65.聖女の歩む道④
「殿下……!」
ジョシュには勝利の余韻など一滴も残っていなかった。リンディアの王都リンスフィアは巨大な街だ。それでも北の城壁からは王城とその向こうにある城壁が何とか見える。いや、城壁だったものだ。爆発的に立ち上がった炎は間違い無く[燃える水]だろう。アレは簡単に消えたりはしない。暫くは魔獣の侵入を防ぐだろうが、何の朗報にもならない。
「何故……」
部隊の再編成を急がせながらも、ジョシュは逸る気持ちを抑えられない。たった一人向かったところで意味は無いと理解はしている。戦力を整え、急ぎ向かうしか無いのだから。
南は最も安全で、何より対魔獣に改築した城壁があったのだ。アストの指揮はケーヒルには劣ってもリンディアに並ぶものなど少ない。それ程の条件で起きたのなら、予想外の……不測の事態が……
「北も西も主戦派が人為的に誘導したのだぞ……南は違った筈……溢れたと……」
ジョシュは此処に至って気付いた。馬鹿らしくなる程の簡単な事実に。
「北も西も魔獣は釣り出されただけ……南は魔獣自らが集まり、奴らの意思と戦略で出て来たんだ。本能で動く獣では無いと聖女が暴いたでは無いか!」
拳を握り、ジョシュは自らの浅慮を責めた。
一夜にして滅んだマリギ。いや、街どころでは無い、小国とはいえカズホートすら1日と保たなかったのに……
「本命は南……魔獣共はリンスフィアを本気で滅ぼしに来たんだ。北や西とは訳が違う」
所詮、主戦派のやった事など魔獣には関係は無かったのだ。奴等は奴等の理屈で動いている。
「……再編成はまだか!! 急ぐんだ!」
このままでは……殿下は、リンスフィアは……いやリンディア王国は滅びる、カズホートの様に。
「急げ!!」
ジョシュの叫びは悲鳴へと変わっていった。
流れる汗を拭う事もせず、無人となった街中に馬を走らせていた。並ぶ建物の所為で城壁は見えないが、空が赤く染まるのは嫌でも分かる。途中王城の側を抜ける時は、何人もの人々が不安そうに南を眺めていた。
ケーヒルもジョシュが辿り着いた簡単な事実に思い至り、自らの思い違いを罵るくらいしか出来ない。ユーニードの存在が目を曇らせていたのだろう。あの男を過大評価し、魔獣を過小評価する愚を犯した。
聖女がマファルダストと同行し、南の森に向かったのは全てこの警告の為では無かったのか! その思いを汲み取ることもできず、ケーヒルは自分の愚かさを嘆く。
「私はどこまで愚かなのだ……殿下……」
歯を食いしばるケーヒルの向かう先に大通りが見えて来た。今は最短距離を抜ける為、路地裏をギリギリの速度で走っていた。もう目的地は近く、大通りから全体を把握した方が良いだろう。
そう判断し、馬に鞭を入れる。
そうして、見たくもない現実が迫って来たのだ。馬が二頭並んで走るのは厳しい路地裏から大通りを見ると、南から王城に向かう人の流れがあった。そして、それが何なのか皆に聞くまでも無かった。
膨大な数の負傷者だ。何処かから外して来た扉と思われる上に意識のない騎士らしき男が横たわる。担架の替わりにした扉は赤く染まり、元の色も分からなくなっていた。他にも両脇で肩を貸し、足をずるずると引き摺られながら運ばれていく者。背負われた若い騎士。意識を朦朧としながらも何とか前へと歩く人々。中には壁に寄りかかり、動かない者もいる。力尽きたのか、休んでいるのか……
それに火傷を負ったもの達が多い。赤く爛れた皮膚をそのままにひたすら逃げ惑っている様だ。今は痛覚が麻痺してるだろうが、後に凄まじい激痛と戦う事になる。
息を飲みながらもケーヒルは、馬から降りて大通りに飛び出した。
「殿下は……?」
まだ先だが、瓦礫と化した城壁の残骸と未だ燃え続ける火柱が見えた。暗い絶望感が襲って来るが、自らの脚に喝を入れ前を向く。
「ケーヒル副団長……」
背後からの自分を呼ぶ声にケーヒルは振り返った。そして見た事のあるその顔は疲労の色が濃い。
「君は……確かリンド、無事だったか」
マファルダストはリンディアの要請を請け、アストの隊へ合流していた。リンドが無事なら殿下も……
「北と西は? 早く援軍を……」
