9.聖女の目覚めと脱走 その顛末①
「エリ、本当にここで間違いないのよね?」
「アスティア様……何回目ですかその質問。間違いありませんよ! クインさんの目撃情報と、客室の帳簿まで確認してきたんですから。それに、アスト様の事聞くんですよね?」
「だって、間違って入ったら大変じゃない……」
私はエリに何度も確認するが、不安でしょうがない。こんな風に人に会うのが初めてだって気付いてしまった。今までは向こうから会いに来てくれたから。
「ノックしてくれない?」
うっ……エリのジト目が私に突き刺さる。
「わかってる、わかってるわ……よ……ふーーっ」
軽く拳を握り、目の前の白いドアに二度当てた。コンコンと軽い音が耳を撫でる。
「静かね」
「返事ないですね? まだ寝てるんでしょうか?」
「もう夕方よ? それはないと思うけど……お腹だって空いてるだろうし」
もう一度……
「もう、どいて下さい! 起きてますかー? お客様? こっちもお客様ですよー?」
ドンドンドンッ! またも音色が耳を撫で……いえ、震わせた。エリがおもむろに両手を上げてドアを叩き始めたのだ!
「ちょっ……ちょっとエリ! 何やってるの!?」
驚いた私を置き去りにして、ドアに耳を当てるエリ。もう固まるしかない。
「……やっぱり起きているみたいですよ? 音がしますから」
貴女やっぱりクインから教育を受け直してもらいましょう、お寝坊の事もあるし。
懐から鍵束を出すと戸惑う事なく鍵をより分け、エリは鍵穴に差し込んで回した。
とにかく今は部屋の中ね。
「入るわよ?」
ドアをゆっくり開けると、カーテンが閉められたままなのか中は薄暗い。ぼんやりとベッドの上に上半身を起こした小さな体が見えた。
「やっぱり起きてるじゃない……返事くらいしなさいよね!」
兄様が大事そうに抱いて帰ったらしいその姿を見た瞬間、僅かな怒りが浮かび口調がきつくなってしまった。もう遅いけど少し後悔……この子も驚いたみたいで体が震えるのが見えた。
「エリ……カーテンを開けてくれる?」
「はい、少しお待ちを」
エリが窓の方に行くのを目で追ったあと、もう一度ベッドの上の少女を見てみる。明るくなった部屋にいるその少女が目に入って、胸が締め付けられたようにギュッとなったのが分かった。
凄く珍しい漆黒の髪は肩口で切り添えられている。瞳が綺麗……深い翡翠色で光が当たると少し明るく見えるのね。何処か不安そうだけど、さっき怒鳴ったから……肌も不思議な色合いだけどシミとかも無い本当にお人形みたいね。群青のワンピースかな? 少し慎ましやかな胸もこの子の雰囲気にぴったり。首には何だろう? ゆったりとした薄手の絹だろうか、何かを巻いてる。
「はぁー……確かに綺麗な子ですねぇ。でも不思議な髪だし、目もあまり見ない色だなぁ」
エリが無遠慮に近づいて容姿の品評を始めたので、頬を抓ってこっちに引っ張る。ほらこの子だって戸惑ってるじゃない!
「エリ! 失礼でしょう! おバカ!」
「痛いです……アスティア様……」
「反省しなさい! まったく!」
とにかく……とりあえず挨拶しないとね。
「驚かせて御免なさいね? 私はアスティア、アスティア=エス=リンディア。このリンディア王国の王女よ。こっちはエリ、私の侍女」
彼女の美しい眼を見ながら声をかけたんだけど……どうしたんだろう? 酷く困惑した様子であちこちに目をそらしている。
なに? なんなのよ?
