51.赤と黒の狂宴⑦
やはり抜けない……痛みに耐えながらもナイフを抜きたいと思うが、力が大きく衰えた少女でしかないカズキには無理からぬ事だろう。更に言えば出血が激しく、少しだけ意識が朦朧としている。
これ程の傷と血では狂った様に悲鳴を上げてもおかしくは無いが、カズキには無縁の事だった。
それでも何とかしたいと、痛みに耐え踠いていた。
そして掌を引き裂けば外れると、酷く凄惨な決意をし掛けたカズキに魔獣の悲鳴が響く。
振り返ると魔獣の片腕が、焦げ茶色の男の剣に貫かれた様だった。
「旦那、右に回れ! こっちは何とかする!」
漸く一撃を加えたが、コイツはかなりやる。今迄の魔獣と比べて、ただ人に腕を振り回すだけの獣では無かった。牽制と思われる動きもするし、先程貫いた腕も短い悲鳴で済ました。
そろそろ本物がお出ましか……コイツらこそ本来の仇、憎っくき化け物どもだ。ディオゲネスは一人で相対するには、かなり厳しいと判断した。
「おい姉ちゃんよ! あっちに弓が転がってるぞ。コイツを倒さなければ、愛しい聖女様の番だ。急ぐんだな!」
ロザリーも斬り殺してやりたい相手からの指示とは言え、森人では接近戦は難しいと理解していた。一刻も早くカズキを助けたいが、魔獣に騎士達が倒されては意味がない。
「ちっ! ジャービエル、弓だ!」
掴んだ弓を投げ渡したいが、壊れては使えない。金属の剣とは訳が違うのだ。
その時離れた場所で奮闘するドルズス達も目に入ったが、今はどうする事も出来ないと視線から外した。
走り込んできたジャービエルに弓矢を渡し、ロザリーも位置につく。狙うのは眼か口だ。幸い相手は無駄にデカい。当てるのは難しく無いだろう。
流れ矢がカズキに向かっては堪らないと、射線から外し右にずれる。ジャービエルも分かっているのだろう、ロザリーに追随して来た。
「ジャービエル、眼を狙う。矢は腐る程あるから少々は外していい、当たるまで打て。それと……勝負がつきそうになったら、奴をやるよ。その後直ぐに脱出する、分かってるね?」
勿論、と頷くジャービエルを見て弦を引き絞った。
回り込んだケーヒルが脛に切り傷を与えたのを見て、ロザリーは矢を放つ。当るかを判断もせずに次の矢を素早く構える。
そして見上げると、頭蓋辺りに当たった矢は刺さる事もせず、地面にポトリと落ちるのを見えた。
ロザリーは叫ぶ。
「ジャービエル! 遠過ぎるし、下からだと力が伝わらない。ギリギリまで近づくよ!」
幾本かの矢筒を肩に掛けると、やはりジャービエルを見る事もせずに走り出した。
悔しいがやはりあの男の腕は凄まじい。
左脚は切断は出来なかったが、かなりの深手を負わせたのが分かる。膝を突き掛けた魔獣の顔は低い位置に変わり、ロザリーは戸惑う事なく矢を放った。
「ジャービエル! 撃ちまくれ!」
直ぐ横に位置したジャービエルは無言で追撃を放つ。喉あたりに突き立った矢は痛みを伴なったのだろう、魔獣は再び悲鳴を上げた。
グゥーィィッ!!
普通なら無茶苦茶に腕を振り回しそうなものだが、この魔獣は違った。近くに転がっていた石……人から見れば小さな岩を掴みロザリー達に向け放って来たのだ。
「な、なに! くっ……!」
何とか躱すことが出来たが、矢筒は放り投げられ幾つかは岩の下敷きになる。しかも最悪なのは、次を掴むと大木で足掻くカズキを見た事だ。
「まさか……!? 止めろ!」
カズキは未だ其処から逃げたり出来ないのに!
