72.叫び
「よし、これなら次も……」
ケーヒルはもう勝利を疑ってはいなかった。懸念していた魔獣の戦い方に変化は無く、此方の戦力は寧ろ高まったのだ。癒しの力は全ての不利を覆し、何より皆の士気は衰えない。
まるで自分達を見守る様に聖女は寄り添う。
復帰したアストも剣を振るっている。森人は疲れを知らずに弓を操っていた。
「みんなご苦労だった! 次に備えて休息を取ってくれ!」
アストは皆を労いながら後方へと下がった。誰を見ても士気は旺盛で、声を掛けるまでもないと笑ってしまう。
「殿下も休息を……水をどうぞ」
ケーヒルも水袋を手渡して笑った。まだ魔獣の数は膨大だが、負ける要素が無いのだから当然だろう。
「……ふぅ、ありがとう。今回は死者も出なかった。このまま何も無ければいいが」
「そうですな……油断は出来ませんが、魔獣に打つ手はありますまい。例え再び城壁を崩したとしても押し返す事も可能です。燃える水も補給出来ましたし、矢も潤沢。もしかしたら我等に新しい時代が訪れたのかもしれませんな」
ケーヒルは饒舌になり未来に想いを馳せる。もしカズキに負担が少ないなら、森へと侵攻する事が可能かもしれないのだ。失って久しい森が再び人の手へ帰る。忍び寄る絶望は希望へと変わっていくのかもしれない。
「新しい時代か……」
視線を上げればノルデに甲斐甲斐しく世話をされるカズキの姿が目に入る。何処から持ってきたのか中々に大きな椅子に腰掛け、両手でカップを持っていた。あの中身は流石に酒では無いだろうが、そんな事を思う余裕すらある事に苦笑するしかない。
「殿下、カズキの元へ行かないのですか? 此処なら任せて頂いて大丈夫ですぞ。我慢などする必要もないでしょう」
視線が何処に向いているのか分かり、ケーヒルは久しぶりに軽口で冷やかした。何時ものアストなら馬鹿を言うなと顔を赤らめて否定するだろう。
「ああ、頼むよ。何かあれば声を掛けてくれ」
ケーヒルは内心少しだけ驚き、そして喜ぶ。あっさりとカズキの元へ行くとは思わなかったのだ。だがカズキが変化した様にアストも変わったのだろう。ならばとケーヒルも冷やかすのはやめた。
「分かりました。その時はお呼びします」
アストは頷き、カズキの元へと歩き出した。ケーヒルも暫し見送ると、森人と打ち合わせするべく背を向ける。
血臭が漂う戦場は、僅かだけ優しい空気が混じった気がした。
「ノルデ、カズキは大丈夫か?」
「はっ、カズキ様に大きな変化はありません。血を求める事も無いようで安心ですよ」
歩み来るアストに気付いていたノルデはカズキの側を譲る。ノルデにとって、カズキの横に立つのはアストであるのは当たり前だった。それを数歩離れて守ることが自分の使命だと思っているかのようだ。
カズキの前に膝をついて目線を合わせる。短く切られた髪は少し痛々しい。しかし瞳には何時もの輝きがあって、心から安堵した。変わらぬ愛おしさが溢れてきて、其れを抑えるのに苦労する程だ。
「カズキ……」
