第10話 蹂躙
「フン。飛んだ茶番だなアダルブレヒト。弱者、狂者、そして愚者。こんな雑魚どもをーー真の英雄にして王たるオレの仲間に加えることなど、未来永劫ないわ」
「おや、お帰りですかな時の君?」
「無論。真の英雄にして王たるオレが無為に過ごしていい時などない」
コツコツと靴底が石床を叩く音が響く。
すぐにその音は小さくなり、そして消えた。
「あらまあ、行ってしまわれた……。あなたたちがノロノロとしているからでございますな。それはそうと気分は切り替えましょうぞ。さあ皆さま続きをどうぞ!」
カナタはつい膝をついてしまいそうになるのを、決死の思いでこらえていた。
今ここで膝をつけば、決して立ち上がることはできない。背中にのしかかる絶望の重さに、潰れてしまう。
ただそれは単なる虚勢。
すでに記憶喪失の不安などは胸の奥底に追いやられている。今心がさざめき、口が乾き、目の奥が暑くなるのはひとえに怒り。
今ここで感情にまかせて泣き喚くことができれば、どれほど楽になれるだろうか。だが、それはできない。
なぜならば
「カナタ、くんーー」
ふと視線を横に向けると、雪乃が今にも泣きそうな瞳でカナタを見つめていた。
先ほどまで気丈に振る舞っていた雪乃だが、彼女とてひとりの、そして年端もいかない少女。
それは可憐や里穂も同様だ。
彼女たちはーー絶対に守り抜く。殺す殺されるなんて、絶対にさせない。
だからこそカナタは震える雪乃の小さな手を、確と握りしめた。
それだけで不思議と力が湧く。折れそうだった心に、ふたたび熱が宿る。
そしてそれは、「カナタを守る」と誓った雪乃も同様だった。カナタが握りしめた手を、彼女もまた強く握りしめる。今雪乃の瞳にも宿っていた、滾る熱が。
だからこそ、カナタは言ってしまったのだ。その言葉が希望になると勘違いし、絶望へと続くきっかけとなる言葉を。
「ジジイ! 俺たちは誰も殺さない! だからこんなことは無意味なんだってーーさっさとわかりやがれ!」
シンと、静寂が空間を包んだ。
今までも、静かだったカナタたちにとっての処刑場。しかしその言葉を放った途端、さらに静寂が増したように感じられた。
不気味なまでのーー静寂。しきりに聞こえた嘲笑すらもない無音。
その瞬間カナタは感じたのだ。何か、言ってはいけないことをーー言ったのではないか、と。
そしてそのカナタの直感は当たっていた。
「はあ。左様でございますか」
アダルブレヒトの声色が変わる。
柔和な、嘲笑しつつもどこか柔らかさを感じられる声はもう、聞こえない。
それはまるで氷。
子供がしきりに遊んでいたおもちゃに興味をなくしたような、一切の無慈悲がその声にはあった。
だからこそカナタは気づいてしまったのだ。つい先ほどまで、残酷ではあるがアダルブレヒトは一本の蜘蛛の糸を垂らしていたことに。すなわちそれは、生き残ったものだけは助ける、という希望。
だが今この時をもって、その糸はーー断ち切られた。
「では、リセマラしかありませんな」
感情のない声でアダルブレヒトがそんなことを告げる。
その言葉を聞いた瞬間、里穂が弾かれたように、驚愕の眼差しを天を向けた。
リセマラ?
ズズズ、と響く重低音。もし仮に、地獄の釜の蓋が開く音というのがあれば、それはきっとそんな音。
固く閉ざされ開かれることのなかった、闘技場のもうひとつの扉。その扉がゆっくりと開いた。
闇の中でかろうじて見えるそれは、歪だった。
かつて見たことのないような異形。光沢のある球体に手足が生えているが、目や耳といった感覚器らしきものは一切ない。
その球体に横一の線がはしり、上下に開かれた。ニヤリと。
そう、なにもないと思われたその球体には一つだけ、ある。
人間なら軽く丸呑みにできそうな、口が。
そして次の瞬間そのナニかは、視認できないほどのスピードで飛び出した。
「以前召喚した者が言っていたのですが、便利な言葉でございますな。良いキャラを引くまでやり直す。まさしく私が今やりたい一番のことなのですから」
猛烈な速度で飛び出したそれは、口だけの化け物。現実世界では決して拝むことは叶わない、魔物だ。
それは何かを咀嚼していた。
やけに綺麗な歯並びをカチンカチンと噛み合わせる度に、音が響く。
「雪乃……! 下がってろ、ーー【代償執行】を使う」
カナタはその魔物から視線をそらすことなく、手を握る雪乃に声をかける。だが、彼女からは返事がなかった。それも当然。あんな化け物を目の当たりにして平静でいられる人間など、いるはずがない。
「え?」
だからこそ気づかなかった、雨が降っていることにも。
雨が降る。地下であり得ないはずの雨が、降る。
