エピローグ 中編 〜其処に在る意味〜
聖女の間に一時の沈黙が舞い降りた。
横たわるカズキは身動ぎ一つせず、呼吸すら感じられない。
ヤトは暫く聖女を愛おしそうに眺め、そして再び皆に向き直る。落ち着いた声が響き始めた。
「何から話そうか……そうだね、先ずは今のカズキの状態を説明しよう。君達も心配だろうから」
アスティアもアストの背から離れ、カズキに寄り添いヤトを睨む。未だに怒りは治らなかったのだから仕方がない。ヤトも気付いているだろうに、それを受け流していた。
「カズキは……生きているのか……?」
アストは何度も否定し、それでも頭に浮かぶ嫌な思いを口にした。
「ああ……生きているとも、生きていないとも言える。ただ、エントーはカズキに気付いてはいない」
「死と眠りの黒神……もし、エントーに気付かれたら……」
「カズキは死ぬ。それがエントーの加護そのものだから」
「どうしたらいいの!? カズキが死ぬなんて絶対に許さない!」
「あの加護は救いの一つだけど……君の気持ちは分かるつもりだよ。だから僕が来たし、このままにする気は無いさ。今のカズキは魂魄を酷く削った状態だ。癒しの力を行使するために自分で捧げたんだよ。あれだけの奇跡を起こすには必要だったのだろうね……」
「だろうって……貴方にも判らないのですか?」
「聖女の刻印は僕の及ぶところじゃ無いし、最後の決断はカズキ自身が行った結果だ。出来たのは聖女の刻印に力を注ぐ手助け、いや……小細工だけ。普通の人では耐えられない力だから、少し弄ったんだ」
以前のコヒンやクインの考察は正しかった。人は5階位の刻印に耐えられず、すぐに魂魄を失ってしまう。それを阻止する為、ヤトは新たに刻印を刻んだ。そして癒しの力を聖女へと変容させたのだ。捧げるのはカズキの血肉……それは酷く残酷だが、ヤトは踏み切った。
「そんな簡単に……カズキがどれだけ苦しむか想像出来なかったの⁉︎」
「アスティア。カズキが苦しむだろう事は理解していたつもりだよ。それに関しては謝るしか無い、いや謝る資格もないか。でも……愛するこの世界を救うには時間も力も無かったんだ。魔獣の脅威は日に日に増し、白神の加護も失われていく。だから僕はカズキを無理矢理に連れて来た。そこにカズキの意思は介在していない。つまり拐ったんだ」
「拐った……」
「白神の加護が失われていった? しかし現にカズキには白神の加護が……」
癒しと慈愛の刻印を何度も調べたクインが思わず質問を返す。
「ああ、その説明をする前に伝えておくよ。カズキは死なない。僕はその為に来たからね。だから安心して欲しい。ただ、全てが君達の希望通りになるか分からないけれど」
「私達の希望通り? どういう事?」
「カズキが選択する事だから……かな」
ヤトはそれ以上の意味を言葉にしない。
「じゃあ先ずは、カズキが誰なのかだね」
カズキが誰なのか。其れに全員が心を奪われ、疑問は隠された。
暖炉の炎は少しだけ弱まり、聖女の間に立つ皆の影が揺れている。けれど誰一人動かず、ヤトの言葉を待った。
「カズキは遠い場所から来たんだ。所謂、異世界だ」
「イセカイ?」
「異なる世界、僕達が居るこことは違う場所だよ。カズキが生まれた世界は……鉄の馬車が馬もなく走り、鉄の鳥で遠い国にも空の旅が出来る。沢山の人間が居て、君達が住むリンディアより遥かに巨大な国が幾つもあるんだ。剣や弓は戦いには使われないし、魔獣は元々存在しない」
アスト達は頭に疑問符が浮かぶのを止められなかった。全く意味が分からないし、別の世界など理解出来ないのだから。
「そしてカズキの世界には神々が居ないんだ。いや……居るかもしれないが、僕達の様に存在しないと言えば良いか。だから刻印も加護も無いし、救いなんて想像の産物だ」
「神々が居ない? そんなこと有り得ません。では人々はどうやって生きているのですか? 貴方や、エントーも白神も居ないなら生も死も存在しないではありませんか」
「クイン。キミの疑問は我等からしたら当然だけど……変わらないよ。人や生き物は親から生まれ、そして死んで行く。其れを長い間続けて世界を紡いでいるんだ。生も死も当たり前に存在し……神々の加護など無く、全てを自らに内包しているんだ」
最早全員は考えることを諦めるしかない。ヤトが言う通りに全く異なる世界なら、理解する方が難しいのだろう。しかし、アスティアだけはカズキの不思議に触れた気がして少しだけ嬉しかった。
「待って下さい。では何故カズキが刻印を? ましてや貴方は黒神。聖女の刻印に力を及ぼせないと」
