4.夢の後先
不快な表現があり。
これが夢だとすぐに分かった。
小学2年生にしては高い身長だっただろう。だけどこんな小さな手足に、キズだらけで今にもバラバラになりそうな黒いランドセルなぞある筈のないものだ。冷めた目で夢を眺める俺には関係ないとばかりに、もう一人の小さな俺は学校が終わった途端何冊かのノートと連絡帳や筆箱を大急ぎで放り込み始める。友達との挨拶もそこそこに家に向かって走り出した。
ああ、やはりあの日か……今でも忘れることが出来ない。夢に時間なんて関係ないのだろう、そう思った視界は一瞬で切り替わる。
場面はその日の昼のようだ。昼休憩に集まった遊び仲間と俺は、今度はどんな馬鹿な事をするかと机を挟んで座った。
「カズキ! こないだ言ってた魔法はやってみた?」
目の前に座った少年が、早口でまくし立てた。何故か少年の顔はボヤけて見えない。名前すら忘れている事も気にもせず僕は答えた。
「ーーーくん。 あんなの魔法じゃないよ」
彼が言う魔法とは、焚き火で立ち上がった火に手刀で横に切っても火傷しないと言う下らないものだ。当たり前だが、素早くやれば熱は伝わらないし、ゆっくりと振れば火傷するだけだ。
「そんな事言って怖いんだろ? 今度オレが見せてやるよ!」
シュッシュッと自分で言いながら右手を振り回し始める。怖いと言われた僕は少しムッとして、今日発見した新しい秘密を彼にお披露目する事にした。
「ホッチキスで指をガチってしても、あんまり痛くないし血も出ないって知ってた? さっきプリントを閉じてる時にわかったんだ」
「えっ?えー? 嘘だろそんなの」
「ホントだって! ほらこの指見てよ、傷跡もないでしょ?」
少年は突き出した僕の指先に顔を向け、疑わしそうな声で言う。
「この指かどうかなんて分かるわけないじゃん。嘘に決まってるよ」
「ふーん、じゃあやって見せようか?」
「……うん」
少年の声に恐怖心が混ざっていたが、僕は気付かずに道具箱からホッチキスを出した。ちゃんと芯が入っているのも確認して、ふっくらと膨らんだ人差し指を挟む。
「……」
少年は無言で手品のタネがないか確認しているのか、あちらにこちらに顔を動かしている。
ガチッ
戸惑う事なく僕は青色したホッチキスに力を入れた。チクッと痛みは走った気がするが、全く気にならない。ホッチキスを避けると光沢のある針が指先に刺さっている……だけど血は出ない。反対の手を使い刺さった針を器用に取ってみる。少しだけ血が滲んだ気がするがやはり流れ出てはこなかった。
「ほらね! 本当でしょ?」
「本当だ! 凄い!」
「やってみる?」
机に上にあったホッチキスを手に取り、少年に突き出した。
「怖い?」
そう聞いた僕に顔を向けたあと、好奇心には勝てないのか、右手にホッチキスを持ち替えて人差し指に当てた。
その後は大変だった。
少年の指先からはポタポタと血が溢れ、彼は痛い、痛いと泣き始める。教室は騒然として皆が僕を訝し気に見ている気がした。なのに全員の顔はボヤけてわからない。
周りにいた女子が先生を呼んだみたいで、保健室に連れて行った。残された小さな僕の頭の中は疑問符で一杯だった。あんなに大騒ぎするなんて何故だろう? 血が出ても別に大したことないじゃないか……
怪我なんてすぐに治るのに。
僕は他の人間とは少し違う事に気付いてしまった。その時、恐怖心や嫌悪感は全く無く……いや、むしろ優越感を覚えた。もしかして僕は特別なヒーローなのかも、と。 偶に見ていたテレビのヒーロー達にもそういったキャラクターがいたはずた。
やった!
凄いぞ! 僕は特別なんだ!