リンドはフェイに頼まれ援軍の要請に走っていた。ケーヒルは最初疲労の色と思ったが、様子がおかしいともう一度リンドを見た。
疲労の色ではない……絶望と恐怖、そして諦観。
「援軍は直ぐに来る。何があった?殿下は?」
「全軍を……リンスフィアの全軍を……」
「リンド! しっかりしろ! 何があったのか説明するんだ!」
ケーヒルの大声に周囲の皆も顔を向けるが、構う余裕など無かった。チラリと見た後は、王城に向かい足を前に動かし始める。
肩を掴まれ揺らされたリンドは、漸くその目の焦点をケーヒルに合わせた。
「魔獣が……次々と……地中から現れて……一瞬で大群に……まるで自殺する様に城壁にぶつかって来て、崩れるのも……簡単に」
ポツポツと話す言葉に要領は得ないが、最悪の状況である事は分かる。奴等は組織的に、戦略的にリンスフィアを襲っているのだ。
「殿下は!? ご無事なのか!?」
「わかりません……崩れた城壁の上で指揮を取っていたのは見ましたが、その後は……身体を燃やしながら突っ込んで来た魔獣が燃える水に……爆発して……」
「くっ……案内出来るか?」
「早く援軍を……南は魔獣で一面が真っ赤です。数は何千も、もっといるかも……負傷者も沢山……沢山死んだ……あんなの、どうして……」
「君は避難しろ! 流れに任せて走るんだ! さあ、行け!」
新兵がよくなる恐慌状態だ。こうなるとまともに戦うなど不可能だし、もしかしたらもう剣を握る事すら出来ないかもしれない。背中を押されたリンドはフラフラと人の流れに飲まれていった。
「リンドも南で魔獣を見たのに……あれ程に……」
ケーヒルから見ても剣の才能に溢れ、精神も強いと感心していた。その彼が恐怖に飲まれるなど、どれ程の戦況か。
西の隊に指示はしていないが、あの大隊長なら的確な行動を取るだろう。とにかく今は殿下の無事を確認しなくては……ケーヒルは人の流れに逆らい、南へと足を進めた。
「城壁が……」
アスティアはカズキの背中に抱き着いたあと、その先の景色に目を奪われる。カズキをベランダから部屋に戻さないと駄目なのに、それすらも思考の外へと消えていった。
直ぐに走り寄り、側に来たクインとエリも直ぐに動けなくなる。崩れた城壁も立ち上がる火柱も恐ろしいが、何よりもその先……普段なら美しい緑の平原が見える其処には、赤く蠢く怪物が埋め尽していた。
「あれは……魔獣? あの全てが?」
震える声を絞り出したのはエリだ。全身も震えて、その場に座り込みそうになった。
「エリ、しっかりしなさい。今はカズキを……」
クインはカズキが意識を奪われて、それこそ其処から飛び降りるのではと気を張っていた。ピクリとも動かないカズキは、両手を手摺りに乗せたまま先を眺めているのだ。遠いが、怪我人が目に入ったのかもしれない。エリも何とか正気を保ち、カズキを見る。
アスティアはカズキの前へ無理矢理回り込み、まるで抱き付く様にする。両手で頬を挟み、何とか意識をこちらに向けようとした。
「カズキ! お願い、しっかりして! 私を見るのよ!」
しかしカズキはまるで魂魄が無くなった様子で、明らかに刻印の影響を受けている様だった。その瞳はアスティアに向いているのに、まるで別の世界を見ていると感じる。このままでは本当に戦場に向かってしまうかもしれない。アスティアは恐怖に駆られ、思わず黒髪ごと頭を胸に抱きしめて両腕で包む。
「お願い……カズキ、貴女は私の大事な妹……心から愛しているのよ。私を置いて行かないで……お願いよ……」
カズキが消えてしまう恐怖はあの時で十分だ。もう放したりしない。堅く誓ったアスティアは涙を零し、更に力を込めて抱き寄せた。
側から見ていたクインは気付く。カズキが身動ぎするのを。それはアスティアを拒否する様なものでは無く、まるで意識を取り戻したようで……何故かクインは希望を想った。
「アスティア様……カズキが……」
カズキがアスティアの背中をポンポンと叩く。アストが妹にする様に、カーディルやアスが我が子をあやす様に、それは慈愛を感じさせた。