「ああ、直接にはその通りだ。だから奇跡なんだよ。僕は凡ゆる世界を巡り、救済のきっかけを探していた。この世界にある力だけでは魔獣の脅威から守れないと気づいたからね。だけど……何処でも見つからず、残った力で最後に辿り着いた場所には神すら居なかった」
絶望したよ……ヤトは俯き、何かを思い出す様に笑う。
「そんな時……希望を見つけたんだ。何度も自分の目を疑い、暫く観察もした。刻印として現れてないけれど、カズキから癒しの力を強く感じたからね。更には慈愛までも。そう、正に聖女の素質を持つ人だった。けれど……足りない。その階位は2だったし、僕の権能は知っての通りだ。ところがカズキは同時に強い憎悪を抱き、痛みや悲哀も日常にあった。その精神の有様は加護を大きく与える事が出来る程で……想像出来るかい? 慈愛を抱きながらも憎悪を燃やし続ける心を」
「カズキは最初から自己愛に乏しかった。人を信じず、まるで何かに絶望しているようで……貴方に刻まれた刻印の所為だと」
そう返すアストや皆は刻印を刻んだヤトを憎みもした。そしてカズキの悲哀を想ったのだ。
「僕がカズキを弄ったのは事実だ。その罪は消えない。だけど無垢な赤子でもないと、全く存在しないモノに加護を与えるなんて誰にも出来ないよ。僕はこの子が持つ心に働き掛けただけ、そして利用した」
「でも、何を憎んでいたの? カズキは何時も優しかったし、誰かを傷付けたりなんてしなかったわ。強い憎悪なんて……」
アスティアはベッドに腰掛けカズキの頬を優しく撫でた。
「全てを。世界も人も、そして何より……自分自身を」
触れていた手が震え、側にいたアストは歯を食いしばった。クインやエリは悲しい表情を浮かべるしか無い。
「そ、そんな事、ある筈ないわ! カズキは……!」
「7歳の時、母親に捨てられたんだ。父親の顔なんて記憶にも残ってもいない。最も信頼出来るはずの大人に捨てられて、心を閉ざした。でも……そんなカズキにもっと辛い出来事が続く」
「嘘よ……そんなの……」
だが同時に全員が理解していた。聖女の封印を解く鍵は他でも無い、誰もが持つはずの家族の愛。それはカズキが持たざる者だと証明していたのだ。
「預けられた孤児院が良くないところだったらしい。そこで何年も……酷い虐待を受けていたんだ。皮肉にも癒しの力はカズキ自身に働き、傷付いた身体は簡単に治ってしまう。それなのに、何時も、毎日、何度も……怪我が絶えることは無かった」
「……だからあの時も」
治癒院でもカズキは自分の怪我を見せようとしなかったのだ。何時も他人の心配など無視する様に……傷ついた心が少しずつ垣間見えて、アスティアは胸が締め付けられる。
「そして孤児院の大人を憎み、自分を捨てた母親を他人だと思い込んだ。其れはより強い憎悪を産み、同時にカズキを成長させる。だけど……そんな環境なのに、決して慈愛を失ったりはしなかったんだ」
ハッとアストは顔を上げ、ヤトを見た。
「この子はある日思った。自分が孤児院の大人に興味を持たれている間、他の子は無事だと。だから……何度傷つけられても挫けず、時に笑ってさえ見せた。カズキは其処に救いを求め、幸せすら感じていたよ。自分の特異な力はこの為に、子供達を守る為にあると信じたんだ。この時まだ8歳、カズキだって小さな子供だ」
エリは聞きたくないと耳に両手を当てている。アストもクインでさえも、立っていられないと椅子に腰を落とした。
「自身が大人に近づいたカズキは憎悪を募らせ、遂には辛い現実を産み出す原因は自らの存在だと考えるようになる。僕が最初に見つけた時、カズキは叫んでいたよ……心の中で、世界や大人に消えて無くなって欲しいと。そして何よりそんな事を思う弱い自分が大嫌いだってね」
「では、刻印は……」
「君が解読したのだろう? 全てカズキが元々持つ強い感情を利用したんだ。自己犠牲も欺瞞も、利他行動や憎しみの鎖も、全てカズキと共に在った。だから言語不覚の呪鎖すら刻む事が出来たんだ。そして、僕はカズキの感情を利用して癒しと慈愛に無理矢理力を送った。幸い僕が司るのは憎悪、悲哀、痛み……全てをカズキは持っていたからね」
「そして癒しの刻印は聖女に変貌した?」
「その通り。僕はカズキの意思を無視して強引に刻印を刻んだ。人生と不幸を利用したのさ。だから罪は僕が償うしか無いし、君達が責めるのは当然だよ」
「全ては貴方が悪いと言うのですか?」
「そうだ」
「お祖父様が言っていました。貴方なりのやり方でカズキを守っていると。封印などせず、魂魄の容量すら無視すれば良い筈なのに……封印が解ける鍵は真の慈愛でした。カズキが心から求めていたのは家族との当たり前の愛。何故そんな周りくどい事を?」
