5.目覚め
ぼんやりと意識が戻るのを感じる。軽く溜息をつこうと口を開いたとき、息が出来ない事に気付いた。
なんだ? 水、いや泥の中か?
「……っ!……」
両手をついて上半身を起こし、口の中に異物を感じて叫ぼうとした。しかし、吐き出す泥以外には何も出てこない。
なんだ? 声が出ない!?
思わず喉と胸に手を当てたとき、いくつかの違和感を感じた。それなりの修羅場をくぐって鍛えた硬い胸筋はそこになく、代わりに柔らかい肉の手触りが返ってくる。そう、男にあるはずの無い感触……それに俺の手はこんなに小さくない。汚れた腕から泥を拭うと見慣れた筈の筋張った筋肉はやはり無く、まるで子供の頃のように細く変わってしまっていた。
「……!!」
もう一度自分の身体を見ると、ワンピース?いや貫頭衣だろうか、元の色がわからない程に汚れて赤黒い色に染まっている。
胸を押し上げる僅かな膨らみを見て、恐る恐る首元から服をめくってみる。下着も何も着ていない体は、上から見ただけで自分がどうなってしまったかを明らかにさせた。それに、体中に覚えのない入れ墨が入っている。全く読めない記号とうねる気色の悪い模様が刻まれて……
一体……? 何が起きて……
強い不快感が襲う。唐突に湧き上がる吐気に耐えられず、再び泥だらけの地面に両手を付き思い切り吐いた。一度、二度三度と吐き続けると、もはや胃液も出ずに膝を抱えて蹲った。
暫く吐気と戦っていると、少し前の出来事が頭に浮かんで来た。膝を抱えていると胸の柔らかさに当たってまた余計なことを意識してしまう。
くそっ!
ヤト、黒神のヤトか! アイツが何かしやがったんだ……あの野郎!!
思い出せ……アイツは何を言ってた?
刻印……神、呪い、異世界、救いの道、そして世界を?
馬鹿が……ふざけやがって! 何て勝手な事を! こんな子供、しかも"女"なんてどうしろって言うんだ! 声まで出ないなんて呪いを……いや、そもそもなんで俺がそんな事を……
暫く目を強く瞑り、現れては消える声にならない怒りや戸惑いを吐き出していた。ふと、何か生臭い、鉄錆の匂いに気付いて目を開く。
こんなすぐ側に赤い壁などあっただろうか? 何とか起き上がりもう一度壁を見た。
違う、壁なんかじゃない……多分何かの生物だ。死んでるのか動かない……大きい、大きいなんてもんじゃない。毛は生えてないのか肌が直接見える。赤褐色と言えばいいか、酷く筋肉質な体だ。少しずつ後ろに下がり観察する。大き過ぎて全体を掴めない。近くでは何なのかが判らないのだ。
いや、俺が小さくなったのか……?
それはまるで犬のようだった。いや犬みたいに可愛げのあるもんじゃない。犬に牛を無理矢理混ぜて捏ね回したような姿だ。それにあんなに巨大な牙や爪なんて冗談としか思えない。爪一本が今の俺の腕よりも大きいのだ。
うっ……
さっきまで自分が寝転がっていた場所は、只の泥じゃなくこの奇怪な生物の血が混ざっていたようだ。また吐気が戻ってくるが、なんとか両手で口を押さえて我慢する。
他には何かないか探して見れば剣?が落ちている。二本あるそれは日本刀ではなく西洋の剣のように見えた。一本は片方と比べると非常に大きく、血糊がべったりと付着している。この化け物の血だろうか?
剣を持とうと近づき手に力を入れるが、全く上がる気配がない。もう一本の小さな剣ですら、まともに持ち上げるのは無理そうだ。鈍い金属の反射光に玩具でないのは分かっていたが、文字通りの凶器なのだろう。息を止めて思い切り力を入れると手が滑り後ろに勢いよく倒れてしまう。再び顔も手足も泥だらけになり、より気持ちが暗くなった。
こんなの、一体どうしたらいい?
ここが何処かも全く分からないし、こんな化け物がウヨウヨいるような世界なら、このひ弱な体で戦う事も逃げることだって出来やしない。尻餅を付いて剣をボンヤリと眺めるしかない俺の耳に、僅かな人の声が聞こえた気がした。
気のせいか? もう一度耳を澄ましてみる。
いや……聞こえる。悲鳴?慟哭? 大人の男の声だろうか? 人の声だと思うが、何を言っているのか分からない。この化け物の向こう側だろうか?
