54.刻印
あの時みたいに避けられたらどうしよう……
聖女の間へ帰って来たカズキを抱き締めたかった。だが、同時に恐ろしさを覚える。
帰って直ぐベランダに出たカズキは、リンスフィアや遠くの景色を眺めている。運ばれていく棺に先程まで縋り付き泣いていた妹を慰めて上げたい。後ろには兄様も居るし、クインはお茶を入れてエリはカズキの着替えを用意してる。
……私はどうするの?
頭の中にグルグルと浮かぶそんな言葉は、アスティアを混乱させていた。
「アスティア、きっと大丈夫だ。聞いただろう?ロザリーがカズキを癒してくれたのだから」
アスティアの肩を優しく撫でて、勇気づける。
丁度カズキが此方に振り返り、部屋へと戻って来る。少し伸びた髪がフワリと舞い踊り、強く目を引いた。
「……そうだよね? ロザリーさんを初めて見たけど、優しそうで綺麗な人だった。カズキを癒して下さったなら、ちゃんとお礼しないと……」
「ああ、落ち着いたらカズキも連れて行かないとな」
ロザリーはリンスフィアにある小高い丘に埋葬される。そこには夫であるルーと愛娘のフィオナが眠り、何より聖女の間を遠くに見る事が出来た。国葬などは難しいが、カズキが会いに行きやすい様に道程は整備される予定だ。墓石に刻まれる文言は、これから議論されるだろう。
カズキは名を変えた聖女の間への扉を開けてゆっくりと戻って来る。アスティアは自分の心臓が激しく鳴るのを自覚していたが、カズキの目を見た時には不意に力が抜けた。
あの瞳も変わっては無い。僅かな間に人は劇的に変化などしない。背が伸びた訳でも、言葉を紡げる様になってもいなかった。
其れでも……アスティアにはカズキが大きくなったと感じられる。何時もと変わらぬ無表情なのに、何かが違うのだ。
そして、直ぐに気付いた。
カズキは此方を見ている。アスティアの瞳を、アストの目を……逸さずに見ていた。
何処か突き放す様な……人を寄せ付けない色だった瞳は、暖かい。アスティアにはそう感じられたのだ。
「カズキ……!」
もう躊躇う事もなく、カズキの身体を強く抱き締めた。仄かな体温と優しい花の香りが届く。
帰って来たのだ……勝手に決めた事だけど、私の妹が……! アスティアは漸く心から安堵して、もう一度腕に力を込める。
その時、聖女の間にいたカズキ以外の者は心から驚いた。当事者であったアスティアは余りの驚きで身体を震わせた程だった。
おずおずとカズキは両手を持ち上げて、アスティアの背中へと回したのだ。右手は背中へ、左手は腰へと添えられた。不慣れなのか強い力は感じない。それでも皆には衝撃的な光景であった。
「カズキ……? あなた……」
今迄カズキは感情表現、いや愛情表現などを表に出す事など無かったのに……アスティアをカズキは抱き締め返したのだ。
顔を上げたカズキはほんの少しだけ頬を紅く染め、あの美しい瞳をアスティアに向けた。
「殿下……」
「ああ……ロザリーは救ってくれたのかもしれない。カズキの命だけで無く、その心も」
クインは姉妹の再会を喜び、同時に何かの違和感を覚えた。何かが違う……?