躊躇なくカズキの手を取り、アストは翡翠色の瞳を見つめる。
もっと何かを言いたいのに、次の言葉が出ない。何故こんな危険な場所へ、髪をどうして、皆を救ってくれた、もう血を求めなくてよいのか……色々な疑問が浮かんでは消えていく。
そんなアストにカズキは疑問符を浮かべ、包まれた自分の手を見る。嫌では無いが、少し照れ臭い。何時の間にか変わってしまった自分に、こんな時に気づく……もうあの頃とは違うと。
顔を上げれば周囲には沢山の男達が走り回り、あの緑色をした服を着ている者も多い。剣や弓が背中にあり、彼らが化け物と戦う戦士だと示している。傷付く事も恐れず立ち向かう姿を何度も見た。そして目の前で膝をつく王子様もその一人なのだ。
カズキはあの不思議な感情……会いたいのに来て欲しく無い、そんな相反する感情の爆発がこの王子様から発していたのを理解していた。それは一体何なのか聞きたいがそれは叶わない。だから、動かず待つだけだ。
「どうか無茶をしないでくれ……もし血肉を求めるなら、いつでも逃げ出して欲しい……でも」
癒しの力は今や欠かすことが出来ない。それを理解するアストは自分が情け無くなった。出来るならノルデに命じて今すぐに城へと帰したい。なのにそれは言葉にならないのだ。
キョトンとするカズキにアストは胸を掻き毟りたい衝動に駆られる。聖女自らの意思で此処に赴いたなら、それを否定など出来ないのに……
そうしているうちに燃える水の勢いは衰えて、包んだ小さな手を離すしか無かった。
そして後悔する。どんな時も悔いは後になって襲うものだから……
「次が来るぞ! 全員確認しろ!」
また撃退してくれると全員が意気を高めて声が溢れた。もはや勝利を疑う者は無く、祝杯を思いもした。
そして魔獣が襲い来る。
それは今迄と変わり無く、崩壊した城壁を目指して進んで来た。ならばと森人は矢を放ち、騎士は魔獣の注意を引く。さらに多くの魔獣を誘い込み、ケーヒルの合図に合わせて火を着けた。
爆発する様に火柱が上がると魔獣は悲鳴を上げて、炎の中で息絶えていく。城壁の内側に残された魔獣は暴れて何人もの騎士を吹き飛ばしたが、望み通りに殺したのは僅か数人で、その殆どが剣と矢の餌食となったのだ。
だが、ここから……真の恐怖が現れた。
後退する筈の群れは全く止まらない。それどころか何匹も火柱に飛び込んで次々と積み重なっていく。直ぐに空気の供給が絶たれると火の勢いは失われていった。
「馬鹿な……そんな方法で!?」
「気を抜くな!来るぞ!」
「もう作戦は通じない、総力戦だ!」
それでも士気は衰えない。何故なら聖女の加護は変わらずに降り注いでいるのだから。
「殿下! 陣を押し上げなければ! 森人が孤立してしまいますぞ!」
「分かっている! 後陣も参戦しろ!押し返せ!」
叫ぶアストも駆け出し魔獣へと剣を振るった。目の前の魔獣が倒れると視界が開けて城壁が視界に入る。
「くそ! ケーヒル、上だ! 城壁に取り付いた魔獣がいるぞ! 森人の援護に回ってくれ!」
此処は俺が……!
