2.魔獣と癒しの力
この世界には魔獣と呼ばれる異形がいる。
その異形が現れたのは約三百年前とされ、歪な犬のような造形は見る者に不快感をもたらす。突如として現れた彼らは、ただただ無差別に人を襲った。当初は狼ほどの体躯で、実際よく狼に間違われる事が多かったらしい。しかし、他の生き物には目もくれず人だけを狙うのだ。その理由も生態も謎で、今も殆どの事が分かっていない。普段は森の中に居るらしく、街道や街には近づいて来ないのがせめてもの救いか。
採集のために森に入った者や猟師が襲われる事はあっても、街にいる人々はどこか他人事だったし、森に近い村ですら最初は何かの獣にやられたと思っていた。
当時世界最大と謳われた"リンディア王国"をはじめ、各国それぞれで対応し、誰もがその内に解決するだろうと楽観視していたのだ。だが少しずつ危険が周知されてくると、今まで伐採採集し管理して来た"森"が違う姿になっていった。
森に近い畑や放牧地が放棄され、その一部となっていく。
小さな村から人がいなくなり呑まれた。
王都から離れた小さな町も同様だ。
森を縦断する様に通っていた街道は少しずつ失われ、貿易にも影響が出た頃には遅かったのだ。
森が広がると言うことは魔獣の生息域が広がることと同義。そう、これは魔獣達の侵略だった。
この間、僅か100年足らず。
ここに至り漸く国家間の蟠りを捨てて話し合いが持たれたが、森に隣接していた小国「カズホート王国」が呑まれた頃にはもう全てが始まってしまっていた。
現在の"リンディア王国"は森に囲まれ、分断された他国と情報のやり取りはほぼ無い。幸運にも森を抜けて来た者が幾人かいたが、もう随分と過去のことだ。
肥沃な大地を領地に抱える大国リンディアでさえそうなのだ。もはやどの国も自国を守る事を考えるのが精一杯だった。
魔獣は森から遠く離れた場所に現れる事がないため、まだ王都に直接の影響はない。だが滅びへと少しずつ近づいている事を誰もが感じていた。
○
○
○
口の周りに髭を蓄えた大男。初老に差し掛かりながらも、未だ最強の騎士としてリンディアに名を轟かせている。だがそんな最強の騎士であろうとも、湧き上がる焦燥感を消し去る事は出来ないのだろう。
最強の騎士……リンディア王国騎士団副団長ケーヒルは、四足を踏みしめてこちらに近づいて来る魔獣二匹を睨みつけていた。
勿論勝てなくはないが、この人数では犠牲者が出るかもしれない。何より今日はリンディア王国の王子であり、騎士団長でもあるアスト殿下もいる……ケーヒルはそんな焦燥感に抗っていた。
王国にじわじわと迫る黒の森周辺部の調査に向かう道中での事だ。王都から遠く離れたとは言え、ここは街道にほど近い丘の中腹。森から離れた場所に魔獣が二匹も出るとは完全な想定外だった。
ケーヒルの目には四足歩行でありながらも間違いなく自分より大きな魔獣が見えた。もし立ち上がったらどれだけの大きさだろうか? きっと首が痛くなるほど見上げないといけないだろう。そんな下らない事を考えながら、奴等の状態を確認していく。
異常に発達した前足と胸筋、後ろ足は前足と比べると短いがやはり硬い筋肉に覆われている。獣ならば当然の尾は存在しない。無毛の赤褐色の肌の所為で、そんな事までわかってしまう。
長い牙から大量の涎を垂らす顔面には、遠くからでも分かるギラついた赤い目が光っている。今まで相対して来た魔獣の中では中型というところか。なんの希望にもならないが……
「白神よ。どうか恩恵を我らに……」
頭を僅かに上げ、目を細めて祈りを捧げる。胸中に神々の御姿が浮かんだ。
そう、魔獣が現れるよりずっと昔。白神の加護は身近なものだったのに……
"刻印"と呼ばれる神代文字を身体に刻まれた者達が居る。
