11.聖女の目覚めと脱走 その顛末③
ヤトの声が頭に浮かんでは弾けて消えていく。
ーー癒し、慈愛は間違いなく君の力だ
ーーその二つは、決して裏切ったりしない
ーー世界を救ってほしい
ーー君の救いの道にも繋がっているかも知れない
ーーそう信じている
俺の目の前には脇腹から血を流し、脂汗を流しながら小さく呻いている20代であろう男がいる。縦に二本に裂かれた脇腹は縫合も難しいだろう。縛り付けた当て布は真っ赤に染まり、その役目を果たしていない。ポタポタと溢れた血が流れ、彼の命が地面に吸われていくのが見える。
この傷痕には何故か覚えがある。あの赤い化け物達だろう。
さっきまで夢の中にいる様にボヤけた思考の中にいたのに、今は自分が何をしたいかよく分かる。
目の前の彼を助ける、化け物の餌食になんてさせない。
いや、本当にこれは俺の意思なのか?
俺はなんでここにいる?
そんな事はどうでもいいだろう。誰かが泣いている、苦しみを覚えている、痛みに蝕まれている。
それが消えてなくなるなら、凄く嬉しい。
右手を見ると良く切れそうな鋏がある。左手にはナイフ、こっちはあまり切れそうにない。
ナイフは置いておこう。
典薬医見習いのクレオンは、この夜の不運を嘆いていた。
明るいブラウンの癖毛、さっきまで寝ていた顔には目ヤニすら付いたままで、垂れ下がった目尻と合わせて泣き出しそうな少年のようだ。真っ赤な両手は震えて止まりそうにない。
昨日の晩。行きつけの小さな店で典薬医見習い達とワインと肉詰めを味わいながら、上司である典薬医長のグチをどれだけ多く言えるかを競い合ったのだ。早朝に帰宅したクレオンは、ついさっきまで惰眠を貪っていたところを典薬医助手の老女に叩き起こされ、休息日の筈の治癒院に連れて来られた。
聞けば、王都から程近い南部の森近郊で大規模な戦闘が行われ、多くの死傷者が出たらしい。
森に程近い南限の街センや、王都リンスフィアにある治癒院や治療医では間に合わず、来る筈のない城のすぐ側のここまでが戦場に選ばれてしまった。
目の前には鎧が砕かれて意識のない騎士がいる。木で組んだベッドの周りは足元まで滴った血で濡れて滑りそうになる。あと3人いた怪我人はこちらで対応出来ずに他へと運ばれていった。それでもまだ一人、外には台車に乗せられた騎士がいる。
クレオンは思う。
そもそも典薬医とは治療医とは違う。薬草や霊芝、樹液や虫などを薬に煎じ、患者に与えて治癒を促すのが仕事だ。
しかもその対象は王族やそれに準ずる貴き人々が中心なのだ。騎士達も勿論大変尊敬すべき人々だが、そもそもこんな事は習ってもいない。ましてや自分は見習いで、ここには助手の老女と二人しかいない。他の見習い仲間はどこに行ったのだ?