アストはぐるりと周囲を見廻し、ケーヒルに指示を出した。
「私達が行きます! 副団長は殿下のお側に!」
カズキに癒された騎士達が突貫し、魔獣の群れに見え隠れする階段へと走り出した。
「うおぉーーー!」
「お前たち!」
ケーヒルは叫ぶがもう間に合わない。
そして数人が魔獣の囮になり、活路を見出す。魔獣と斬り結ぶ騎士の一人が走り去る仲間へ声を掛ける。
「行け! 森人を後退させろ!」
他の者も更に参戦し、多くの騎士が城壁の上へと駆け上がっていった。今まで何度も森人の弓に救われたのだ。騎士の誇りにかけて、必ず助けると心に誓う。
そして……ついに炎は完全に消え、燃え尽きた魔獣の死体を踏み越えて、赤い波がリンスフィア内部に溢れ出していく。地上と城壁双方で決戦が始まってしまったのだ。
総力戦になれば自ずと死者が出て、同時に負傷者が増加していく。それはカズキの負担がより強まることを意味するのだ。あれ程に感じていた癒しの力が急激に減少に転じ、聖女に変化が訪れようとしていた。
カズキは両手で自らの身体を抱き、震えが止まらなくなっていく。周囲を警戒するノルデは勿論、前線のアストすら其れに気付いた。
「カズキ様!」
「カズキ!!」
二人に最悪の状況が頭に浮かぶ。再びナイフを握り、何度も血肉を求めるのだ。だが負傷者は加速度的に増えている。直ぐに限界がくるのは明らかだろう。
だが、二人の想定する最悪は更なる絶望に塗り潰されていくのだ。真の恐怖は直ぐ側まで来ているのに……
「ノルデ! せめてカズキの視界を遮ってくれ! 建物の影へ走るんだ! もしもの時は……構わずカズキを連れて逃げろ、いいな!」
アストの言葉にノルデは従い、カズキの手を取り走り出した。
走り出した先には、比較的に大きな倉庫らしき建物。戦場との距離は大きく変わらず、カズキの癒しはまだ届く筈。本当は戦場から離脱したいが、ノルデは聖女の意思を尊重すると決めている。最後まで付き従うのみだ。
辿り着いたその倉庫は、戦場の東側にあった。
最初にその違和感を覚えたのはケーヒルだった。
魔獣の波が西側へと移動していると感じる。勿論偶然かもしれないが……自分達から離れていく訳では無い。ただ南側から数に任せて猛威を奮っていた群れは向こうに集結しつつあった。
「これは……」
その事をアストも理解し、嫌でもその意味を考えさせられる。
「なんだ? 気のせいとは……」
自分達を誘っている?
西方へ意思を持って誘うなら、単純に陽動か。
或いは、援軍が待って……
アストはその想像に酷い怖気が走った。魔獣が知恵ある獣なら……そして西に誘導しているなら、残る方角と援軍はその背後……つまり東。そして其処には魔獣を幾度も苦しめた最も強い要因、聖女カズキがいる。
もし、奴等が聖女の存在を理解し行動しているなら……
「まさか!?」
魔獣を前にした危険を承知の上でアストは後ろを振り返る。
そして隣に居たケーヒルは走り出していた。ケーヒルはアストを置き聖女の元へ駆けて行く。仕えるべき王子を見もせず必死な表情をして……
其処には絶望が迫っていた。
アストの想像通り、いやそれ以上の光景があったのだ。
数々の細い道から魔獣の赤い身体が姿を現し、建物の屋根からも下を伺っている。何より音は無く、静かに足を動かす魔獣の恐ろしさよ。ノルデ達は気付いてもいない。
魔獣はアスト達に挟撃を仕掛けて来たのだ。
そして魔獣達のすぐ側には小さな少女と、僅か4人の騎士のみ。カズキの隣にノルデが居るが、何一つ希望にはならないだろう。
アストは自分が震えているのに気付かない。どんなに頭が指令を出そうとも、体が動いてくれないのだ。それは恐怖、自分の命の危機では無い。世界で最も愛するヒトが喪われる恐怖だ。
「カ……ズキ……」
1人目はあっさりと背後から切り裂かれた。2人目の騎士すらも振り返った時には意識は暗闇に消えた。彼らは自らの死を自覚出来ただろうか?
それを見たカズキは強い慈愛から声無き叫びを上げた。大きく開かれた口がそれを証明している。何より腰からナイフを抜き、まるで戦うかの様に構えた。それを見たアストの脚は力を得て縺れるように前へと突き進む。
ノルデは魔獣の攻撃を躱したが、カズキとの間に魔獣の身体を入れてしまう。屋根から飛び降りて来たもう一匹はカズキのすぐ横に着地する。ズシンと響く振動は離れたアストに届いたと錯覚する。そして……ノソリと腕を上げ、カズキの頭上へと固定された。
叫び声を上げた筈なのに、自分の耳には入って来ない。
死ぬ? カズキが?