油断しないよう化け物の体を壁にしつつ、少しだけ顔を出して覗き見る。
その声の場所はすぐにわかった。
20人位の集団だろうか。古臭いデザインの金属鎧を着た集団が何かを中心に集まっている。集団の隣りには赤い壁としか思えない化け物と同じ奴がもう一匹死んでいるのが見えた。やはりとんでもないサイズだ。
大きな声が聞こえて、一人の男がこちらとは反対側に駆け出して行った。何人かが膝を付き絶望感を全身で表しているようだ。
その時、集団の円の中心が少し見えた。どうやら若い銀髪の男が倒れ込んでいる。ソイツは別の鎧の男に支えられていて、一際目立つ大きな男が何かを喋っているみたいだ。
もうはっきりと聞こえるのに、やはり言葉の意味が分からない。
……声が出ず、意味も?
それって酷くマズくないか? こんな訳の分からない場所で、子供になって言葉すら通じないなんて……
足元が崩れ落ちて行くような、そんな錯覚を覚えて強い目眩を感じた。何とか化け物に寄り掛かって倒れるのは防いだが、何の慰めにもならない。
絶望を感じつつ、兎に角何か情報をともう一度集団の方を見る。
ドンッ!
実際に音など鳴ってはいないが、自分の心臓が大きく跳ねるのが分かった。
銀髪の男の側で跪き喋っていた一際大きな体躯の男が涙を流しているのが見えたのだ。大男の涙に美しさなど感じないが、その一雫に目が奪われた。恐らく、横たわる銀髪の男の生命が危険に晒されているのだろう。 男にしては美しい相貌だが、青白くなり口元は血であろう物で真っ赤だ。
何処からか声が聞こえてくる。
……助けないと、あの人を助けないと、死んでしまう……
周りの人も哀しんでいる。
絶望の帳が降りている。
いや、これは俺の声か?
何を……ダメだ! 俺は何を考えている! あんな得体の知れない連中の事など信用出来る訳がない! アイツらは……アイツらは大人だぞ! 今迄どれだけの裏切りを受けたと思ってる……!
でも、でも死んでしまうよ。きっと大勢の人が悲しむんだ……まるで少年の様な言葉が心に鳴った。
自分の事なんてどうでもいいじゃないか。
フラフラと化け物の側から抜け出して奴等の方へ歩きだしてしまう。視線は倒れている男から離す事が出来ない。
くそっくそっ……なんだ!? どうなってる?
あんな見も知らずな奴のために、なんで俺が……!
……助ける、助けるんだ。誰も死なせたりなんかしない。泣き顔なんて、涙なんて見たくない……
もう戸惑う事なく歩き出した俺に奴等も気付いたようだ。何人かが振り向き、体の大きな男もこちらを見た。こんな餓鬼の身体では逃げる事さえ不可能だろう。
倒れていた銀髪の男の血が見えたとき、再び心臓が跳ねる音を遠くで聞いた。
立ち上がった若い鎧のもう一人の男が何かを言う。意味など分からないしどうでもいい。それに……あのキズ! ダメだ死んでしまう!
思わず駆け足になった瞬間に衝撃が加わり、鋭い痛みがこめかみに走った。地面に倒れて付いた手に血がポタポタと落ちていく。
……血が、赤い血が落ちている。勿体ない。
でもちょうどいい……
立ち上がるのも面倒になった俺はベチャベチャと地面を這い、肩から腹にかけて真っ赤に染まった男に辿り着いた。遠くから見ても美丈夫だと思ったが、血に染まりながらも美しさは変わらない。その青き碧眼を大きく見開きこっちを呆然と見ている。傷口を見ると深く抉れていて、心臓の鼓動に合わせてだろう血液がドクッドクッと流れ出て行く。
大丈夫……助けるよ。
こんなキズなんて……
熱に浮かされたように冷静な判断なんて出来なくなり、手元に見えたナイフを右手に持った。横にいる大男が何か言った気がするが、耳にすら音は響かなくなっていた。
このナイフをどうすればいいかなんて簡単だ。
ただココに突き立てて、俺の体を贄にすればいい。どうせ怪我なんてすぐに治るし、今迄と同じことだ。
痛みなんて心から離してしまえばいい。
人が泣くところなんて見たくはない。
そう、俺の事なんてどうでもいい。
つらつらと考えながらナイフを掌に突き立てた。思ったよりずっと痛かったが、まだ足りない。
でも喉から叫び声が出ないから、五月蝿くなくて良かった。
抉りながら引き抜くと血が溢れてくる。子供みたいな手は赤く染まって、手首まで伝わり溢れて行った。これで足りるかな。
目の前の傷口に押し当てれば後は勝手に始まるんだ。酷く簡単だから考える必要もない。
まだ、まだ足りない? 彼の碧眼が俺を見た。
分かってる、大丈夫。まだまだ幾らでも"贄"はあるんだから。
俺はナイフをもう一度握り締めて、力を込めて引いた。