加護を授かった者達は使徒となり、時に力が増し偉大な戦士となった。他にも、火の刻印持ちは鍛冶や料理に活かし、珍しい癒しの刻印ならば治癒師となって皆の健康を守ったり、或いはお産婆になる。託宣者など人々に白神の加護を説く者には、慈愛、信念、涙する者など心の在りように影響する刻印もあった。
ただ、今や刻印を……いや、使徒を見る事は非常に稀になってしまった。我が身に刻印があればと、そう考えなくはない。だが戦う事は出来る。身体に刻印は刻まれていなくとも必ず魔獣を屠り、アスト殿下をお守りする……
そうケーヒルは誓い、馬に括り付けていた鞘から剣を引き抜いた。
○
○
○
「殿下! お下がりなさい!」
リンディアの王カーディルから賜われた剣を鞘から抜き、魔獣に立ち向かおうとする王子。そんな気配を感じたケーヒルは声をかけた。アストは確かに剣技に優れた王子だ。騎士団長としても指揮能力を日々磨いている。だが、だからと言って万が一を許せる訳がない。それでも、返答はある意味で予想通りだった。
「ケーヒル、馬鹿を言うな。小隊規模の我々に呑気に眺めている余裕はない。お前は右の奴を頼む、私たちは左をやる」
白銀色の髪を揺らしながら、アストは既に走り出していた。
「殿下! くっ……」
「ジョシュ! 行くぞ!」
「はっ!」
側付の騎士ジョシュもアストに続く。
止める時間も無い。部隊を15人ずつに分け迎撃態勢をとった。
「よし! いいぞっ、焦らなくていい。 少しずつだ!」
剣を振りながら、アストは手応えを感じていた。最初の接敵で奴の片目を潰せたのは大きい。誰の矢が当たったのか分からないが、これならやれる!
魔獣は低い唸り声を上げながら、上半身を少し上げて両手を振り回している。あの爪は厄介だが、剣が折れる程ではない。死角に回り込み硬い皮膚に少しずつキズを付けていく。
思い切り振り抜けばもっと深く入るかもしれないが、その分隙も大きい。焦る事はないと距離を取るよう指示を出し、振り向かずに声を上げて後ろに合図を送った。
「ジョシュ! 弓だ!」
後方で隊形を組んだジョシュ達から即座に矢が放たれ数本も魔獣に突き立つ。そうして聞こえた耳障りな魔獣の悲鳴も、今なら心地良い。幾度かの同様の攻撃でついに魔獣は大きな音を立てて地面に崩れ落ちた。周りの皆も剣を高く上げ雄叫びを上げている。
「殿下! やりましたな!」
普段は寡黙なジョシュも流石に興奮したのか、弓を背中に回し歩いて来ていた。その声を頷きつつ受け流し、ケーヒル達を視界に捉える。
どうやら援護は必要なさそうだった。ケーヒルが魔獣の頭に剣を叩きつけるのが見えたからだ。
その瞬間、アストも漸く肩の力が抜けて自身の剣を下ろした。見渡しても重傷者はいない。小隊で二匹の魔獣相手に損害なしとは上出来だと言える。まだ本来の任務である森周辺部の調査があるが、場所を移して休息を入れるか……この後の段取りを決めて指示を伝えようとしたその時だった。
「アスト様!」
アストの後ろから悲鳴のような声がかかる。慌てて振り向くと、刺さった矢もそのままの魔獣が見えた。半身を起こし、既に持ち上げた右腕を振り下ろそうとしている。
「くっ!」
剣で防ごうとしたが、一度弛緩した精神と腕は思うように動かない。
間に合わない。そう判断した……それとも胸に刻まれた責務と忠義か。直ぐそば、ひしゃげた鎧を外していた騎士がアストの前に躍り出た。
「アスト様、下がり……」
自らを盾とした彼の身体は魔獣の爪であっさりと切り裂かれた。既に上半身は形を留めていない。血が噴水の様に吹き出し倒れた身体を魔獣は踏みつけ近づく。
「よ、よくも‼︎」
魔獣の足の下に隠れた騎士を見た瞬間怒りに震えた。剣を奴の顔面目掛けて振り抜こうとしたのだ。
「殿下! なりません!」
ジョシュはあと数歩のところまで来て、右手を伸ばし叫ぶ。
そして、アストは肩から熱を感じた。
一人呟く。私の剣はどこだ?と。
見ると振り下ろした魔獣の左腕のすぐ下に落ちている。良かった、折れていない……
振り下ろした?