「クレオン先生! 」
老女に声を掛けられて驚いたクレオンは、手に渡された巨大な鋏を思わず受け取った。見た目は造園に使う植木鋏だ。
「え?」
「クレオン先生、鎧を外さないとどこを怪我してるのかも詳しくわからんでしょ? 繋ぎ目を切って外して下さいな! まだあと一人外にいるんですよ、早くしないと!」
「あっ、はい」
鎧を繋ぎ合わせている革紐や、細い金属の板を言われるがままクレオンは切っていく。なんとか上半身の鎧の繋ぎ目は切れた様だ。赤色に変わった鎧を両手で持ち、上に引き上げ様としたが……何かが引っかかっているのか外れない。無理矢理引っ張ると騎士の体も僅かに持ち上がってしまう。
「おかしいな?」
クレオンは切り忘れた箇所があるのかともう一度見渡すが、それは無さそうだった。
「クレオン先生。あれ……」
助手が指を指す方向は、もう一人がいる玄関先だ。
「ん?」
もう一人の騎士がいる台車のすぐ側に、黒っぽい服を着た少女が佇んでいる。いや薄暗いし青色だろうか? 左手からは何かの液体がポタポタと落ちていて、顔は俯き髪すら暗闇に溶けているのか良く分からない。
はっきり言えば怖い。あれが噂に聞く亡霊だろうか? いや、宙に浮かんだりしてないしあの騎士の親族か何かか……? クレオンはそんな考えに至って、それでも震えながら声を上げた。
「おっ、おい!」
その少女は今気付いたかの様にこちらを見た。クレオンは想像を遥かに超えたその美しい相貌に驚く。しかし鎧を持ったままの手の先で騎士が呻き始めた事で、自分が何をしなくてはいけないのかを思い出した。
「は、早くしないと……」
騎士の方に顔を向け直して、力を思い切り込めて鎧を引っ張った。
しかし鎧が取れた瞬間、腹部と肺辺りから大量の血が溢れ出してクレオンの白い前掛けを赤く染めてしまう。
「しまった! 変形した鎧が内臓に刺さっていて……血で呼吸も出来なく……」
横たわる騎士の口と鼻からも血が溢れ出して来た。酷く苦しそうに悶え始めたのを見ると、もう動く事も出来ない。
ドンッ
柔らかい感触の小さな物体に押されてふらつき、よろけたクレオンはベッドから数歩ほど離れてしまう。瞬間に僅かな優しい香油の香りがして、外にいた少女に突き飛ばされたのだと分かった。
「なにをっ!?」
抗議の声を上げたクレオンは、少女を見て固まった。
その少女は戸惑う様子も見せず、騎士の口に自身の小さな唇を押し付けたのだ。いきなり何をと思ったすぐ後に、行動の意味が分かった。
少女はその口で溢れた血を吸い出しては床に吐き出し、また唇を当て吸い出し、それを何度か繰り返し始めたのだ。不思議な事に肺辺りに置いた左手からは白くて淡い光が溢れている。
余りの衝撃で動けないクレオンと老女が見守る中、今度は腹部にその美しくも血に汚れた顔を押し当てて血を吸い出した。今度は何をと驚いた時には、吐き出した血の中から金属らしき破片が転がり出てその意味を悟る。
腹部に溜まる血は決して綺麗なものではない。それを躊躇なく行った少女は、近くにあったあの植木鋏を持ち上げて真っ赤に染まった左上腕に突き刺す。躊躇は無い。
「ひっ」
老女が悲鳴を上げたのも当たり前だ。クレオンもただ呆然とするしかない。
少女は先程金属片を吸い出した腹部に両手を当てて、美しくて深い若葉色の瞳を閉じた。血で真っ赤に染まった顔なのに、その色に陰りは見えないのが不思議なところか。
すっかり暗くなったこの部屋に再び白い明かりが灯った。その淡い光は決して強くはないが、ただただ暖かく優しく少女の手元から漏れ出している。
呼吸が落ち着き、その出血すら止まった騎士を見たクレオンの口からは、自然とその言葉が出るのは当たり前なのだろう。
「奇跡だ……奇跡が起きたんだ……」
クレオンは口から残った血をペッと吐き出し佇む少女を眺める。そして首元に刻印が刻まれている事に今更ながら気付くのだった。
「聖女……黒い髪の聖女……」
疲れたのか、黒髪の少女は騎士の横たわるベッドに腰を下ろして、深く息を吐いた。ベッドの方が少しだけ高く、細い足をぶらぶらと揺らしている。赤く染まった口周りを袖でゴシゴシと拭く様はまるで少年の様だ。