その感じた違和感は決して悪い物では無いが、クインは疑問を解消するべく目を凝らし始める。
「……私も!!」
着替えを選び終えたエリは我慢出来なかったのか、二人に重なりぐるりと腕を回した。
エリの奇行に意識を取られたクインは集中力を失ってしまう。だが、その微笑ましい光景に文句の一つすら言えないのだ。そしてカズキも嫌がる事無く受け入れていた。抱き締め返しては無いが。
「ケーヒルと話をしてくる。警備は万全にしたが、出来るだけ目を離さないでくれるか?」
「勿論です。専属の侍女として、必ず」
黒の間は名を変え、聖女の間となった。
最早隠す事も無くなり、アスト自らが選抜した騎士を各所に配置してある。以前の様な失敗は絶対に許さないと、警備体制を大幅に見直したのだ。昼夜を問わず巡回も行い、本来の賓客室へと戻っていた。
アストが立ち去ろうとした時、カズキが小さく手を振った事も変化の一つなのだろう。アストは軽く手を振り返したが、少しだけ動悸が早まった気がする。
「……参ったな……初心な少年に戻ったみたいだ……」
アストは頭をかきながら、何とか気持ちを切り替えて歩き出した。
「ケーヒル、本当にご苦労だった」
「いえ……不甲斐無い結果となり、ロザリーに……カズキにも申し訳ないと思っております」
謙遜等では無い。ケーヒルは心から悔いていた。あの時あの場所で油断などしなければ……今頃は……
「森人のロザリーか……マファルダストの隊長として名高いが、同時に素晴らしい人間であったのだろう。心から祈りを捧げなければならない。打ち合わせ通り、埋葬地への整備は急ぎ行おう」
カーディルは目を細め、天空を暫し見つめて祈りを捧げた。彼女の尊い犠牲は、もしかしたら世界すら救ったかもしれないのだ。唯一無二の存在、聖女を凶刃から守ったのだから。
「そして公式に聖女の母として呼称する事を許可する。勿論、娘のフィオナと夫のルーの家族である事も当然だがな」
名を贈る位しか出来ない自分に僅かな怒りを覚えたが、その命に誓い行うべき事がある。その聖女が導いた森の奥……魔獣の住処への対応だ。
「ケーヒル、悔いるのは後だ。ヴァルハラで出会ったら共に詫びよう。我らが騎士の暴走と暴挙をだ。だが今はやらなければならない事がある」
「……はっ。間も無く殿下も来られるでしょう。暫しお待ちを」
まさにその時、王の間へアストは到着した。そのアストは来る途中カズキの顔や仕草がチラついて困惑したが、今は切り替え済みだ。
「陛下、お待たせしました。ケーヒルもご苦労だった」
ケーヒルは深く頭を下げ、アストへ道を譲る。
「今は我等だけ。堅苦しいのはよせ」
「……陛下、今は軍議の場でしょう? そういう訳には……」
「その割には何処か浮ついているな。聖女と何かあったか、うん?」
「……その手には乗りませんよ、父上。ましてや不謹慎でしょう」
父上と返しただけで、カーディルの掌の上だろうが気にしてもしょうがないのだろう。
「生きている者は、生を謳歌すべきだ。それが亡くなった者への鎮魂ともなるだろう。昔教えた筈だがな」
「父上……」
カーディルの不真面目なところは昔からだ。だがそれに救われた事も多くあり、文句もつけられない。
「殿下、此度の悲劇は全て私の責任。責めるべきは騎士であり、私でしょう」
「それを言うなら騎士団長として、私に最も重い責任がある。ロザリーにどれ程詫びても足りないだろう」
「もうよい。ロザリーの為にもカズキを必ず守る。主戦派からも、魔獣からもだ。ケーヒル、報告を」
「はっ」
「やはり地中か……森では木々の根も深いだろうに……」
事前にある程度は聞いていた為、驚きは少なかった。カズキが導いた先にはイオアンの遺品と、巨大な穴があった。まさか世界に一つだけしかない穴では無いだろう。今まで気配や前兆無く現れた魔獣の謎も説明出来る。滅ぼされた国や街へ突如として襲い掛かった魔獣の群は、周到に準備された行軍だったのだ。
「恐らく少しずつ地中を掘り進み、各所に地表への出入り口を作っているのです。奴等は森の深部に居るのではなく、網の目の様に広がっているのでしょう」
明らかに隠蔽された穴は、奴等の知能が高い事を示している。
「掘り進んだ先に森が無ければ……」
アストの懸念は当然だった。
「溢れるのだろう。かつての国々や街が滅ぼされた様に……」
「南の森は最早限界です。半日も進めば奴等の巣穴へと届く。いつ溢れてもおかしくありません。センに避難勧告を出しましょう」
「そうだな……そして防御を固めなければならない。センはこのリンスフィアから最も近い町。今や此処も安全では無い」
リンディアに逃げる様な国土は残っていない。決戦に備え、奴らを撃退する他ないのだ。
「カズキが居なかったら……我等は何の手段も講じずにセンを失ったかもしれないな。どれ程の犠牲者が出るか、考えたくも無い。もしや聖女は既に救済を始めているのか」
「幸い南側なら防衛は容易です。元々警戒している方角ですからな。城壁も厚く、防衛に向く地形もあります。今の内から戦略を練れば……」