「ちょっと……挨拶くらい出来ないの? こっちをちゃんと見なさい!」
思わず近づき顔を両手で挟んでこちらに向かせようとしたら、慌てたのかベッドの上を後退りして向こう側にバタッと落ちてしまった。落ちた拍子に白い下着と、何かが描かれた太ももや足が目に飛び込んできたが、先ずは怪我が心配だ。
「……大丈夫!?」
ベッドの淵に手を置き立ち上がったのを見てホッとするのも束の間、喉や口を指さして何かを訴えている。ここまでくれば私も理解できた。
「あなた……喋れないの?」
彼女の手を取りベッドにもう一度座らせる。私はエリが運んで来た椅子に腰掛けて思わず頭をひねってしまう。
「困ったわね……これじゃあ何も分からない。エリ、どうしたらいいかしら?」
「アスティア様。筆談すれば良いのではないですか?」
エリにしては鋭い助言ね! 何かを察したのかまたジト目になったのは置いておいて、それでいきましょう。
「そうね、ペンと紙を用意してくれる?」
エリは部屋の窓側にある机の引き出しから紙を何枚か取り出し、合わせてガラス製のつけペンとインク壺を用意した。
「クインさんは筆派でしたけど、アスティア様はやっぱりペンですよね」
「羽筆は苦手……クインみたいに綺麗に書けたらいいのだけれどね」
有能さを体現するクインの文字は、本当に美しいのだ。
「どうしたの?」
何故か目の前の少女が引き出しの方をチラチラと見て落ち着かなくなるのを見ながら、その引き出しを戻そうとして止まったままのエリに声をかける。
「うーん……確かここにはペーパーナイフと鋏があったはずなんですけど」
「ふーん、まぁいいわ。さてと、ワタシノナマエハアスティアデス、アナタハ?っと」
サラサラと簡単に書き込んだ紙を黒髪の少女に見せた。
紙を暫く眺めていたが、彼女のその翡翠色の眼から涙がポタポタと溢れるのを見て思い切り動揺した。
「どっ……どうしたの? あなた、大丈夫?」
俯き、ぐっとその細い腕で荒々しく涙を拭う。側にあった枕の下から光るものを握って立ち上がったと思うと、ドアを勢いよく開けて走り去って行った。
突然過ぎて訳もわからず、呆然としてしまう。
「な、なに? どうしたの!?」
エリを見ると同じくポカンと口を開けてドアの方を見ていた。
「ア、アスティア様。とにかく誰かに知らせないと……クインさんでも、アスト様でも」
「そ、そうね! 急ぎましょう!」
○
○
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カーディルとの会話を終えたアストは、クインを探していた。
少女の状態も気になる上、黒の間で保護する事も決まった。刻印の事も何か判明したかもしれない。何よりも、またあの少女に会いたい……そんな事を思いながら階下に降りてきた。
先程会った者によると、クインはコヒンのところにいるらしい。おそらく刻印の事について早速話しているんだろうとアストは歩みを進める。
コヒンは文献等の保管庫のすぐ横に配置してある元は司書が居た部屋を独占して日々神代文字を研究している。宰相を引退する時にカーディルに願った褒賞がそれだった。
「クイン、いるか? 入るぞ」
軽くノックをして少し重いドアを開ける。蝶番が悪いのかギィと音を立てた。
この狭い部屋に対して巨大と言っていいテーブルを挟んで手前にクイン、反対側には頭の髪を剃り上げている小柄な老人が座っている。クインによく似た青い眼をしたその老人こそ、リンディアの元宰相で今は自称神代研究家のコヒン=アーシケルだ。そしてクインの祖父でもある。
部屋の壁には大量の本棚に並ぶ本や巻物があり、天井まで埋め尽くされている。すえた黴の匂いが鼻につくが、アスト自身もこの匂いが嫌いではない。少し暗いがテーブルの上にあるランプが淡く部屋を照らしている。幻想的と言ってもいいくらいだ。
「おお、殿下。こんなむさ苦しいところにようこそおいで下さいましたな。クインなら随分前からおりますぞ」
「殿下……お呼び頂ければいつでも参ります。自らが使用人を探すなど、どうかお控え下さい」
ある意味対照的な答えにアストは思わず微笑んだ。
「ふふっ、二人ともありがとう。クイン、あの子はどうだ? 怪我の具合も見て貰えたか?」
椅子を本の山から引っ張り出して座りつつクインの方を向く。
「はい、今は客室の一室に寝かせてあります。怪我とは左手の事でしょうか? 傷口も塞がり、血色も心音も特に問題ありませんでしたので、一先ずは大丈夫かと思います。外から鍵も閉めましたので、誰も入れないでしょう」
「そうか……良かった、クイン改めて礼を言うよ」
「殿下……」
「分かってる。使用人に礼は不要だろ? でも言いたい気持ちなんだ。受け取ってくれ」
「……はい」
「コヒンも聞いてくれ。先程父上に全てを話した。城内での保護、黒の間を彼女に開放する事も許可して貰ったよ。当面は刻印やその力に関しての情報は伏せる事になる。未知数な上、彼女の意思も確認出来ていない。それに、半端に知られてしまえば良からぬ事を考える者もいるだろうからな……おっと…コヒンは詳細を聞いているか?」
