27.妄執の行き着く先⑥
「この後はどうするんだ? 聖女の力は分かったが、それをどうやって使うかだろう?」
ボイチェフすら奥の部屋に放り込み鍵を閉めたディオゲネスは、ユーニードが白仮面を外すのを眺めて言った。
「ああ、まず聖女はその辺の治癒院にでも捨ておけばいい。殿下から捜索の指示が出ているだろうからな。お前は見つからないよう注意してくれ」
「それで?」
「噂を流す。聖女が降臨した、王家が魔獣への反撃を準備している、復讐のときは近い、そういう噂だ。ついでに黒髪の美しい少女で、刻印が刻まれた神の使徒だとな」
王家は世論に圧されて座してはいられないだろう……そうユーニードは締めくくった。
「なるほどな、なら俺の原隊復帰を急いでくれよ。魔獣の前にさえ立たせてくれたらそれでいい」
「わかっている。しっかりと剣を研いでおけ」
気を失っているカズキを前に二人の話は淡々と進んでいく。
「ディオゲネス、奴等はどうするんだ?」
奴等とは扉の奥にいる者達だろう。ボイチェフもその一人に数えられていたが、この二人は最早気にしてもいない。
焦げ茶色のザンバラ頭を掻きむしりながら、ディオゲネスは質問に質問を返した。
「聞きたいのか?」
「……いや、やめておこう」
「ああ、それが賢明だ」
「……我らはヴァルハラに行く事もないだろう。神の御使いたる聖女すら貶めたのだ。だが、魔獣を道連れに出来ればいい」
ユーニードは少しだけ正気を取り戻した様子を見せたが、全ては終わりそして始まってしまった事だ。
止められないし、止める気もない。
ーー森との戦いは近い。
リンディアから見る地平線が少しずつ淡く色付いていく。闇が払われて朝を知らせているのだろう。
アストは城に辿り着いていた。
まだ戻る気など無かったが、フラつく姿を見たケーヒルが無理矢理連れ帰ったのだ。
体は睡眠を欲しているが、頭は冴えたままカズキの幻影を見せてくる。アスティア達は報せを待っているだろうが顔を見せたくなかった。酷い顔をしているだろうし、不安を煽るだけだろう。
花壇の側にあるベンチに座ると、眼には少し先にある庭園が映った。カズキを横抱きにして渡った飛び石も大木も見える。その大木の下でカズキがこちらを見ている姿を幻視して、思わず頭を抱えてしまう。
脂と汗で重くなった髪は、時の経過を意識させてアストをより深く強く苛んだ。
「カズキ……何処に……どこにいるんだ……」
これ程の焦燥も、怒りも感じた事などなかった。
魔獣に対してすら覚えはないのだから……
ベンチから動く事も出来ずに地面を見ていたアストにケーヒルの声が聞こえて来た。それは幻聴などではない確かなもので、ボヤけた意識を浮き上がらせる。
「……下!……殿下! ジョシュから報告がありましたぞ! カズキが見つかったと……!」
「……!! っどこだ!? 無事なのか!?」
アストは勢いに任せて立ち上がり、走りくるケーヒルに声を荒げた。
「……命に別状はありません。ただ……」
「……只、只どうした!?」
「怪我をしているようです……意識も戻ってはいないと。外円部西街区の治癒院から報せがありました」
「……くそっ!」
アストは疲れなど無かったかの様に、全力で走り出した。
治癒院の前には馬が数頭、騎士も待機していた。人数こそ少ないが野次馬らしき住民の姿も見える。
「殿下!」
扉の前にいたジョシュが、馬が止まる前に飛び降りたアストに呼びかける。
「ジョシュ! カズキは!?」
若き王子の只ならぬ形相に住民達も驚きを隠せない。街で出会えば手すら振り、皆に笑顔で接するのが当たり前だからだろう。やはり運び込まれた少女はアストの大事な人なのか、カズキと言う珍しい響きの名前も手伝って印象を強くした。
「こちらへ……今は眠っています」
早朝だからだろう、処置室らしき広間には人影はなかった。
ジョシュは無言のまま誘導して、廊下の奥の一室を目指して歩く。木の床は足音を響かせたが、アストは焦る気持ちをそのままに歩を進めた。開いた扉の先、ベッドに横たわるカズキの姿を見て早足で近づくと、小さな手を両手で包んだ。
「カズキ……」
左手には巻いたばかりの白い包帯が目に入った。衣服は黒の間にあるようなものではなく、治癒院の貫頭衣だろう。カズキの小さな身体には合っていないため、まるで白いシーツで包まれているようだ。
両手の中でカズキの体温を感じる事が出来たアストは漸く落ち着き、直ぐ側に人が立っているのが分かった。
「殿下、こちらがカズキを見つけてくれた方です」
ジョシュはそれを見計らって横に立つ女性を紹介した。年老いた老婆だが、矍鑠とした立ち姿と優しい眼差しで二人を見ていた。真っ白な頭髪を後ろでまとめ、やはり白の白衣を羽織っている。皺くちゃの顔や手には人生の厚みが見えて、誰もが尊敬の念を抱くだろう。
「治癒師殿、失礼した。挨拶もせずに……」
「構いませんよ。アスト様にとって大事な方なのでしょう? 御心配は尤もな事ですから。わたくしはここの治癒師をしておりますチェチリアと申します」
チェチリアと名乗った老婆は、優しい眼差しと同じ暖かい声音でアストに返答を返した。
「そう言って貰えると助かる。チェチリア殿、済まないが状況を教えてくれないか? カズキは、この娘は大丈夫なのか?」
「アスト様、チェチリアとお呼び下さいね?」