何とか牽制しようと太い腕に向けて矢を放つが、焦った構えではマトモに当たりはしなかった。
「カズキ!!」
先程よりは小さな岩だが、カズキを絶命させるには十分な大きさと速度だ。
思わず眼を閉じかけたロザリーに信じられないものが見えた。人とは思えない速度でカズキの前に立つと剣を岩にぶつけて軌道を逸らしたのだ。
「お、らぁーー!!」
ディオゲネスは半ば吹き飛びながら、見事にカズキを危機から守った。
ケーヒルも間に合わず、最悪の結果を招くところだったのだ。しかし、それでも冷静さを失わないケーヒルは魔獣の背後から膝裏に突きを放ち、遂に魔獣を跪かせる事に成功する。
「ロザリー! 今だ!」
ロザリーもカズキの助かった事を理解すると、今度は見事な構えを取る。ディオゲネスは地面に倒れ、もう動く事も無かった。
やはり見事な軌道を辿った矢は魔獣の右眼に突き立ち、その頃にはニ矢目すら放つ寸前だ。ケーヒルすら唸る技術にロザリーは誇る事もせず、冷静に左眼を狙い放つ。
暴れる魔獣を物ともせず、左眼も破壊したロザリーは、次の矢で膝を狙った。
「旦那! トドメを!」
ジャービエルもそつなく魔獣の耳へ当てていたが、ケーヒルは渾身の一振りはそれ毎両断した。
魔獣はグラリと傾き、血を噴水の様に噴き出しながら地面へと倒れ込む。
遂に倒したのだ……たった四人であれ程の魔獣を。
「カズキ!」
ロザリーは魔獣には目もくれず、弓も剣も放り出しカズキの元へ駆け出した。意識を失っていたフェイも頭を振りながら地面に手をついている。
ケーヒルは倒れたままのディオゲネスにゆっくりと近付き、見下ろした。
「……見事だった」
見れば左腕は曲がり、殆ど千切れ掛かっていた。そして折れた剣先は腹に刺さっていて、今もドクドクと血が流れ出ている。口と鼻からも赤い血が溢れ、最早言葉すら出せないだろう。
僅かに身動ぎするディオゲネスに、命が今だある事は分かった。
ケーヒルはディオゲネスの最期の良心を認め、許す事など出来なくとも手向けの言葉を送ったのだ。
だが、ディオゲネスはただ怒りに燃えていた。
一寸たりとも聖女を助ける気など無かったのだ。そして同時に理解もしていた……自らが使徒だと、神々の人形だと。
自分でも理解出来ない思考に支配されたディオゲネスの身体は勝手に動いたのだ。まるでカズキが数々の刻印に弄ばれる様に。
おのれ……最期まで邪魔をしやがって……許せない……アステルを助けなかった癖に、あの娘なら助けるだと……何が違うと言うんだ……憎い、憎い……神め、聖女め、何が使徒だ……!!
憎しみの鎖縛、ディオゲネスの刻印は憎悪を糧とするもの。今、黒神ヤトも想定出来なかった事態が起きようとしていた。
こうなれば……もう終わりだ……生贄を捧げてやるよ……それが望みなんだろう? 聖女よ……
贄の宴に相応しい狂宴だ。聖女の刻印は俺が解放する……薄汚い魔獣共にやらせはしない……!
ケーヒルはロザリーがカズキの元へ辿り着いたのを眺め、ディオゲネスが剣を右手に掴んだ事に気付かない。その剣は先程ロザリーが放り出したフェイの愛剣だった。
腹や口からは血が溢れ、立ち上がる事すら不可能な出血だ。それでもディオゲネスは無理矢理に身体を起こし、血だらけの顔を持ち上げた。
ケーヒルが気配の異常を感じ、再び足元を見た時にはディオゲネスは走り出していた。ボタボタと零れる赤い血はディオゲネスまでの道を作って行く。
「馬鹿な!? ロザリー!背後だ!」
ナイフに手を掛けていたロザリーは直ぐに振り向いたが、ディオゲネスはもう目の前にいた。切っ先は間違いなくカズキを捉え、躱す事など不可能だった。
だから……ロザリーがする事など一つしかない。
迷いなどあろう筈も無い……この一撃すら何とかすれば、駆け寄るケーヒルが何とかするのが理解出来ていたから。
それは聖女を、世界を守る責任感では無い。ましてやマファルダストの隊長としての義務でも無かった。
それは当たり前の事だ。
私は娘を愛する、母親なのだから……
ディオゲネスの命を賭けた剣は簡単にロザリーを貫いたが、決してカズキには届きはしなかった。
背中から心臓を突き抜けた刃はロザリーの血で染まり、カズキの目の前で止まった。即死の筈のロザリーは優しく微笑むと、カズキの涙を拭いそして小さな胸に倒れ込む。カズキは母の身体を支える事も出来ずに、ズルズルと下がり地面に伏した。
