34.マファルダスト③
銀の月が柔らかな光を大地に届けていた。
カズキのいた世界と違って大気は汚染されていない為に、星々は瞬く事さえなく夜空を彩り続ける。空には薄く雲が流れ空気は澄んでいて、月光のカーテンがまるで風に揺らめいているようだ。
世界が止まったかと錯覚するが、走る道には轍が幾本も走り、馬車に振動を伝えて時が流れているのを感じさせた。
マファルダストが夜にリンスフィアを発ったのは、次の目的地の村との距離のためだ。朝か昼に発つと真夜中に村に入ることになる。それを避けるため丸一日と半分ほど走り、それで朝には最初の村に着く。
道中に短い休憩は入れたが、この夜が明ける頃には村が見えるだろう。周辺には麦畑が一面に広がり、風と月明かり受けてサワサワと音を届けていた。カズキが齧ったパンの原料はこの畑で生まれたが、本人は見ても分からないし興味もないかもしれない。
「リンド、村に着いたらカード勝負」
ジャービエルは馬上で器用にカードを配るフリをする。定番の酒を賭けてと思ったのだろう、更に呑む格好まで披露した。言葉にした方が早いと思うがそれがジャービエルだった。
「いいですけど、酒ってあるんですか?」
「姐さんが馬車に2、3本忍ばせてる」
まるで秘密の様な表現だが、実際は違う。
森が近づくと流石に深酒はしないが、旅は辛く楽しみの一つや二つは必要だった。ちなみに何本とは小さめの樽で換算されている。 空にした樽は特定の薬草を収めるのに役にも立つ。森人の知恵の一つで、僅かに残る酒精が薬草の劣化を防ぐのだ。
配られる酒は均等で、賭けの対象にする定番だった。
「へー……ならやりましょう!」
リンドは内心勝ったと思っている。無口なジャービエルは喋らない分表情が豊かで手を簡単に読めるし、彼はそれに気付いてない。
今回は楽しくなりそうと、リンドはほくそ笑んだ。
月明かりは少しずつ薄れて、なだらかな丘の稜線が僅かに赤らみ輝き始めた。遠目にも数軒の家屋が並ぶ小さな村が見えて、リンドは少しだけ興奮してくる。リンスフィアを遠く離れるのが初めての彼にとっては、これも冒険みたいなものだった。
見えてからが長いかと思ったが、あっさりと到着した村は思いの外小さい。
「ジャービエルさん、何処に泊まるんですか?」
「此処には泊まらない、買い物したら直ぐに出発」
「えー? カードはどうするんですか?」
「昼には出るから、それまで勝負。景品は夜」
ガックリしたリンドはせめて何か記念に買い物でもしようと周りを見渡したが、悲しいことに商店らしき姿は無かった。この村は麦を育てる数人が住む農家の集まりだから当然だろう。ほとんどが自給自足で、マファルダストと物々交換するのも決まった行程だ。それは隊商に残された本来の仕事なのかもしれない。
先触れの届いている村に姿を見せるのは、その隊商が全滅していない事を報せる意味もあるがジャービエルはわざわざ伝えたりしないようだ。
昼前には大男が絶望感を漂わせる顔でトボトボと馬に向かう姿があったが、マファルダストの森人達はまたかと声を掛けたりはしなかった。ちなみにジャービエルの弱点を誰も教えたりしない。
短い時間で村の滞在は終わったが、リンドが馬上の人となったとき村人達が見送りに来た事が印象に残った。リンドは旅人気分を味わえて機嫌は上々だ。
「いやあ、良い人ばかりですね!」
ジャービエルの暗い顔も気にせず明るい声を上げる。
「……今夜の楽しみが無くなった」
流石に可哀想になってきたリンドは夜は少しだけ負けて上げようと決める。あくまで少しだけ。
「夜にもうひと勝負しますか?」
コクンと頷く大男は全く可愛くないが、可哀想なのは良くわかった。
「今夜は野営地でしたよね? いやあワクワクする!」
新人の森人は持ち前の気性で全部が前向きだった。
