39.手紙
リンディア城の城門は昼間であっても普段閉ざされている。
これは防衛上の理由では殆どなく、訪れる者が大きく減少したからだ。勿論、城を運営する上で大勢の人の力が必要になる。だがそれぞれは各通用門からの出入りが主となり城門に用は無い。
リンディアの城門はその門よりも横に広い階段を五段ほど上がった先にあり、アーチ状の石積みの壁は高く圧迫感すら覚える。監視塔は城門を遥かに超えた高みに見え、絶えず篝火が焚かれていた。だが守衛の数は少なく、正面から見える範囲では数人しかいない。これも人の主敵である魔獣が遥か先の森に住む事と無関係ではないだろう。
城門の横には人が二人程度なら並んで歩ける程度の通用門があった。高さもやはり大人二人分ほどか。城門を正面から見た場合、真横に入るかたちだ。
その木製の扉の前で、3人の守衛と一人の男が立ち話をしていた。
男は深い緑のパンツと上着を着ている。あちらこちらに大小のポケットがある特殊な形状の厚手の服だ。金属製の金具も腰辺りに数多くあり、何かを掛けたり収納に使うのだろう。更に元は泥汚れだろうか、洗っても取れていない跡が見えて決して綺麗とは言えない格好だった。
その男、森人のアイトールは上手く運ばない状況に当惑していた。
「だから、直接渡して欲しいんですよ!」
「アイトール……いくら何でもそれは無理だ。俺はお前をよく知ってるから、変な物じゃないのは分かってる。だが、いきなり来て殿下に直接とは簡単じゃないこと位理解出来るだろう?」
先程から似た様な押し問答を繰り返している。
アイトールは生真面目な気質が災いしたのか、愚直にロザリーの要望を通そうとする。守衛たちもはいそうですかと認める訳にはいかない。話は平行線を辿るしか無く、時間だけが過ぎていった。
「……そうだ! クインさん、いやクイン様なら駄目ですか? せめてそれぐらい……」
「呼びましたか?」
アイトールや守衛からは柱が影となって、丁度見えていなかった。その凛とした声音は煩くしていた彼等の耳にも届き、全員が慌てて顔を向ける事になった。
「クイン!」
年配の守衛は顔見知りなのだろう、その声の持ち主が良く知る女性だと分かった。
柱から顔を覗かせたのは、袋を抱えたクインだった。袋からは果物が顔を出しており、買い物帰りなのは一目瞭然だ。リンディアでもかなりの重要人物なのだが、本人は一侍女でしかないと譲らない。昔の侍女は買い物などしなかったが、今の時代は侍女も下働きするのは当たり前だった。
アイトールはクインを勿論知ってはいたが、こんな近くで見るのは初めてで体が緊張で固まった。
「ああ、アイトール……こいつは森人なんだが、殿下に直接手紙を届けたいらしくてな。手続き上確認が入る事を納得してくれない。その説明をしていたんだ」
「納得出来ない訳じゃなくて、ロザリーに頼まれてるんですよ! 直接手に届く様にって。無理だったらクイン様に渡すように言われているんです」
「ロザリー様に? 確か今は隊商の旅でリンスフィアにいない筈ですね……」
それとわたしに敬称は必要ありません、と付け足すのを忘れないクインだった。
更にクインはアイトールに内容は聞いていますかと問う。美しい金髪に隠れたクインの耳に、緊張しながらアイトールは小声で囁いた。
「聖女様の事です」と。
驚きを一瞬だけ見せたクインは守衛に断りを入れ、アイトールを伴って通用門を潜り抜けて行った。
「この手紙を持ち込んだのは誰だ?」
「森人のアイトール様です。ロザリー様のお知り合いだそうですが」
流し読みをしたアストからは、驚きや歓喜、安堵と焦りが見えてクインも何か予感がした。
「カズキだ……マファルダストと、ロザリーと一緒にいると……」
「マファルダストと? やはりリンスフィアから離れていたのですね」
アストの驚愕や歓喜の理由がよく分かった。それを知った自分もそうなのだから当然だろう。どれだけ探しても見つからないカズキは、何かの目的を持って行動しているとクインは考えていた。
「そのアイトールと話がしたい、城に呼び出せるか?」
「まだ城内に待って貰っています。直ぐにお呼びします」
「いや、こちらから行こう。場所は客間だな?」
「……わかりました」
クインはアスト自らが赴く事に少しだけ小言を言いたくなったが、カズキの消息が知れて焦るのも仕方がないと内心を納得させた。
走る事を我慢しながら、それでも早足で廊下を進むアストの背中をクインは見詰めながら続く。