そんな言葉だけが頭に響き、走っている筈なのに一向に近づいてくれない。
致命の一撃が振り下ろされてカズキは呆然と天を見上げた。
「させん! それ以上は……絶対に!」
先に駆け出していたケーヒルは、カズキの小さな身体を隠すように魔獣との間に飛び込んだ。ケーヒルだけなら躱すか去なすか出来ただろう。だがその背後には守ると誓った聖女がいる。
ケーヒルの懺悔はどこまでも強い。
あの時ディオゲネスにトドメを刺していれば、油断さえしてなければ……カズキは母ロザリーの懐に抱かれていた筈なのだ。今この時も、ケーヒルに死への恐怖は無く、ただ自らの不甲斐なさを悔いているのみだった。
だから、魔獣の長い爪はケーヒルの大剣を砕き、肩から腹に掛けて切り裂いてもカズキへ届くことは無い。
長い爪はカズキの寸前、僅かなところで止まった。降り注ぐ血の雨はカズキを染めても、死を遠ざけたのだ。
「ケーヒル!!」
「副団長……!」
魔獣は思い通りにならなかったのが気に障ったのか、もう一方の腕を虫を払うように横に振ろうとする。今度はカズキがナイフを頭上に掲げてケーヒルを庇おうとした。だが、小さな少女では助けるどころか、簡単に命を失うのは明らかだった。
「が、は……だ、駄目だ……よせ……」
先の一撃で気を失っていてもおかしくない負傷を無視して力を振り絞る。せめて致命の一振りから逃がさなければ……
そしてケーヒルが割り込み、肩と脚に爪が突き刺さった。最早剣は握る事は出来ないであろう騎士として終わった瞬間だった。それどころか、その命すら時間が……それでも、ほんの僅か、魔獣の爪の先、たったそれだけがカズキの右肩辺りに当たった。まだ辿り着いてないアストには爪が触れた事も視認出来ない僅かな接触だ。なのに、小さな少女でしかないカズキには十分過ぎたのだ。
ほぼ水平方向に飛んだカズキの身体から何かが弾け飛んだ。クルクルと回転し地面に落ちた長細いソレは、カズキの右腕だ。その手にはあのナイフが握られたまま。
それを見てしまったアストは今度こそ絶叫した。
そして目の前にカズキが転がり込んで来たのだ。既に意識はなく、ぐったりと体を投げ出している。右肩からはドクドクと赤い血が流れて更に森人の服を染めていった。
「う……カ、カズキ……そんな」
アストは剣を放り投げて、縋り付くように膝を付くと聖女の身体を抱き上げた。
「あああーー! カズキ、カズキーーー!!!」
気が狂ったのかと思う程の様相を抑えもせず、アストは叫びを繰り返すしかない。その叫びは戦場に響き渡り、戦況がひっくり返った事を報せてしまった。
ケーヒルは地面に倒れ、ピクリとも動かない。叫んだアストは剣を持たず、聖女を抱き止めていた。そして癒しの力が消えたのを皆が感じて何人も脚が止まってしまう。
それを悠長に待つ魔獣など其処にはなく、ほんの僅かな時間で騎士の半数近くが絶命していく。そしてそれは森人も例外では無かった。
フェイやドルズスは声を荒げて指示を出し続けていたが、混乱した戦線は息を吹き返したりしない。ジャービエルさえ脚が止まった。
「だ、駄目だ……負ける……リンディアは……」
誰かが呟く。
リンディアの騎士、そして森人は諦観に襲われて、全ての気力が消えていった。それを知ったのか、魔獣は動きを緩めて人を弄び始める。
だが……勝利を確信した筈の魔獣も、滅亡が頭を過ぎった人々さえも気付いてない事実があった。
魔獣がこの世界に現れて数百年、今日がその長い歴史の中で初めての事だ。
それは……
魔獣の手に依って、初めて捧げられた。
自らが捧げたのだ。
この世界に唯一人の聖女。
その聖女の血肉を……