「参ったね……憎悪や悲哀を司る神に其れを言わせるのかい?」
答えは既に出ているがクインは直接聞きたかった。それは何より、ヤトが決して悪神ではないと分かったからだ。今迄の言動にはカズキへの愛が感じられた。
「私も聞きたいわ。兄様もそうでしょ?」
「ああ、勿論だ」
「仕方ない……カズキは心の奥底で何時も想って、それを無理に抑え込んでいた。それはとても、とても強い願いだ。誰かに抱き締められて優しく大丈夫だよと呟いて欲しい、心から愛していると囁いて欲しいと、そう心から願っていた」
エリも塞いだ耳を再び傾けている。
「だから、もしかしたら……この世界なら救われるかもと思ったんだ。君達の様に、慈愛に溢れた人々が沢山いるこの世界ならばと。そして僕は賭けに勝った。カーディルやケーヒルは父として、ロザリーは優しくて強い母親、アスティアや君達は姉妹や友人として、騎士や森人は本当の大人の愛を、そしてアスト……君は一人の男としてカズキを愛した」
全ては奇跡だよ。さっきも言ったけど、たった一人欠けても世界は救われなかっただろうね……そうヤトは締め括った。
「カズキが救われたって最初に言ったのは……だから貴方は礼を?」
「ん、そうだね……奇しくも君達はカズキの心からの願いを叶え、そしてこの世界に癒しの光は降り注いだ。僕には感謝しかない。その慈愛と癒しは魔獣にすら届いたのだから」
「魔獣に、ですか?」
「ああ。魔獣はカズキとは違う、また別の世界から来たんだ。原因は今も分からないけどね。彼らは何時も苦しみ、恐怖に震えていた。訳のわからない世界に飛ばされ、周りには見た事もない生き物達。だから地中に潜り、暗い世界に閉じ篭もった。そして本能に従い敵を撃退するしか出来ない」
「カズキはそれを知っていたんですか?」
「僕にも分からない。でもまだ生きていた魔獣たちは元の世界に帰ったよ。聖女の癒しが彼らを救ったんだ」
「そうか……カズキは本当に……何処までも聖女なんだな……」
アストもカズキに寄り添い、その黒髪に指を這わせた。眠る聖女はただ其れを受け止めるだけ。
「さて、カズキが誰で、どうやって聖女となり、魔獣が何なのか……全てを答えた。後は僕の目的を果たすだけだ」
ヤトは一歩たりとも動かなかったソコから歩き出した。行き先は勿論カズキの眠るベッドだ。側にはアストとアスティアが腰掛け、反対側にクインとエリが佇む。
「今から削られた魂魄を修復し、肉体と心を復活させる。そして、聖女の刻印を再び封印する」
「封印だって⁉︎ まさかまた刻印を……」
「そうだ。5階位の刻印は彼女を縛っている。その力で癒されてはまた魂魄が傷つく、それを繰り返していて意識を取り戻せない。このままでは時間の問題だし……本当なら聖女の刻印を消したいが、それを可能とする神などいない。カズキはもう我等と同一の存在に等しい。だから人に近づけないと」
「そんな! じゃあまた刻印に縛られて、意思に関係なく人を癒すの? 自分を傷付けて……そんなの、そんなの……」
アスティアの呟きに悲哀が混じった。
「貴方は最初に私達の望む様にならないと……そういう意味だったんですか!」
そして、クインはヤトの想いを知りながらも叫んでしまう。
「カズキは皆に愛されているんだね……本当に良かった」
「茶化さないで下さい!」
「茶化してなどないよ。説明は途中だ、先ずは聞きなさい」
此処で初めて皆は目の前にいる存在が神だと実感した。心にあった憎悪は瞬時に消え、口を閉じ耳を傾けてしまう。
「刻むのは言語不覚の1階位、それだけだ。多少耳が不自由になるし、話す言葉は片言になるだろう。しかし心に作用する刻印は刻まない、それは約束する。だから、カズキを守る為に理解して欲しい」
「1階位……私達の名前を理解、ううん、意味など分からなくても呼んでさえくれたら……」
「アスティア。カズキは君達の名前を既に理解しているよ。言葉を紡げなくともそれを知ったんだ。アスト、君なら知っているだろう?」
ヤトは笑みを浮かべ、我が子を見る様に優しい眼差しを送った。
「今となっては幻だと思っていたが……やはりあの時……」
「兄様……?」
「ああ、ヤトを信じよう。後で話すよ、聞いて欲しいんだ」
アストはアスティアの頭をポンと叩き、笑った。
「では、少し離れていてくれ」
アストはアスティアを伴い、ベッドから数歩離れる。
「そうだ……もう一つ大事な話をしないといけなかったね。君達は知るべきだ」
ヤトはカズキに伸ばした手を戻し、顔を上げた。