あれから10日以上カズキの姿を見つける事は出来ず、さりとて大々的に捜索する訳にもいかなかった。主戦派の動きは不気味な程に無く、調査も一部を除き殆ど進んでいない。
アストだけでなく、アスティアもクイン自身ですら沈む心を止める事など出来なかったのだ。アスティアなどは目に見えて窶れ、美しい銀髪も心なしかくすんでいた程だ。この後直ぐにアスティアに報せなければいけないだろう。
「殿下、お待ちください」
その勢いのままドアを開けようとするアストに、苦笑しながらも押し留める。クインはドアを緩やかに三度叩き、僅かな間を置いて開き優雅にお辞儀をする。
「アイトール様、お待たせ致しました。殿下、どうぞ」
中央に据え付けられた巨大な一枚板のテーブルの側に緊張した面持ちで座っていたアイトールは、慌てて立ち上がりガタンと大きな音を立ててしまう。
アイトールからしたら手紙を届けるだけの簡単な仕事の筈が、有名なクインが現れ、更に王城の客間まで通されていたのだ。テーブルに置かれた紅茶と菓子は非常に美味そうだが、手をつけて良いものか頭を悩ませていた。
それでも勇気を振り絞り恐ろしく薄い陶磁器のカップに手を伸ばした時にノック音がして驚き、クインが現れたと思ったらアスト王子殿下が部屋に入って来たのだ。
不器用な男を自認するアイトールは、緊張の余りにテーブルに足をぶつけてしまった。
「ア、アスト殿下! こ、この様な格好で申し訳ありません! 自分は、自分はア、アイトールであります!」
何処か焦った表情のアストに、何か粗相を働いたのかと緊張は最高潮に達した。
アストは余りに緊張しているアイトールを見て、焦る自分を内心笑ってしまう。きっとこの内心を表に出したら、アイトールと変わりはしないだろう。
「アイトール、待たせて済まなかった。それと森人の姿は誇り高いものだ。いつもリンディアの為に尽くしてくれている事を感謝している。私もひとりの騎士でもある、君とはある意味で戦友なのだから緊張などしないでくれ」
アイトールの手を取り、しっかりと握手をした。
「は、はい! 恐縮です……」
緊張しないのは無理だとしても、アストの声音と柔らかな笑顔に少しだけ肩の力が抜けたアイトールだった。
テーブルには入れ直された紅茶が二つ並び、芳しい香りを漂わせている。クインがいつの間にか用意したカップと種類の違う茶菓子だ。当人はテーブルから少しだけ離れた場所に静かに佇んでいる。
「テルチブラーノか……」
最西端と言っていいあの町でアイトールは手紙を預かって来た。十分過ぎる程に信頼の置けるロザリーに保護されている事は、アストに一先ずの安堵をもたらした。
何故マファルダストと共にいるのかは不明だが、森を廻る隊商に同行している以上何か意味があるのかもしれない。思わず考察を深めそうになったアストだが、頭を切り替えて質問を続けた。
「アイトール、ロザリーは手紙の内容は聖女に関するものと言っていたんだろう? 君は疑問に思いはしなかったか?」
「とんでもない! あの方は間違いなく聖女様です! 私や仲間の怪我を一瞬で治癒してくれました。白い光が放たれたと思ったら痛みは消え、意識もすぐに戻ったのです……あの美しい瞳は今から思っても……」
「……待ってくれ、済まない。カズキは……君達の怪我を治したって?」
「……? ええ、はい。我々は狼にやられてテルチブラーノに運び込まれたのです。大勢が見ていたので間違いありません。きっと大変内気で大人しい聖女様なのでしょう。頬を赤く染め我々の礼など要らぬとばかりに、ロザリーの手を引き立ち去ろうとなされました」
内気で大人しい、頰を赤く染め……色々と突っ込みたい描写が多いが、何より重要なのは衆目の集める中で聖女の力を行使した事だろう。
噂は簡単に流れて、リンスフィアに届くのに時間はかからない。最早隠す事は不可能で、意味もないのは明らかだ。
「何より怪我が治って良かった。他に気付いた事はあるだろうか?」
「そうですね……ロザリーは直接アスト殿下に手紙を渡すように念を押していました。何か理由があるのでしょうが、不思議だと感じたくらいでしょうか」
「ありがとう、よく届けてくれた。ところで、聞かせて欲しい……カズキは、聖女は元気にしていただろうか?」
アイトールは未だに緊張は解けてはいなかったが、アストの年齢に違わない優しい質問に笑顔が溢れた。
「ええ、大変元気でいらっしゃいました。可愛らしいお姿で、ロザリーに懐いているのでしょう。まるで仲の良い母娘のようで、こちらまで幸せな気持ちになる程でしたよ」
「そうか……ロザリーに手紙を返したいが、いち早く届けるにはどうしたら良いだろう?」