感じていた熱は肩だけでなく右肩から腹にかけて広がっていき、遂には下半身すら力が抜けていく。口の中に生暖かい液体が溢れてくる。思わず吐き出したそれは赤い、酷く赤い色をしていた。
「殿下をお助けしろ!!」
副団長ケーヒルは、その巨大な体躯の通りに戦場へ通る声を張り上げた。しかしそれは悲鳴でもあった。あれは……致命傷だ……騎士としての数多の経験が、知りたくない事実を伝えてくる。
リンディアの王子は魔獣の爪に右肩口から腹に向けて切り裂かれていた。
「ごっ、ごはっ……」
吐血し前のめりに膝をつき、その場に倒れる。泥と血に濡れた地面は衝撃を和らげたが、何の慰めにもならないだろう。
アストに傷を負わせた魔獣は後ろから騎士達に剣を突き立てられもう動いていない。ケーヒルの目の前にいるもう一匹の魔獣も、今事切れたようだ。魔獣に刺さっていた自身の剣は地面に落ちたが、そんな事はどうでもいいと駆け寄った。
「殿下!!」
ケーヒルは必死の形相で駆け寄り両手両膝を泥につく。アストは若い騎士に抱き起こされ上半身を支えられていたからだ。
しかし、投げ出された足は動いていない。
「馬車から治療箱を急いで持ってくるんだ! 早くしろ!」
ケーヒルが言うまでもなく、1人の騎士が丘から離れた麓にある馬車に向け走っていた。
「魔獣の討伐は済みました。直ぐに治療を……大丈夫、このケーヒルも何度も魔獣にやられましたが、こうして生きておりますからな。殿下もすぐに……」
内心の動揺を出来るだけ抑えて、声をかけ続ける。
「ケーヒル……ゴホッ、今までよく……仕えてくれた。皆も、本当に……ゴホッ」
血を僅かに吐きながら、アストは力を振り絞って声を出す。
「父上に、父上に伝えてくれ。どうかお健やかに と。ひと足先にヴァルハラの白神に抱かれる事をお許しください。 妹に……アスティアに……すまないと」
今は亡き王妃に似た美しい白銀の髪も何かの血に濡れ、美しかった相貌も血の気を失っている。そして、口元は赤く染まっていた。
「殿下……殿下、おやめください……」
ケーヒルが泣く姿を見るのは初めてだ。冷やかしたかったがやめておくか。戦場で鍛えた身体と命はすぐに尽きないだろう……そんな事を思うアストも戦士だ。このキズでは助からない現実を当然に悟っていた。
先ほど命をかけて盾となってくれた騎士には申し訳ない終わりだ。 ヴァルハラで謝らなくては……彼の名前はなんだっただろうか? 聞きたくても、もう声は出せそうもない。 残された妹は悲しむだろう。父上は涙を流すだろうか……リンディアの民が、愛する美しい王国が、魔獣に蹂躙されてしまうのか。まだ戦いは終わっていない、人々に平穏は訪れていないのに。
そうだ……まだ死にたくない……誰か、助けてくれ! まだやらなくてはならない事があるんだ! 皆を、皆を守らなければ……
種々の想いが駆け巡ったアストは、僅かに身じろぎして瞼を上げる。
あれは……?
