なろうの最強系主人公って、もう寿命じゃないか?
駄文による主張のようなものです。
でも、書かずにはいられませんでした。
『最強』『無敵』『無双』『覚醒』『万能』『チート』
これらの単語がタイトルにある小説がランキングに多くあがるようになってから、私はため息をよく吐くようになった。
―――またか、と。
別に私はこれらの要素が嫌いなわけではない。むしろ好きな方だと自分では考えている。
そう、大好きだったはずなのだ。
以前はこんな感情など抱くことなかったはずなのに、しかし今は何故か、空虚さに似た何かを感じるのだ。
私が年を取ったのもあるのかもしれない。
社会に出て、現実を知ったからなのかもしれない。
最近のなろうアニメに頭をやられたからだろうかと思うこともある。
しばらくその理由を考えていた私は、何故かあるアニメのことを思い出した。
それは『天元突破グレンラガン』
私のアニメ史におけるバイブルとも言える作品だ。
あのアニメもまあ、上記の要素を多分に含んでいる。
ライトノベルという分野と比べるのがそもそも間違っているとは思うのだが……私の中の面白さの最高点はあのアニメなのだ。
冴えない少年だった主人公シモンが、多くの出会いと別れを経験し大人になっていく物語は、あらゆる面で当時の私の心を震わせた。
抑圧された世界から解放された時の、世界の広さ。
心の兄貴カミナの熱い口上と決して諦めない姿勢。
それまでの概念を覆すガンメンという名前まんまなロボット。
戦いを通して深まっていく仲間との絆。
ライバルの出現、強敵の存在。
危機的状況に現れた同士たち。
四天王との壮絶な死闘。
そして、カミナとの永遠の別れ。
……書き出そうとすればまだまだこんなものではない。
何年もの時を経たというのに、今だに彼らの姿を鮮明に思い出せる。それほどに印象的なアニメだった。
その上で、今のなろう主人公について話をしていきたい。
なろうばかりではないが、キャラクターの多様性は実に複雑怪奇となっているだろう。
王道邪道と、この二つだけでは判断できなくなってきている。
その中で、最強系主人公というのは娯楽という点において実に素晴らしい存在だと私は考える。
私たちが小説を読んで楽しい、と感じる。その楽しいという感情にも種類があり、最強系主人公における楽しいは『爽快感』と『安心感』だと私は考えている。
仲間が死んだりしない、危機的状況はすぐ解決する。
悪は瞬く間に滅び、優しい人たちが苦しむこともない。
何故なら主人公は最強だからだ。どんな問題があろうと意図も容易く解決してみせる。
この爽快感、安心感は実に読みやすい。日常のちょっとした時間を利用しての読書にぴったりだ。ごくごく簡単にスカッとした気分を味わえるのも最高だ。
―――しかし、だ。
しかし、その面白いものが、あまりにも溢れかえっていないだろうか。
どんなに素晴らしいものであっても、あまりにも多すぎではないだろうか。
ありふれたものとなっていないだろうか。
あって当たり前のものとなっていないだろうか。
有り体にいってしまうなら―――
―――陳腐になってはいないだろうか。
最強モノというテンプレが溢れかえり、その部分にだけ焦点が当てられた作品。
最初は面白いだろう、そりゃあそうだろう。
何故ならこれまで私たちが見てきたアニメ、漫画、ゲーム、小説、ドラマ。それらのハイライトであるはずの『主人公が最強になる瞬間』が、『主人公が格好よく活躍する瞬間』が、ストーリーの最初にくるのだから。
面白くないわけがない。
だがしかし、私は最近になって思うようになったのだ。
その最強には、最強と言われるものには―――『尊さ』を感じないということを。
尊さ……格好いいかどうかと言い換えてもいい。
人によってそれはときめきであったり、燃えるって表現になるかもしれない。
単純に言えば好きかどうかって話になるのかもしれない。
いやこのさい表現はどうでもいい、つまりは心を動かされるかどうかということだ。
私にとって最強とは、尊いものだ。あまりにも尊い。
何故ならこれまで私が見てきた最強とは、その多くが苦行の果てにあるものだったからだ。
傷つき、失い、奪われ、壊され。
だが……だがしかし! それでもなお彼らは立ち上がってきた!!
どれほどの絶望があろうとも、困難が立ちふさがっていようとも!
もがき苦しみ、地に転げようとも!!
立ち上がったのだ……彼らにとって大切な、譲れない何かのために。
その果てに手に入れた特別な力だからこそ、最強というに相応しいのだ。
最強と呼ばれることに深い納得がある。
……さて、ここから先は明確な批判になる。
しかし私が抱える感情に結論を下すには、ここをぼやかすわけにはいかない。
私個人の感想であることをよくよく理解していただき、これからの主張を聞いていただきたい。
では、私の結論を語ろう。
現在のなろうにおける『最強系主人公』は、寿命を迎えつつある。
その根拠、理由としては、テンプレによる陳腐化にあり、安易な最強設定によりキャラクターの発展性が死滅しかけていることだ。
強くなっていく過程の短縮によってキャラクターの深みがなくなった。
最強というものが持つはずの重みが消失した。
安易な解決手段によって、仲間の存在がいらなくなった。
伝説の存在が伝説でなくなった。
強敵がいなくなった。
ピンチがなくなった。
困難がなくなった。
精神的な成長が、なくなった。
……虚しくないだろうか。
あまりにも、虚しくないだろうか。
なくなっていくものばかりだ。
私が愛したものが、失われていっている。
ストーリーの山も谷も、何なら鬱展開も、私は愛していた。
何故なら主人公は、それを乗り越えていくからだ。
それは当たり前じゃあない。
悩み、苦しみ、怒り、嘆き、悲しみ、もがき、絶望し。
それでも、それでも前進の一歩を未来へと向けてきたからだ。
きっとこいつならやってくれる、そんな期待があったからだ。
応援していたからだ。
その背中を押したかったからだ。
彼らがたどり着く先を、一緒に見たかったからだ。
だが、それらはなくなった。
『最強』という最終兵器によって、分かりきった結末を予想できるようになってしまったからだ。
例えどんな問題が起ころうと、主人公が解決してくれる。
そんな分かりきった結末に、どう心を震わせればよいのだ。
……自分でそんな作品が生み出せればよかった。
これが最強系に対するアンチテーゼだと示せるような、そんな作品を作り出せればどれだけよかっただろう。
しかし私には今だその域に至れるだけの力量がない。
悔しくてたまらない。
私にはこんな稚拙な文章を書き散らすことしかできない。
違うのだと叫ぶことしかできない自分が、情けなくて仕方ないのだ。
……改めて、私の結論を語ろう。
最強系主人公は、寿命を迎えつつある。
コピー&ペーストによる劣化によって、娯楽作品が持つべき意義を失いつつあるからだ。
私はこの場を借りてあなた方に問いたい。
これから向かう先を、私たち素人物書きが目指すべき作品の姿についてを。
感想でもいい、メッセージでもいい。
開けというならば活動報告も開こう。
あなたたちの意見を、どうか聞かせてほしい。
これにて私の主張はおしまいです。
読んでくださった方、ありがとうございます。