皆の顔は思い出せなくても、この時の高揚感は覚えている。ただ、結末は何も変わらず結局は時間の問題だっただろう。
早いか遅いか、ただそれだけの違いでしかない。
ランドセルをガタガタ鳴らして僕は走っていた。勿論、家にいる母に自慢するためだ。
母は最近いつもイライラしている。笑った顔も随分見たことがない。
玄関や台所には木彫りの仏像が置いてあるし、全く読めない字が書かれた紙切れが飾ってる。なのに家族の写真は取り外され物置に入ったままだ。冷蔵庫にはラベルの貼られていないペットボトル。その中に少し色の付いた水が入れてあって、毎日ご飯の時に飲まされていた。ナントカのエネルギーが入っているらしい毛布を渡されたが冬には全然暖かくなかった。
父は随分前から家には帰って来ない。
今なら分かる。母はすでに壊れていたんだろう。無邪気にも僕は「特別なパワー」を見せれば笑顔で褒めてくれると思っていた。
あの時の母の目が忘れられない。
自慢気に見せたホッチキスの魔法は、彼女を笑顔にする事なく……その目はまるで気持ちの悪い虫を見た時のように慄いていた。
児童養護施設を探していた母は、知り合いの紹介らしい建物に俺を連れて来ていた。
高い塀に囲われた予想より広い敷地には畑や花壇が散らばっている。何故か先に抜けてきた門には何も無かったが、玄関らしい扉の横には水色に塗られた板に「空色の家〜時島孤児院」と書かれた看板が掛かっていて、子供が描いたであろう白い雲があしらってある。
「空色の家」は老夫婦が運営する無認可の児童養護施設らしく、その事を知ったのは随分後だ。
玄関の前に2人が待っている。
「やあ、いらっしゃい。君が和希くんだね?」
院長と書かれた名札を掛け、白が混じる髭を揺らしながら笑った。隣にいる妻らしい老婆は笑顔なく声を出しもしない。
「ーーーー。 ーー、ーーーーー」
母が何かを話しているが、何も聞こえない。すぐ近くにいて口が動いてるのもはっきりと見えるのに……院長がゆっくりとこちらに顔を向け俺を見下ろして言った。
院長の目がギラギラと光って見える。
ーー和希くん。 ここが今日から君の家になるんだーー
結局母は最初から別れの時まで俺を見る事はなかった。捨てられた事は意外と簡単に受け入れられたから泣いたりもしなかった。
ああ、やっぱり……そう思っただけだ。
笑顔を浮かべたままの院長に手を引かれ玄関から中に入る。中は一言で言うと田舎の学校だろうか? 左側に下駄箱があり、何足か白いスニーカーが入っている。
子供の姿や声は聞こえてこない。
「さあ、靴を脱いでお上り。そこにスリッパがあるだろう? どれを履いても良いからついておいで」
俺は素直に言う事を聞いてヒーロー物のスリッパを履き、院長の顔を見上げた。
ダメだ……入ったらダメなんだ……そこは、そいつらは人間のクズだ! 行くんじゃない!! もう、頼むから忘れさせてくれ!
遠くから叫ぶ俺の思いとは裏腹に、小さな俺はスリッパの音を鳴らしながら院長達の後を追って行く。
院長室と書かれた部屋に入った時の絶望感は、7歳のガキに耐えられるものではなかった。家にもあった仏像、やはり読めない文字の掛け軸、正面には見た事もない老人の写真。
大きな黒い革の椅子に座った院長の目は爬虫類のように白目が無く、言葉を発する筈の口にはチロチロと赤い舌が揺れている。
あぁ、夢だよな……ずっと昔のことなのに……
「和希くん、君の中に悪霊が住んでいるんだ。でも安心していい、私達は悪霊を追い払う方法を知っているからね。君のお母様も心配しているし、私達の言う事をしっかりと聞いて良い子でないといけない」
小さな俺の体がガタガタと震えている。
俺の様子を気にもせずに言葉を話す。
爬虫類が人間の言葉を?