「ほっほっ、クインから聞いておりますぞ。お命が助かって本当に良かった。その娘には感謝しなければなりませんのぉ。そして何より刻印! あれは凄いですな! この爺いは久しぶりに興奮しておりますぞ!」
「ほう……その分だとあの4つもある刻印の秘密が少しは分かったのか?」
「殿下……その事ですが」
クインが馬車でのあの時のように、言いづらそうにしている。
「実は……」
「7つ、7つだって……? 嘘だろう? 詳しくない私だって、それがどれだけ異常な事なのか分かるぞ」
アストへ渡された紙には、刻印が刻まれている場所、判明している加護が簡単に纏められている。
「慈愛、癒しの力……憎しみ? 他に3階位の刻印だって!? しかも3つの刻印で? 首、下腹、脛。下腹が慈愛か……後の二つはまだわからないと?」
少女には何度も驚かされたが、まだまだ足りなかったようだ。
「殿下。これはまだ不確定な上に不明な点も多いのですが……癒しの力は最高位である"神"そのもの……つまり<5階位>ではないかと思われます」
その言葉に絶句し、クインの顔を穴が開くのではと言われるくらいに目を見開いて見詰めてしまう。
「5階位……5階位か……それではまるで物語に出てくる<聖女>のようだな。ほら、世界を救い王子様と幸せになる……」
自身が王子である事も忘れてアストがこぼした。
「おお……聖女……殿下、見事、見事ですぞ!」
刻印の描かれた紙は震えていて、コヒンの興奮を表している。
「この古き神代文字が何なのか引っかかっておりましたが、見た事があるのに出て来なかったのです。ですが思い出しましたぞ……聖女、癒しの力<聖女>です。間違いありません。 殿下……これは……神々の、神々の救いですじゃ……遂に祈りが届いたのです……!」
コヒンは目尻に涙を溜め、万感の思いを込めて天井を、いや天を見上げた。久しく感じる事の無かった神々の救い手。聖なる使徒、いや神そのものに等しい聖女が此のリンディアに……
そして、その感動はそのままアストへと伝わった。
「父上に伝えないと……日々の祈りが漸く届いたんだ。きっとお喜びになるぞ!」
アストは立ち上がり部屋を出ようとした。だがすぐにクインから声がかかり足を止める。
「殿下、お待ちください。お伝えするのはもう少し待って頂けませんか? 皆に聖女降臨を伝えられるのは些か早いかと」
「クイン……なぜだ? 父上だけじゃない。国民全て、いや世界が待ち望んだ救いかもしれないんだぞ!」
思わず声を荒げたアストにも動じず、クインは淡々と言葉を重ねる。
「つい先程殿下ご自身が言われました。彼女の意思を聞いていないと。意識のない彼女を無視して事を進めるのは感心致しません。殿下はそれで良いのですか? それに……」
「それに……?」
クインの言った事は尤もだと、心を落ち着かせて席に着き耳を傾ける。
「残りの刻印が気になります。判明した中で一つだけですが……此れは"憎しみ"を表す刻印です。慈愛を持つ彼女に憎しみの刻印など不自然だと思いませんか? 明らかに相反する刻印です。お祖父様、先程殿下が来られる前に言われた事をもう一度お願い出来ますか?」
コヒンも少し落ち着いたのか、今は椅子に座って前を向いていた。
「うむ……実は先程刻印を刻んだ神は誰なのかを話しておったのです。これを見て下され」
テーブルにあった幾つかの本を避け、出てきた古い文献をアストに見せながらコヒンは続けた。文献には鎖のような紋様が数多く描かれている。間違いなく覚えのあるものだ。そう、最近目にしている。
「一般的に刻印、つまり加護は白神が与えると言われております。よく知られているのが癒しや慈愛ですな。しかし我々人間は時に憎み、哀しみ、痛みを覚えます。それは悪いことのように思えますが、人が生きていく上で必ず必要な事ですじゃ。誰か近しい人が亡くなった時に痛みを覚えず、哀しみもしない。それが果たして人間と言えるのでしょうか?」
アストは母アスを、そして自分を庇った騎士テウデリクを想った。
「黒神か……昔コヒンに習ったな」
「おお、その通りです殿下。正しく黒神ですじゃ」
先程の鎖の紋様をその白い指でなぞりながら、クインは話を引き継ぐ。
「おそらくあの子に刻印を刻んだのは黒神、黒神のヤト。憎悪、悲哀、痛みなどを司る強力な神……」
「太古から生きる一柱ですが、慈愛や癒しを司る白神ではありません。決して邪な存在ではないですが、素直に<聖女>だと受け止める訳にはいかない……何か大変な落とし穴があるかもしれないのです。殿下、お判り頂けましたか?」
「ああ、よく分かった。確かに安易な判断は許されないだろう……ありがとう」
クインが居てくれて本当に良かったと、アストは熱くなった息を吐き出した。
ーードンドンッ
強めに叩かれ、アスト達三人はドアの方を振り向いた。
「誰だ?」
「兄様!いるのね!? 大変なの!」
血相を変え、ドアを勢い良く開けて入って来たのは、アストの妹でリンディアの王女であるアスティアだった。
「っと、どうしたアスティア?」
胸に飛び込んできた妹を優しく受け止めて、兄は聞いた。
「大変なの! 兄様が連れ帰った子が……あの子が部屋から飛び出して……居なくなってしまったの!」
アストとクインはお互い目を合わせて、慌てて部屋を飛び出して行った。