耳にブスリと何かを刺した。
(痛い痛い! 何するにゃー!!)
ニアが耳に手をやると、どうやら人化の道具をつけてくれたようだ。婆さまの店の赤い小さなガラス玉の付いた耳飾りは、ニアが一番欲しくて何度も足を運んだ露店の品だ。
婆さまがヒラヒラと手を振ると、痛みが嘘のように引いていった。
ダイスケがひしゃげた指輪を渡すと、婆さまは小さくうなずいて受け取り、自分の店へと戻って行った。
どうやら取り引き成立で良いらしい。二人は並んで婆さまに、深く頭を下げた。
(ダイスケ、夜が明ける前に帰ろう。ハルカが目を覚ましたら、また心配をさせてしまうにゃん!)
狐火の市の、提灯の明かりが届く範囲から出ると、ニアは元の猫又の姿に戻った。ダイスケは徐々に身体が透けてゆき、やがて微かな揺らぎとなり、ニアの耳飾りへと吸い込まれてしまった。
(ダ、ダイスケ! 大丈夫にゃんか? 消えてしまっていないにゃん?)
『ああ、大丈夫だ。すまんが、ハルカの元へ運んでくれるか?』
(お安い御用にゃん! 行くにゃんよー!!)
尻尾をピンと伸ばして猫火を灯せ! お腹の底から湧いてくる妖力を、爪の先まで一直線に流せ!
「小さきあやかしと侮るな。尻尾に灯るは心意気の火! 毛皮を彩る赤は、熱き想いの色! 我は猫又、猫又のニア!」
妖力が赤い模様となって、ニアの茶トラの身体を彩る。口の中で大きく唸り声を上げ、ニアは思い切り地面を蹴った。