「それなら間も無くマファルダストの運搬組が出ます。通常の隊商とは違うルートを辿りますから到着は早いですし、彼等に預けるのが一番確実です。この後言付けておきましょうか?」
「アイトール、頼めるか?」
「勿論です。明日にはリンスフィアを発つはずですから、誰かを寄越すよう伝えます」
「助かるよ……少し冷めてしまっただろうが、お茶を楽しんで帰ってくれ。クインの入れたお茶も手作りの菓子も最高だからね」
一瞬だけクインの頬が赤く染まる。直ぐに平静な顔に戻ってアストに余計な事は言わないで欲しいと目で訴えた。
アストはクインに軽くウインクを返して客間を後にする。
「手作り……」
アイトールは思わず呟いて菓子を手に取った。
クインの顔はまた少しだけ赤くなった。
「アスティア、入ってもいいかい?」
ノックをした手をそのままに、アストは声をかける。
暫くすると物音がして、ドアが開けられた。
部屋の中は薄暗く、カーテンが閉められているのが分かる。ベッドに横になっていたのだろう、少しだけ乱れた長い銀髪は力なく垂れている。リンディアの花と謳われる眩しい笑顔も、アストと同じ碧眼も光を放ってはいない。
「……兄様、どうしたの?」
「アスティア、良い報せだよ」
万が一にも他に聞かれる訳にはいかないと、後ろ手にドアを閉めたアストはアスティアの手を取った。目線を合わせる為に少しだけ腰を落とし、真っ直ぐに見る。
「カズキが見つかったんだ。リンスフィアにはいないが、元気にしていると報せる手紙が来たんだよ」
先程まで力の無かった眼に一気に光が宿る。
「何処にいるの!? 直ぐに会いたいわ!!」
アストの胸に飛び込み、上目遣いでアスティアは叫んだ。
「ああ、会いたいな。でも今は遠い場所にいるから、直ぐには無理だ……手紙を読むかい?」
「遠い場所……見せて、手紙が見たい!」
懐から出した便箋に飛びつくように手に取ると、走り出してカーテンを勢いよく開ける。
さっきまでは死と眠りを司る黒神、エントーの加護を失った人のようだった。今は白神の加護を一身に受けた少女の如く、本来のアスティアに戻ったようだ。
ガサガサと音を立て、紙に穴が開くのではと心配したくなる勢いで文字に目を落としている。
カズキの存在はアスティアにとり、どれだけ大きくなっていたのか、アストは優しく妹を見守った。
「良かった、無事で……無事でいてくれて……」
帰ってきたカズキはまるで魂魄の抜けた人形のようだった。主戦派に攫われたカズキに何があったのか今でも詳しくは聞いていない。それでも、どれだけ酷い目にあったのかは想像が付くほどだったのだ。
リンスフィアで起きた聖女の奇跡は、アスティアには必ずしも幸せな事では無かった。
勿論男の子の命が救われたのは素晴らしい事だ。だがアスティアにとっては、カズキが遠い人に感じられ姿まで消した悲しい出来事だった。カズキの行方は杳として知れず、つい先程もベッドでカズキとの思い出に浸っていたのだ。
アスティアの目に涙が滲んで、大事な手紙に一粒だけ落ちた。
振り返ると開け放ったカーテンを整えて、窓を開けるアストの姿があった。アスティアの涙には気付いているだろうが、それを指摘などしない。
「兄様、この御手紙のロザリーって、どんな人?」
最後に記されたサインは、ただロザリーとしか綴られていない。名前から女性と知れる上、その丁寧な文字からは人柄を察せられる。それでも愛する妹を預かる人が気になってしょうがない。
アストはその気持ちを察して、指で優しくアスティアの涙を拭った。
「信頼の置ける素晴らしい人だよ。隊商マファルダストの隊長で、優れた森人でもある。名前からも解る通り、優しくて強い女性だ。ロザリーなら安心出来る、カズキを守ってくれる、それは保証するよ」
アストの力強い言葉は、心からの安堵の溜息をこぼさせた。
「良かった……」
「アスティア、全部読んだんだろう? カズキがまたお酒で騒ぎを起こしたみたいだから、叱らないといけないな」
「……ふふっ、そうね! カズキったら相変わらずみたい、お酒好きの聖女様なんて格好がつかないもの!」
真っ赤になったカズキの顔が手に取るように想像出来て、アスティアは久しぶりに笑った。リンディアの花の花弁は再び開いたのだ。
兄妹は同じ色の瞳を合わせて、もう一度吹き出して笑う。アストを探していたクインも、戻ってきたエリも扉の向こうから二人の笑い声が聞こえて幸せな気持ちになった。
リンディアに久しぶりの笑顔が帰って来たのだ。
ロザリーが届けた報せは、間違いのない吉報だった。