誰かが近づいて来るのが見えた。ケーヒル達も気付いていない。他の騎士か? いや、子供だろうか? なぜ1人でこんなところに……右腕は上がらない、左手を無理矢理動かして皆に伝える。ジョシュが後ろを振り返り、漸くその子供に気付いたようだ。
助けて上げてくれ……アストは心の中で願った。
○
○
○
「ケーヒル副団長。あれを」
ジョシュはまっすぐ歩いてくる子供らしき姿を指差しケーヒルに知らせる。治療箱から清潔な布を何枚も出して、アストの身体から止め処なく流れる血を拭っていたケーヒルも初めてその子供に気づく。
「子供? 女の子か?」
肩まで伸びた髪は確かに少女に見える。真っ黒なのは何かの汚れだろうか? 実際に泥か土で汚れたボロ切れのような貫頭衣を着ている。裸足で露出しているであろう肌も同じく泥だらけだ。唯一の色は瞳の深緑だろうか。もうそれが分かるほど近くまで来ていた。
「君。 止まりなさい」
今日初陣となった若い騎士ノルデが静止の声をかける。近くに来たからわかるが、少女の目はアストだけを見ているようだ。周りの事やノルデの声も無視して同じ歩調でただ近づいてくる。直ぐ側に倒れている魔獣にも全く目をくれない。騎士でもなければ、例え死んでいる様でも怖ろしくて動けないものだ。
全員が異様な空気と圧迫感を彼女の小さな体から感じている。
そしてアストの怪我と大量の流血に気付いたのか、急に身体を震わせ駆け足で横を通り抜けようとした。
「おいっ!」
慌てたノルデは思わず剣の柄で少女のこめかみを殴りつけてしまう。避けることも出来なかった彼女は振らついて地面に両手をついた。切れたのだろう右眼の上辺りから血が流れ出てポタリと落ちる。
「ノルデ! 止せ!」
ケーヒルが叫ぶ。
「あっ」
倒れ込んだ少女を見て、ノルデは戸惑いの声を上げた。
「す、すまない。大丈夫か?」
しかし其の問い掛けに答えない少女は、手や膝が魔獣の血に汚れるのも全く気にせず、アストの足元までベチャベチャと這い寄った。そして両手を傷口の両脇に置き、瞬きすらせずに流れ出る血を見ている。
アストも薄れる意識を忘れて少女を見た。
同じく唖然としていたケーヒルは我に返り、髭を震わせて声を掛ける。
「心配してくれているのか? 」
彼女の両眼には僅かに涙が浮かび、そして酷く焦燥している様子だからだ。
だが、驚くのはこれからだった。
目の前の少女はおもむろに横を向き、布を切り裂くために使っていたナイフをケーヒルの足元から拾った。
「お、おい。 君、それは危ないぞ」
その問い掛けにすら答えず、ナイフを右手に持つと自分の左の掌に戸惑う事なく突き立てた。それは余りに唐突で戸惑いすらなかった事で、誰も止められなかったのだ。
「なっ……!」
少女は痛みを堪えているのか、泥と血で汚れた顔を歪ませながら、しかし悲鳴も声さえも出さず抉るようにナイフを動かして引き抜いた。掌だけでなく手の甲からも血が溢れ出ている。
貫いたんだと誰もが思った。
そして血で真っ赤に染まり始めた掌を拭う事もせず、アストの傷口付近に押し当てた。さっきから酷く不遜な行動なのに、どうしてか誰一人として止められない。
「うっ……」
アストも痛みで思わず声を上げたが、次の瞬間には周りの騎士達も声を出す。
押し当てた掌と傷口の間から白い光が漏れ出してきたのだ。少女は手を傷口に沿ってゆっくりと動かしていく。
まさか、傷口が塞がっていく? そんなこと有り得る筈がないのに……一人残らず絶句するしかなかった。
右肩の傷が塞がったあたりで、少女は一度手をアストの体から離した。
少しはっきりしてきた意識で彼女の顔を見ると、辛そうな泣きそうな目でアストを見返して来る。そして首を縦に振り頷くと、再びナイフを右手に持った。
「まさか⁉︎ よせ‼︎」
アストは先程まで出なかった声を振り絞ったが、間に合わない。今度は左手首にナイフを押し当て一気に縦に切り裂いたのだ。流れ出る血にはやはり目もくれず、再び左手を傷口に押し当てると、何の声も上げずに少しずつ動かし始めた。
アストもケーヒルもジョシュも、そして周りの騎士達も止めなければと思っている。なのに体が動かない、いや動かせない。
そうしているうちに少女は意識を失ったのか、アストに寄りかかり抱き着くように眠ってしまった。少女のこめかみの出血はもう止まっていたが、少し腫れ上がり痛々しい。
全てがいきなりの事で、結局誰一人として声を上げるも出来なかったのだ。