しかもそれは、やけに生暖かく、色は朱。
わずかにカナタが視線を移す、するとそこにはあるべきものがなかった。
そう、確かにそこにあった。雪乃の頭が。
頭をなくした首からは血しぶきが吹き上がり、地下に降る雨の正体はそれであった。
「雪乃……?」
するりと握りしめた手がすり抜け、雪乃だった体がどさりと倒れ伏した。
「マズイ」
「ッ……!」
甲高い声で化け物が何かを吐き出した。
コロコロと転がったそれは、辛うじて人間の頭部だとわかるもの。
すでに瞳に光はなく、その胡乱な眼差しとカナタの視線が交錯した。
必死にこらえていた嘔吐感に、もはや抗えるはずもなく、カナタは胃の中の物を全てブチまける。
「あ、あれーーゆき、のちゃんは? どこ行ったの……?」
上ずった声で雪乃を探すのは里穂だった。先ほどの惨劇をまともに目にしていたはずだが、彼女の脳はそれを理解することはただひたすらに拒否していた。
「きゃ!」
覚束ない足取りで立ち上がりフラフラと歩きだした里穂は、先ほど化け物が吐き出した雪乃につまづくも、「それは違う、もんね、だってないんだ、もん。……ゆきのちゃん? ゆきのちゃん⁉︎」認識をしない。したくない。
「里穂……! だめだ、そっちは!」
「ゆきの! ーーどこ、どこにいピギューー」
地面というキャンバスに、真っ赤な花が描かれた。画材は、血と脳漿と、臓物。遅れてグシャという湿った音。フラフラと、化け物の方へと歩みを進めた里穂は、その化け物の撫でるような一撃、ただの一撃で物言わぬ肉塊へと成り果てた。
「あ、あ……あ……りぃほ?」
先ほどはまで気丈に振る舞っていた可憐が、呂律の回っていない言葉で里穂の名を呼んだ。
当然ながらそれに対する返答は、ない。
カチンと、化け物はやけに綺麗で白い歯を嚙み鳴らした後、ゆっくりと口を開く。するとやけに大きな舌をカナタたちに見せつけ、ゆっくりと血で濡れたみずからの腕を舐め掬った。
「ドイツモ、コイツモーーヨワい。ヶドハラ、ヘッタ」
次に魔物が目をつけたのは、すでに動けない優哉だった。静かに、足先から咀嚼を始める。
意識がないのは、幸運。足元から化け物に咀嚼される光景を目の当たりにしなくてもいいのだから。
だが、残された者にとってその光景は悪夢でしかない。
人が肉になるその様を、その眼に焼きつけられる。ジワリジワリ、と。
「な……! く、クソ! クソッ!」
すでに化け物はカナタや可憐の存在には気づいているはずだ。それでも彼らを始末しようとしないのは、こういうことだろう。「アイツラモ、ヨワイ」
真樹が死に、雪乃との約束は果たせなくなった。それでも、自分の命に変えても彼女を守ろうと誓った直後の惨劇。
その結果はどうだ。雪乃は死に、里穂も死んだ。そして優哉も助かるハズがない。
まさにーー絶望。
だが、カナタの胸の中に去来する思いは、失望で虚無感でもなく、もっとドス暗いーー悪意。
「……ざけるな!」
いつの間にかカナタの右手には、支給されたロングソードが握られていた。
「……ふざけるな!」
だが、それを持っているからといって、あの魔物に敵うべくもない。あれを倒すためには、代償が、必要。
指一本の骨などではないーーもっと大きな代償が。
「ざけんなよ!」
そしてその悪意を抱いのは可憐も同様だった。彼女の震える声が響く。
顔は涙で濡れつつも、その瞳に宿るのはただーー怒り。
「ただ帰りたいって! それだけじゃねえか‼︎」
レイピアを握りしめたまま、化け物を睨み続ける。
「……なんで、ただーーみんなで帰りたかっただけなのに! ……ざけんな! こんな世界〈ピッ〉知ったこっちゃねえよ!」
可憐が言い終わらぬうちに、一迅の風が奔った。突風のように駆け抜けたのは化け物。残光を描いたのは鋭利な腕。
そしてその軌跡にあるのは。
「ーーあれ」
カナタが初めて可憐を見たときの感想は雪乃と同様に「美人」だった。派手な化粧と、着崩した衣装のせいで何か良からぬことを言う輩も確かにいるだろう。しかしカナタは、可憐のすっと通った鼻梁を好いていた。
白く高い鼻梁。その鼻梁に今、横一線に赤い線が引かれていた。いや鼻だけではない、彼女の顔に線がある。
「か、カナ、た……?」
マリオネットのように、可憐はその顔をギギギとカナタへと向けた。そして助けを求めるように一歩足を踏み出すと、ズレた。
その線を中心とし、わずかに顔面の上半分が。そして、
「たしゅ、けー」
ずるりと、そのズレた顔面が地面に落ちる。
「やパリ、ヨワイ」
残された下半分。その切断面から血の噴水が吹き上がる。そのままもう一歩だけ歩き、可憐は音を立てて地面に崩れ落ちた。