「ほれっ、これでお拭きなさい」
ようやく正気を取り戻した老女は、奥から綺麗な布を持ち出して少女に渡そうと声をかけた。口周りは当たり前に血で赤いままだ。袖で擦った事でむしろ悪化しているかもしれない。
「……?」
だが少女は明らかに分かる疑問符を顔に浮かべて布を受け取り、おもむろに血で染まった騎士の体を拭き始めたのだ。
「こ、これ……! そうじゃなくて……自分をお拭きなさい。せっかくの綺麗なお顔が血で……」
だが少女はそれすら無視して、騎士の体を無心で拭いていく。その自身を顧みない献身を見た二人は思わず両手で口を押さえて、零れそうになる声と涙をこらえるしかなかった。
少女はその腕のキズさえ、二人に触らせる事を拒むのだ。
外に居るあと一人の患者の事も忘れて、二人は湧き上がるそのどうしようもない感情に、ただ翻弄されるしかなかった。
ベッドに横たわっていた騎士が薄く意識を取り戻したのを確認したのか、少女は両足を一度振り上げて台から軽く飛び降りた。
クレオンはずっとその少女を凝視していたから、ワンピースがフワッと舞い上がり見てはいけないものまで見えたので酷く慌てた。細い足や綺麗な太ももに何やら描かれているのも見えてしまった。
固まるクレオンに見向きもせず、少女が玄関に向いた時だった。
黒髪の少女はあたふたと体を泳がし、キョロキョロと周りを見渡すと少しずつ後退りを始めた。見れば何人か玄関から入ってきたようだ。
クレオンは顔を確認すると、驚いて直立不動となる。
「ア、アスト殿下! アスティア様も!」
後ろにはあの有名なクイン女史とアスティアの侍女のエリもいた。アスティアの顔には驚きが、クインは達観が、エリには安堵が見て取れた。アストだけは、怒りや、悲しみ、色々な感情が入り乱れている様にみえる。
起き上がったものの、意識がまだ朦朧としていた騎士はまた、眠ってしまったようだ。
そしてそれも束の間、自身とアスト等の間にいた少女が此方の方に走り出したから更に驚いた。
「クレオン! 捕まえてくれ!」
アストが自分如きの名前を知っている事に感動しながらも、クレオンは命令を忠実に守りその小さな体を抱き止めた。思いの外軽くて柔らかい感触に驚き、危うく放しそうになったが何とか自制する。腕の中の少女が暴れて逃げようとするが、大した抵抗には感じない。 少女は上目に恨みがましい顔で睨んでいたが、幸か不幸か当人は気付かなかった。
「ありがとう、助かったよ」
アストは少女の腕を取り自分の方に引き寄せた。引っ張られた少女は騎士団に引き渡された犯罪者のような顔をしている。
クレオンは彼女が離れて行ってしまった事を寂しく思う自分に気づいたが、その気持ちに蓋をするしかなかった。
クインに少女の手を預けたアストはクレオンに向き直る。
「悪いが此処で何があったか教えてくれないか? 大事な事なんだ」
「は、はい!」
「エリ、消毒用の薬草液と包帯、あそこにある綺麗な綿を取って来てくれる?」
「はいっ」
「クイン、私も何か手伝うわ」
アスティアの言葉にクインも微笑み答えた。
「わかりました。とにかく血を拭き取って上げないと可哀想です。濡らした布を取ってきますから、アスティア様はこの子の側にいて、怪我している方の袖を捲って固定して下さい」
「分かった」
クレオンはそんな少女と動き始めたアスティア達を見て、今更ながらにこれはマズイのではと思った。
口の周りは血が付いていて、袖で拭いた事でより壮絶感が増し、首元まで垂れた跡がそれをより強くしている。左の掌と腕には刃物で傷付けた痛々しいキズがあり、すぐ側には凶器であろう巨大な鋏が落ちている。まるで暴漢にでも襲われたかのような同情心を酷く煽る姿だ。美しい容姿がそれにより拍車をかけている。しかも少女はまるで罠に捕まり猟師に囲まれた兎の様に悲壮感を漂わせた表情すらしていた。
少女の姿を客観的に見た場合は、そうなる。
「ちっ、違うんです!」
悪さをした馬鹿どもの殆どが言う台詞を、クレオンは吐いた。
少女の周りに戻っていたアスティア達女性陣の目線は、どこまでも冷たい。そう感じる。
クレオンは美しい少女との出会いの幸運と不運に天を仰いだ。