「うぉーーー!!」
ケーヒルは絶命間近のディオゲネスの背中を斬り裂いて、二人から突き放す。
「……ディオゲネス……貴様、何故……!」
見ればディオゲネスは既に絶命していた。その形相は常軌を逸していて、ただ恐ろしい。呆然とするしかないケーヒルは、立ちすくむ。
ふと、耳にギシギシと木が鳴る音が聞こえてくる。虚になった目でそちらを眺めると、ある意味で想像通りの光景が映った。
カズキがあと少しで届きそうな手をロザリーに伸ばし、右手のナイフが抜け掛けていたからだ。
痛みなど感じていないのだろう……カズキは無理矢理に右手を振ると、あれ程抜けなかったナイフはあっさりと地面に落ちた。直ぐにロザリーに抱きつく様に縋り付くと、貫く剣を両手で抜き赤髪の頭を膝の上に乗せる。
仰向けになったロザリーは、何故か薄らと笑みを浮かべて目を閉じている。カズキは傷口に両手を当てて、暫く身動きをしなかった。
だが、何時もの白い光は溢れ出たりはしない。
カズキはもう一度手を当てて、その内身体ごとロザリーに覆い被さった。それでも、決して光を発する事はない。それは……黒神エントーの加護を受けた者には避けられない定めなのだから。
周りを取り囲む者達にも、それは分かった。分かってしまった。
ロザリーの命は尽きてしまった、と。
燃える炎もその先にいる魔獣達すら忘れさせた、それは悲しい現実だった。
人死など、ありふれた世界ーーー
家族を失い、泣き叫ぶ人を大勢見て来た。
パチパチと、ゴウゴウと、森は赤い炎に包まれている。
炎の壁は高く舞い、その向こうに見える赤い魔獣達を覆い隠す。奴等はユラユラと身体を揺らし、炎が消え去るのを待っているのだろう。
所々に赤褐色の粘土らしき物が盛り上がり、その周辺には力付きた人形が倒れ伏している。剣や矢は魔獣の死体に突き刺さり、幾本も折れて曲がっていた。
魔獣との死闘は其処に終焉の世界を現出させたのだ。
その終焉の世界の先……炎の壁の向こう……事象の中心にいる聖女は両膝を地面につき、真っ赤に染まった両手でユサユサと揺らす。
起きて。目を開けて……もう一度、黄金色の瞳を……
ーー行かないで
ーー捨てないで
ーー置いていかないで
ーーどうして、どうして
慟哭は、悲鳴は、唇から零れたりしない。それなのに聖女の叫びは見る者の眼を通し、頭蓋に直接反響する。魂魄を揺さぶるソレは、見慣れた筈の終焉の景色を涙で滲ませていった。
黒神ヤト。
司るのは悲哀、憎悪、痛み。
ヤトの加護を一身に受けた聖女の、悲哀と憎悪の叫びは只人とは違うのか……。ケーヒルはボンヤリとする意識で周りを見渡した。
森人のフェイは、両膝を泥に落として頭を抱えて泣き叫んでいる。
ジャービエルは珍しい雄叫びを上げて、赤い死体に剣を何度も突き立て続けた。
新人と聞いたリンドは、両手をダランと落として茫然と立ち竦んだままだ。リンドが見張っていた騎士達は既に何処かへ逃げ出している。
そして、足元には血に染まった男が倒れていた。さっきまで狂気を振りまいていたディオゲネスは、最早ピクリとも動かない。先程ケーヒルがトドメを刺した。
ユサユサ、ユサユサ……聖女は飽きもせずに揺らし続ける。あの美しい翡翠色の瞳には涙の跡があり、その跡も新たに流れ出た涙に上書きされていく。
声は出ていない、言葉は紡がれていない。それなのに声が聞こえる……それは幻聴なのか。
それとも紡がれた言葉の幻視?
今、間違いなく聴こえ、視えたのだ。
ーーお母さん、と。
その時、世界は真っ白な光に包まれていった。
それは癒しの光なのか、それとも只の幻なのか。
ケーヒルには判らなかった。
ザワザワ、ザワザワ……炎の壁が低くなり、その先の光景が明らかになっていく。
大勢の騎士達が倒れ伏す先、そこには赤い壁が続く。最早数えるのも馬鹿らしい数の魔獣達はゆっくりと動き出していた。魔獣の目線の先には、二つの獲物の集団がある。
先程からチクチクと刺さる矢を幾本も飛ばしてくる群れと、僅か数人程度の獲物の集団だ。
魔獣達にとって愉悦の、ケーヒル達にとって絶望の戦いが始まろうとした時……辺りは白い光に包まれていった。暫くすると、あれ程煩かった音すら消えていき、何も見えなくなっていく。
聖女の力、その顕現が始まった。