「丁度いい時間だね、皆お疲れさん! 野営組は準備を始めておくれ!」
その声は夕方の空気に響き、割り振られた仕事を皆がテキパキと始める。街道に沿って平坦に踏みしめられた野営地は木製の柵に囲まれ、マファルダストの一行を迎え入れた。近くには小さいが小川も流れ、馬たちは喉を潤している。
ロザリーは丘に登るために馬車から離れた。雲の形と流れを見て明日の天候を予測するためだ。イオアンから教わった知識は多岐にわたり、雲や風を読むのも隊長の大事な仕事だった。
じっくりと空を眺めたが、当分は崩れそうにない空に安堵を覚えて軽く息を吐く。そうして野営地に視線を落としたロザリーに不思議な光景が目に入った。
野営地から距離を置いていた事で、最後尾にある幌馬車から顔を出す子供らしき姿が見えたのだ。おそらく他の者は気付いていない。なぜ子供がと丘を下り始めたが、縁に手をつき嘔吐しているのを見たロザリーは丘を下る速度を上げた。
やはり自分以外は気付いていないらしい……最後尾の馬車ということも手伝ったのだろう。右手を口に当てた子供の姿が少しずつはっきり見えてくる。再び地面に何かを吐き出したのは、どうやら女の子のようだ。黒っぽい髪は元気なく垂れて表情は見えないが、細い腕や縁に押し当て潰れた胸はロザリーの予想を証明している。
何かの病気だろうかと心配になったロザリーが馬車に近づくと、その少女はグッタリと馬車に寄りかかっていた。
「あんた、大丈夫かい!?」
だが、そのロザリーの優しい言葉と気持ちは一瞬で呆れへと変わる。酷く酒臭いのだ。
「はあ?」
思わず呆れ果てた声が溢れるのを誰が責められようか……クインやアスティア達がウンウンと頷くのが目に浮かぶようだ。
「……何処で忍び込んだんだい……おまけに酒まで飲んで……」
両肩に手を掛けて少女の上半身を起こしたロザリーは、いくつもの理由で言葉を失った。
一つ目は少女のあまりの美しさに、そして赤らんだ頬がそれに色気さえ加えている。薄っすらと開けられた眼は綺麗な翡翠色で、角度によって色の深みが変わった。
二つ目は着ている服の状態だ。あちこちが破れ、裂けている。素肌が露わになり女性であるロザリーでも思わず見入ってしまう程だ。元はワンピースなのだろうが、原型は留めていない。左手にはまだ新しい包帯が乱暴に巻かれて血が滲んでいる。
三つ目は見覚えがある少女だからだ。騎士団のケーヒルと会っていた時にアストが現れ、連れ歩いていた俯く侍女と同じ顔が目の前にある。なかなかお目にかかれない美貌は強く印象に残っていた。あの時髪は見えなかったが、こんな珍しい黒色は見た事がない。
そして四つ目は首や肩、チラリと見える胸元、切れ切れになったワンピースの隙間から見える黒い模様と文字の数々だ。これは誰が見ても刻印だろうが、常識である刻印の数に全く合致しない。二つが限界とされる刻印が身体中に散りばめられているのだ。
完全に酔っているのだろう……息遣いは荒く、今にも眠ってしまいそうだ。先程の嘔吐が原因か口元もヌラヌラと濡れ、薄く引いたであろう口紅も落ちかけている。
余りに情なくも衝撃的な姿に動揺したロザリーも漸く落ち着いてきた。
「全く……なんだいこの娘は。どれだけ飲んだのやら」
馬車の中を見て再び腕に抱えた少女の顔を見た時、ふと思い出した。
「確か……最近噂で……黒髪で翡翠色の目、身体中に刻まれた刻印……」
勿論噂を信じてなどいなかったが、腕からは少女の高めの体温が感じられて嫌でも現実だと知らせてくる。
「聖女……か……」
耐えられなかったのだろう眠ってしまった少女、いや聖女を見て呟く。
「どうすんだいコレ……」
少しずつ暗闇に落ちていく野営地はロザリーの声に応えてはくれなかった。
途方に暮れていたロザリーだが、陽が落ち気温も下がり始めた事で我に返った。