やはり優しい声でアストに答えて、ニコリと笑った。皺くちゃの顔なのに何故か若返って見える不思議な笑みだった。
「今朝治癒院の前に横たわっていたんです。怪我をしていましたし、周りには人影もなかったので中に運び込んで簡単ですが処置をしました」
「……そうか」
「外傷は左の掌、腕、左大腿部、いずれもナイフ等のキズです。それと両腕には鬱血の跡が……縄状のもので縛られていたのでしょう。腹部の両側にも擦過傷がありましたから身動きを取れないよう何かに固定されて……」
カタカタと腰に差した剣が震えているのに気付いたチェチリアは、言葉を止めてアストの手を取った。唇を噛み締め、拳は痛い程に握っている。
「ごめんなさいね……アスト様も王子とは言え一人の人間。我等と同じ、か弱き白神の信徒……」
チェチリアはアストはまだ若い青年である事にも思い当たったが、紡いだ言葉は決して消えたりはしない。
「命に関わる様な怪我ではありません。どうか心を鎮めて落ち着いて下さい。それと……女性としての尊厳も傷付けられてはおりませんから」
優しくアストの手を摩り、ゆっくりと時間が過ぎるのを待った。
「……済まない……大丈夫だ、チェチリア」
「貴方様にそこまで心を砕かれるとは、この子も幸せな娘ですね。名前はカズキ……でしたか?」
「ああ、カズキと言う……チェチリアは見ただろう? この子は普通の娘ではないんだ」
「刻印の数々は確かにそうなのでしょう……ですがアスト様。普通ではないなどと言ってはいけません。今は眠っていますが、最初に見つけた時は涙の跡がありました。我等と同様か弱き一人の人なのです。まだ小さな少女ではないですか……あら、フフフ、偉そうな事を言ってしまいましたね」
歳を取ると小言が増えていけません……そう呟いてチェチリアは自嘲して見せた。
「いや、その通りだ……私は何処かで距離を取っていたと思う。もっと寄り添って上げれば、いや寄り添いたいのに」
アストはチェチリアの言葉に素直な気持ちを返した。
窓から入って来た朝日の光の帯が部屋を明るく照らして、カズキの身体を浮き上がらせる。
そこには世界にたった一人の聖女がいたが、アストには一人の愛する女性だと……そう思う事が出来た。
チェチリアから城に連れ帰っても大丈夫だと聞いたアストは、優しくカズキを抱き上げて治癒院を出た。
大きな貫頭衣はカズキの全身を包み、首元の刻印を隠せば只の少女でしかない。それでも柔らかな眼差しや壊れ物を扱う様に抱き上げた姿を見れば、アストの大事な人なのだと理解させる。残っていた住民達は、馬車に二人の姿が消えて立ち去るまで動く事は無かった。
「黒い髪とは珍しいなあ」
「だが見たか? 凄く綺麗な娘だった……アスティア様とは違う美しさだよな」
「遂にアスト様に想い人が現れたんだな。怪我は心配だが、久しぶりに目出度い話だぞ」
「次期王妃か…… 」
アストや騎士達がいなくなった治癒院の前ではザワザワと噂話が花開いていた。
「俺は知ってるぜ、凄い事をな……」
あまり見かけない男が馬車が走り去った方を見ながら呟いている。大きくはなくとも通る声と男が持つ雰囲気に皆が興味を引かれて注目を集める。
「凄い事ってなんだよ、次期王妃以上の凄い事なんてあるのか?」
噂話をしていた住民達の一人が思わず聞いた。
「刻印だよ、刻印。しかも一つや二つじゃないんだ。あれは間違いなく神々に愛された使徒だな……」
「はあ? 刻印だあ? 一つ二つじゃないって、まさか三つもあるってか?」
冗談に皆から笑い声が上がったが、その男は微動だにせずにジッと見つめ返してくる。
「騎士様から聞いたんだよ……アスティア様もカーディル陛下もご存知らしい。ホントかどうかわからないが、黒の間に住んでるんだと」
「黒の間!? おいおい与太話じゃないだろうな?」
「いーや……黒の間は最近別の名で呼ばれるらしいぜ?」
誰かがゴクリと唾を飲み込み、笑い声も完全に消えた。
「別の名って……?」
焦げ茶色のザンバラ頭の男は、同じ色の眼を全員に這わせて答えた。
「……聖女の間、と」
「アスティアに知らせて上げないと……クイン達も心配しているだろう……」
簡易的な馬車のため四人程度しか座る場所はない。アストの向かい側に横たわるカズキの意識はまだ戻らないが、手の届く場所にいるのを知ると安堵の溜息が止まらない。
揺れる床に膝をつき側に来ると、初めて会った時を思い出していた。
「あの時もこうやって君を見ていた。やはり眠ったままで、その美しさに驚いたものだよ」
カズキの頭に手を添え、柔らかでサラサラとした黒髪を撫でて囁いた。
「怖かっただろう……本当に済まない……」
黒髪を優しく避けて現れた額に、アストはそっと唇を落とした。
「聖女だとか刻印とか、そんな事は関係ない。いつの日か私の横で笑顔を浮かべてくれたら……それだけでいい」
チェチリアの言葉はアストの心に小さな変化を起こしたが、それは否定するようなものではない。ただ素直に受け入れて従うだけで良かった。
「最初からアスティアはそうしていた。カズキは手の掛かる妹だと。聖女などではなく一人の人間と認めていなかったのは私だけだった様だな……情けない話だ……」
自嘲は馬車の中に溶けていく。
そして微笑みへと変わっていった。