ゆっくりとアスティアの胸から顔を起こしたカズキの目には、誰が見ても明らかな強い意志が見えたのだ。
そう、聖女は自らの意思を取り戻した。
カズキはあの時に似た白い世界に居た。
見渡しても周囲は真っ白で、距離感や上下すら曖昧になる。なのに不思議な安心感と、何処か懐かしい気持ちが浮かんだりもする。
ついさっき見えた惨状は間違いなく心に影響したと分かった。今までと同じ、自分なのに自分では無くなる……まるで意識だけ離れてしまったと思ったのだ。
大勢が大怪我を負い、叫んだり呻いたりするのを見た。そしてそれよりも多く、人が死んだのも理解する。地獄が現出し、赤い化け物はまるで鬼だ。
行かなくては……早く助けないと……人が苦しんでいる、泣いている。人の涙など見たくはない。
その瞬間、白い世界に飛んでいた。
「助けて……」
「痛い……」
「どうして」
「炎が、熱い……」
「母さん……」
「「「聖女様」」」
全員が救いを求めている。この世界では言葉は何故か伝わり、その意味を理解出来る。あの森で起きた様に、フラフラとそれぞれの声の元へと近付いて行く。
誰もが顔を伏せていたり反対を向いていて、その表情を窺い知れない。なのに皆の声が響くのだ。それは空気を震わせる音では無く、別の何かなのだろう。
皆が口々に「聖女」へ救いを求めている様だ。
カズキは首を傾げる。
聖女とは物語などで描かれる女性の事だろうか? 殆どが慈愛と笑顔に溢れ、優しくて、全ての母である様な、そんな人の筈だ。
そして直ぐに思い当たる。
自分が聖女だと勘違いされていると。確かに人の怪我を癒す力は如何にも聖女らしい。だが自分は優しくも無いし、慈愛や笑顔とは遠い存在だ。ましてや母など……母親の存在すら理解出来ない自分が聖女? 余りに馬鹿らしい勘違いに違うと叫びたいが、この世界でも声は出せない。
「本当に?」
懐かしい声がカズキの耳に届く。早く顔を見たくて、あの黄金色の瞳に自分を映したくて、急いで振り返った。
ロザリー‼︎
カズキの唇から言葉は紡がれなかったが、右手を伸ばしてロザリーに触れようとした。だがやはり、どんなに足掻いても近付く事が出来ない。
哀しげに微笑むロザリーは、それ以上来ては駄目と手を上げた。突き放す様な仕草にカズキは泣きたくなる。
どうして! ロザリーだけが自分を暖かく包んでくれた人なのに……もう、現実の世界になんて帰りたくは無い。此処でずっと……
「馬鹿な事を思うんじゃないよ。私だけ? アンタは何も判っちゃない。今なら分かるよ、アンタが大変な人生を歩んで来たと。哀しい事だけど、過去は変えられない。私の愛するフィオナも、ルーも、その死から逃がれられないから」
過去なんてどうでもいい……只、辛いだけ。
「なら、私との出会いも過去の事だね。もうアンタを抱き締める事も、一緒に酒を飲む事も出来ないんだよ? 人は弱い、哀しい程に。だから肩を寄せ合って生きて行くのさ。アンタは本当に一人なのかい?」
そんな事……昔からずっと一人だった!
「耳を澄ますの。ほら、聞こえるでしょう?」
何を……
お願い……
お願い……
カズキ、貴女は私の大事な妹……
心から愛しているのよ。私を置いて行かないで……
お願いよ……
お願い……
消えた身体の感覚を感じた。誰かに抱き締められて、耳元で自分に囁いている。
「ね?」
妹?
「ははは! しょうがないじゃないか! カズキ、アンタは誰が見ても可愛いらしい女の子さ! その子の名はアスティア、カズキの新しい家族だよ!」
家族……?
「そうさ! カズキ、周りを見てご覧……本当は一人なんかじゃない。世界の救済なんて私には分からないけど、貴女は聖女なのさ。でも、普通の女の子として生きたっていい。誰も咎めたりしない、私もね」
ロザリーは愛おしい娘に生気が戻るのが分かり、嬉しくて……少し哀しかった。
「行くのかい?」
分からない……でも、やりたい事がある。
「なら、貴女の道を行きなさい。私の娘、カズキ。愛しているわ」
そうして白い世界は新たな白に塗り潰されて、カズキの意識は遠のいていった。最後に見えたのはロザリーが哀しそうに微笑む姿だった。