「この家にはルールがあるんだ……絶対に破ってはいけないルールだよ」
何度助けを求めようとしただろう。でも誰が味方なのか分からない、味方なんている訳がない。頭の中でグルグルと言葉は廻るのに音になる事はなかった。
ホッチキスの魔法は誰にも言ったりしない。シャツやズボンに隠れた場所にある痣や傷だって放って置けばすぐに治る。いつも痛そうにしてれば分かりはしない。
小さな俺の秘密は誰にも知られてない。知られてはダメなんだ。7歳の俺は……なぜ院長が悪霊が住んでいると言ったのかを考えることもしなかった。
「和希くん。夕御飯を食べたあと院長室に来なさい」
また呼び出しだ。
最近他のみんなより多い気がする。でも、痛みには慣れて来たし怪我なんて放っておけば……そう、どうだっていい。
「はい……」
心さえ別の場所に置いておけば、俺は大丈夫なんだ。
「ぎぃぃヤヤァアああぁーっ! 熱い!熱い! やめ、てーーー!!」
院長室の前で立ち止まって、動けなくなっていた。部屋の中から聞いたことのない悲鳴とガタガタと椅子や机が揺れる音が聞こえてきたから。
やめてくれ……子供の悲鳴なんて聞きたくない!
自分だけなら怖くなんてないのに、なぜ他の子が……!
ガチャ
目の前のドアが開き、院長が笑いながら言う。
「さあ、入って」
中から何か焦げ臭いような、生ゴミが燃えたような匂いがした。俺と同じ年齢の子が部屋の真ん中の椅子にぐったりと倒れるように座っている。それが誰だったのか憶えていない。
そのすぐ隣に置かれた椅子に座らされ、あの爬虫類の目をギョロリと此方に向けた。
「今から悪霊を追い出す魔法をかけるよ。少しだけ痛いかもしれないけど、隣のーーくんも成功したから安心しなさい」
院長はカチッとライターに火をつけ、直ぐ側にあるガストーチのノブを捻った。ボッと言う音を立てて勢いよく青い炎が伸びる。机の上で折り畳んでいたタオルを開くと中から20cm程度の鉄串を取り上げた。
「和希くん。悪霊は人の中に居て、宿主である身体を傷付けない様に悪い魔法をかけているんだ」
鉄串をユラユラと青い炎に当てて、その串は少しずつ赤くなっていく。院長の顔には笑みが浮かんでいた。
「今からこの串を君に当てる。悪霊が居ても怖くて逃げて行くから、和希くんは普通の人間に戻れるんだよ」
「あ……あの……」
あんなの無理に決まってる!
何とか止めて欲しくて言葉を探すが院長はそれを無視して、言った。聞きたく無かった言葉を……
「まさか怪我や傷が簡単に治ってしまうなんて、あるはずが無いんだから」
赤く光る鉄串を素手で持った院長の顔は、人間のものだろうか……?
ジュッ!
「い、いぎゃー!! 痛い!痛いよーー!」
ジュッ!
「うわぁー!! 熱い! やめてー!」
椅子に押し付けられた身体を遠ざけようと、左右に揺らすが逃げられない。俺の腕に二重の線が入り、院長は火傷の跡を指でなぞった。
「いっ! 」
「明日、となりのーーくんと比べてみよう。悪霊が逃げたかすぐに分かるよ。もしまだ逃げてないなら、続けないといけないからね。さあ、次だよ……」
それを確信しているかのように、望むかのようにゆっくりと話しかけてくる院長の顔は、ただただ気色の悪い笑顔を浮かべていた。ガストーチが叫ぶ炎の音、赤いままの鉄串、一本ずつ増える火傷。全てが鮮明に、色褪せすることなく記憶に残った。
怪我が早く治るどころが、火傷の痕さえ残らない俺は格好の獲物だったのだろう。悪霊なんて只の言い訳に過ぎない。院長は子供を痛め付けて、悲鳴を上げる姿を見るのが好きな変態だ。
何かと理由を付けて俺を呼び出す回数は増えていき、傷も残らない筈の身体から其れが絶える事はなかった。
でも、ある時から思ったんだ。
院長への憎悪は膨らんでいったが、俺が呼び出されている間は他の子は無事だって。それなら良いじゃないか……子供の悲鳴なんて聞きたくない。
15歳になった俺は奴の巣から脱走し、警察に情報を流した。
孤児院は潰れたと、風の噂で聞いた。