腕や胸に感じていた少女の体温が、少しずつ低くなるのがわかったからだ。決して寒い時期ではないが、腕の中の聖女さまは薄着に過ぎるのだから困ったものだ。
「兎に角何か毛布でも……」
誰かに声を掛けようと口を開きかけたが、扇情的な少女の姿を見て思い止まった。酒に酔い眠りについた恥ずかしい格好の聖女を男達の目に入れるわけにいかない。何人か食事等の世話役に森人の妻達がいるが、近くに姿が見えない以上自分が行くしかないだろう。
聖女を馬車の中に押し込み着ていた上着を掛けたロザリーは、自身の背負袋に入っているマントを取りに歩き出した。なんでこんな事をと内心愚痴をこぼしていたが、同時に何処かで感じた暖かい気持ちに少しだけ戸惑っている。酒のせいもあるだろうが、子供特有の高い体温は未だ腕に残っている気がした。
野営地にはマファルダスト一行しかいないため、かなり広範囲に皆が散らばっている。薪が燃える火もいくつか見えて周囲を明るく照らしていた。西は薪が多く手に入る地域だからこその贅沢だ。南はこうはいかないだろう。
荷台に積んであった背負袋からゴソゴソとマントを取り出しているロザリーの背中に声が掛けられた。
「姐さん、どうしたんです? 今夜それはいらないでしょう?」
フェイの声に答えようとしたが、どう説明したら良いか分からず後回しする事に決める。
「ああ、ちょっとね……後で話すから待ってておくれ」
そう言ったロザリーは再び馬車の最後尾に向かった。フェイは律儀にその場で待つようだ。
ロザリーはもしかしたら幻でも見たかもねと幌をゆっくりと開けた。しかしそこには変わらず少女が横たわっていて、上下する胸が間違いなく目の前にいると訴えていた。
「幸せそうに寝て……酒癖の悪い聖女なんて、皆が聞いたらガッカリするよ」
掛けてあった上着を取って自分の袖に通し、持ってきたマントで頭から足まですっぽりと包む。まるで産着をきた赤子みたいで笑いを誘うが、残念ながらこんなに大きな赤ちゃんはいない。
ロザリーは両腕を膝裏と背中に入れて持ち上げると、軽いねと思わず呟いた。
「姐さん、それは……」
「私も知らないよ、何処かで忍び込んだのだろうさ」
ロザリーが抱える物体を見たフェイは二の句が告げなかった。顔だけちょこんと覗くそれはフェイにも少女と知れたが、この様な危険な旅に子供を連れ歩く馬鹿はいない。
「フェイ、ちょっとこっちへ」
皆から見えない馬車の影にフェイと隠れると、ロザリーは何処か弾む様な声をあげた。
「街で最近流れてる噂知ってるかい? 黒髪の……」
「聖女降臨ですか? そりゃ知ってはいますが……」
フェイの仕事の中に情報収集もあるため、最近妙に流れ出したその噂は当然知っていた。同時に信じてもいない。苦しい時代には時折そういった救世の話が流れるものだろう。酷いのでは魔獣こそが人に遣わされた救いなどと喚く馬鹿げたものまである始末だ。
「これ、聖女」
「はい?」
フェイはポカンとしたが、ロザリーのニヤケ面に冗談だろうと呆れた顔に変わる。
「なあ、噂の中身を教えておくれよ」
「はあ……珍しい黒髪で、翡翠色の瞳、美しい顔と身体に刻まれた刻い……ん……」
ロザリーは少女の肌が露骨に見えない程度にマントを少しずつ避けていく。ご丁寧にフェイの言葉に合わせて順番にだ。流石に眼だけはどうにもならなかったが、首の刻印を見せた時には呆れた顔は驚愕の色に変わった。
「ちなみに眼は綺麗な翡翠色だったよ、さっき見たから間違いない。裸にする訳にもいかないけど、刻印は身体中にある」
何故かしてやったりの顔をしたロザリーからとどめが刺された。
ピューと風が吹き抜けてフェイとロザリーを冷やかしたが、聖女さまの黒髪が揺れるのを二人はしばらく見つめているしかなかった。