「ケーヒル、一つ残念な報せがある」
アストは戦略という言葉が出た以上、伝えなければならない。
「……ユーニードの事ですな?」
「知っていたか……昨晩の事だ。今は拘束し幽閉している。マリギ奪還の直訴と合わせ、カズキの軍事利用を堂々と言ってきた。誘拐も自白し、悪びれもしていない。本当に……残念な事だ」
カーディルの回答は予測していた事だ。しかし……目を瞑ったケーヒルへアストが言葉を重ねた。
「軍務長がいない以上、センの撤退と防衛を同時に行うのは困難を極めるだろう。勿論有能な者は他にもいるが、ユーニードに敵うわけもないからな」
「騎士団からも何人か出しましょう。今は慣例に縛られている場合では無いですからな」
「ああ、任せる。父上、国民への周知はどうしますか?」
「詳しくは伏せておくしかあるまい。どの道カズキが魔獣の謎を解明した事は噂になっているし、センの事も有る。求めに応じて話はするが、今は準備が先だ」
「了解致しました。では……」
「暫しお待ち下さい。確認したい事があります」
ケーヒルにはどうしても確認したい事があった。
「言ってくれ」
「ユーニードは何故今になって自白など。奴ほどの者が、考えも無く表に出るとは信じられません」
「ああ、勿論私達も疑問に思った。ユーニードは言ったよ、今しか無いと。昨晩である以上、カズキの発見が耳に入ったのだろうな」
「他には?」
「押収した資料は確認中だが、今のところ不審な物は見つかっていない。だが範囲が広過ぎて時間が掛かるだろう。カズキを利用する方法は幾つも話すが、他に関しては黙秘のままだ」
「自白させましょう。手段を選んでいる場合ではありますまい」
「無理だ……ユーニードに家族は無く、自らの命など歯牙にもかけていない。ケーヒル、奴はもう……」
……狂気に囚われて、正気ではない。
アストは拳を強く握り、歯を食い縛るしかなかった。幼い頃からアストやアスティアを世話してくれた忠臣、それがユーニードだったのだ。
「しかしそれでは……」
「今は資料の確認を急がせるしかない。全てを迅速に行わなければ……何が起こっても対処出来る様にな」
「わかりました。今は出来る事をやりましょう」
「たのむ」
三人はそれぞれの役割を果たすべく、動き始めた。
過去一度も魔獣の侵攻を受けて来なかった王都、リンスフィア。誰も未来など分からないが、魔獣との戦闘は避けられないだろう。
リンスフィアはカーディルの治世の元、防衛の取捨選択を行なって来た。当然だが王都防衛は重要で、かなりの手を加えている。
そして南側は森に最も近い。
その為南の城壁等は含め拡充と改良を進めていたし、リンスフィアに至る途中にも備えを用意していた。万全とは言い難いが、神々が味方してくれたのだろう。
聖女が南の森へ入ったのも、きっと神々の導きの結果だ。
「だから大丈夫だ。必ず守ってみせる」
図らずも、別れた三人は同時に呟いた。
決戦は近い。
「そんな……そんな事が……」
アスティアがカズキの伸びた髪に櫛を通している姿を見て、クインは呟いた。
出会った頃は肩口に掛かるくらいだった黒髪は、既に背中の半ばまで伸びていた。無造作に伸ばせば、個人差はあれど多少は荒れる筈だが……
「相変わらず綺麗な髪ね。この指通りなんて何度やっても信じられないわ」
軽く整えただけで艶は強まり、癖毛も枝毛も無かった。それでも前髪は少し邪魔だろうと、幾らかを束ねて括ってみた。額も僅かに見えて、表情が明るくなった気がする。
「ホントですねー。森人さん達と旅して来たなら、お手入れなんて難しかったと思いますけど。やっぱりロザリーさんがお世話してくれたんでしょうか?」
「そうね……あの方も美しい人だったし、きっと」
アスティアは気付いた。
「カズキ、あなた……今、エリの言葉に反応しなかった?」
間違いない。エリの言葉を聞いて、そちらを見たのだ。
「エリ、もう一度話して……ゆっくりよ」
「は、はい」
ホントですねー……森人さん達……お手入れ……
「やっぱりロザリーさんが……」
カズキの瞳が揺れ、何かを思い出している様な……
「ロザリー……ロザリーよ。あの方の名前を理解してるのね?」
「クインさん! 今の見ました!? クインさん……?」
エリは先程から話さないクインを見て、眉をひそめた。アスティアもクインの異変に気付く。
「クイン? どうしたの?」
どうもカズキの反応に対してでは無さそうだった。ただカズキを凝視して、微動だにしない。
「……信じられません……こんな事が……」
漸く呟いた言葉も意味を成さない。
「クイン! しっかりしなさい!」
クインはアスティアを見て、その理由を語った。
「刻印が……刻印が変化しています。言語不覚の階位が3から2へ……」
震える指で指し示した先……カズキの耳の後ろ、蛇が首をもたげたと表現された箇所。複雑な紋様の中に隠れた階位を、クインは読み取った。




